09 白百合は舞台を降りて
「ふわぁ……緊張しましたぁ……」
すべての参加者を見送ると、エレナは控室に戻り、アシュレイの存在も気にかける余裕なく、ソファに身を投げ出した。
「……アシュレイさん、今だけは大目に見てください。
二年ぶりに人前に出て、もう、くたくたなんです。」
エレナは、キビタキの仮面をそっと外し、テーブルの端に置いた。
そのままソファに身を預け、毛布のようにクッションを抱えながら、モゾモゾと身体を丸める。
「サロンは本当に楽しくて、有意義な時間でした。
でも……私、昔からこうなんです。
うまくやれたはずなのに、後から「あそこがダメだった、ここもヘンだった」って粗探しして、
一人で床を転げ回って悶えるタイプなんです。
今だって、こうして平気な顔をしてるけど、心の中では“懊悩の炎”にじりじり焼かれてるんです……」
言いたいことを言い切ったあとで、エレナはソファに転がっていたクッションを抱え込み、
まるで全てを遮断するように、顔を深くうずめた。
「あー、久しぶりだなぁ、この感じ……。ただいま、自己批判大会を絶賛開催中です。」
エレナはクッションに顔をうずめたまま、くぐもった声でぼやいた。
アシュレイはカラスの仮面を静かに外し、しばらく無言で彼女を見下ろしていた。
そして、おもむろにソファへ歩み寄り、彼女の隣に腰を下ろした。
「君は、ちゃんとやれていた。俺が保証する。」
「ええ、わかってます。ちゃんとできてたって、自分でも思ってます。
でも……ダメなんです、これ、もう“癖”みたいなもので。
気にしないでください。
心が、なんだかザワザワして、落ち着かないんです。」
エレナはクッションからそっと顔を上げ、宙を見つめた。
だがすぐに、サロンでの一幕が脳裏をよぎり、またそっと顔をうずめる。
アシュレイはそんな彼女をしばし見つめ、ふと手を上げた。
一瞬だけためらい、そしてそっと――彼女の髪に触れる。
エレナは一瞬ぴたりと動きを止め、それから、おずおずとアシュレイの方へ顔を向けた。
「君が……あんなに凛々しい令嬢の顔を持ってる裏で、
こんなふうに悩んだりもするんだな。
……なんだか、少し安心した。」
その言葉をどう受け取ればいいのか、エレナは少し迷って、首をかしげた。
「――ええと、むしろ一緒に暮らしてる中で、もっとみっともないところ、見せてる気もするんですけど……?」
「ああ……でも、あの“社交界の令嬢”の顔は、ほんとうに久しぶりだった。」
「久しぶり」という言葉に、エレナはどこか引っかかりを覚えた。
けれど、問い返すほどの気力も湧かず、ただ黙って、彼の手のぬくもりを受け入れていた。
「お疲れ様。――あ、いいのよ、そのままで。
やっぱり貴女は変わらないわね。人前に出たあとは、いつもこんなふうだもの。」
控えめなノックの音とともに現れたのは、カタリナだった。
サロンの華やぎをまだ纏ったまま、どこか疲れてはいるものの、満足そうな笑みを浮かべていた。
「アシュレイさん、エルフィーナをたっぷり甘やかしてあげて。
その子、昔からそうなのよ。
社交界の“白百合”なんて呼ばれるくらい、所作も美しくて、まるで絵姿。
でもね、一度舞台を降りると――あれが悪かった、これがいけなかったって、延々ウジウジ悩むの。」
「もう、アシュレイさんに変なこと吹き込まないでちょうだい。」
「いいじゃない。貴女が素直に甘えられる男なんて、そうそう現れないわよ?」
カタリナは面白そうに笑いながら、ふたりの向かいのソファに腰を下ろすと、テーブルのピッチャーから水を注ぎ、喉を潤した。
「エルフィーナ、本当にお疲れさま。――そして、ありがとう。
今日のあなた、とても立派だったわ。」
カタリナは、まるで年の離れた姉のように、慈しみを込めてエレナを見つめていた。
「ええ、頑張った……とは思う。
でももう、しばらく人前に出るのは勘弁してほしいわね。」
エレナはサロン後の疲労感で、自分の心の垣根が一段と低くなっているのを自覚しながら、アシュレイの膝にコテンと頭を預ける。
アシュレイは一瞬ビクッと身を震わせたか、その後は何事もなかったかのように頭を撫で続けた。
「もうあなたたちったら……エルフィーナ、ちゃんと気づいてる? それがどういう仕草か。」
「うん、気づいてる。
あー、もう……なんで私、いつもウジウジしちゃうのかな。」
「……ううん、気づいてないわね。
ご愁傷様、アシュレイさん。」
「問題ない。」
アシュレイは、表情ひとつ変えず、涼しい顔のまま答えた。
けれど、その耳の端は、真っ赤に染まっていた。
エレナがひとしきり悶え、ようやく落ち着きを取り戻した頃、
別邸へ戻るための馬車の用意ができたと告げられた。
それまでの間に、彼女とアシュレイはそれぞれ、別邸での装いへと着替えていた。
ふたりは、裏口から人目を避けるようにして馬車へと向かう。
馬車へ乗り込もうとするその時、アシュレイの手を取りながら、
エレナはふと何かを思い出したように問いかけた。
「明日の王都の散策って、どんな格好がいいんでしょうか……。
さすがにこの服じゃ、エルフィーナだってバレますよね……。
馬車も変えなきゃいけないかしら……」
エレナは、公爵家の紋章が燦然と輝く、ひと目で上等とわかる馬車を見上げる。
「そうだな……義姉上に頼んで、変装用の衣装と馬車を手配しておこう。
さあ――お手をどうぞ、お姫様。」
またふざけた口ぶりのアシュレイに、
「……そういうの、やらないんじゃなかったの?」
と少し睨んでみせながら、エレナは彼の手を借りて馬車に乗り込んだ。
やがて馬車は、コトコトと軽やかな音を立てながら動き出し、
街灯がぽつぽつと灯りはじめた王都の街並みの中へと、静かに消えていった。
――え?
路地裏で紳士クラブの仲間と待ち合わせていたマーティン・シュテーベル伯爵令息は、思わず目を疑った。
二年前、華々しく婚約破棄を言い渡し、自らの手で引導を渡したはずの元婚約者が――
見知らぬ男の手を取り、公爵家の紋章をあしらった高級馬車へと、笑顔で乗り込んでいく。
彼女は、見るからに上質なドレスを纏い、その男に、やわらかく笑いかけていた。
――おかしい……エルフィーナは心を病んで、今も領地で静養中のはずじゃなかったか?
マーティンは向こうに気付かれないように、物陰に移動してそちらを伺う。
「明日の王都の散策って、どんな格好がいいんでしょうか……。
さすがにこの服じゃ、エルフィーナだってバレますよね……。
馬車も変えなきゃいけないかしら……」
風向きのせいか、エルフィーナの話し声が、はっきりと耳に届いた。
――そうだ、ザフラーン様はたしか、先月もアゼール伯爵家に書簡を送っていたはずだ。
エルフィーナを、第四婦人として迎え入れたい、と。
妾という話だったのを、あのザフラーン様が“破格の条件”で正式な妻枠にまで引き上げたというのに……
エルフィーナは、なおも頑なに拒み続けている。
マーティンは、先日も苛立ちをこぼしていたザフラーンの顔を思い出しながら、
目の前で見知らぬ男に笑みを向けるエルフィーナに、理由のわからぬ苛立ちを覚えていた。
幼いころからの付き合いだったエルフィーナは、マーティンにとって“よくできた”婚約者だった。
だがその安定感は、いつしか“退屈”にも感じられるようになっていた。
成人して間もなく、悪い友人に誘われて足を踏み入れた“紳士クラブ”。
王都の若手の男性貴族や商人が集まる、アングラな集まり。
そこで知ったさまざまな“火遊び”が、マーティンの中でくすぶっていた不満に、火をつけた。
そんなある日、クラブの重鎮から声をかけられた。
ファリド・ザフラーン――王都を牛耳る大商会の主で、“商人の王”とまで呼ばれる男だ。
年の頃は三十そこそこに見えたが、当時十七、八だったマーティンの目には、彼はまるで別世界の“大人”のように映った。
「君の婚約者……たしか、エルフィーナ・アゼール嬢だったね? あれは実に気に入った。
どうもね、私はあれを“運命”だと思っていて――うん、君には少し荷が重いんじゃないかな?
代わりと言っては何だが……シャルロッテ・ド・ラルシュを紹介しよう。知っているかい?
ラルシュ子爵家の令嬢、クラブでも評判の、あの若者の妹さ。
クラブでの君の地位も――そうだな、それも含めて、話を進めることはできる。」
マーティンが迷ったのは、ほんの一瞬だった。
ラルシュ子爵家は、家格こそアゼール伯爵家に及ばないが――
自領に魔石鉱山が見つかって以降、いまや王都でも指折りの新興富豪となりつつある。
跡取り息子のクラウスは、最近クラブ内でもぐいぐいと勢力を伸ばしている。
そして何より――その妹、シャルロッテは、誰もが振り返るほどの華やかな美人だった。
それからマーティンは、あの手この手で画策を重ねた。
婚約中でありながら、ザフラーンの意を汲み、エルフィーナを“献上”しようとしたことも、一度や二度ではなかった。
最終的には、派手に婚約を破棄し、彼女の経歴に決定的な傷をつけた。
さらに、ザフラーンが彼女に舞い込むであろう縁談を片っ端から潰し、妾として転がり落ちてくるのを、今か今かと待ち構えていたのだ。
――なのに、エルフィーナが……新しい男と、笑って?
マーティンは即座に計算した。
彼女が回復し、王都に戻ってきたことをザフラーンに“報告”すれば、どれほどの褒美が得られるか――。
――待てよ……明日、あの男と王都を散策するんだったな。
そのとき、俺が先回りして、彼女を“確保”し、ザフラーン様へ直々に献上すれば……
馬車が去ったあとも、マーティンは道の先をじっと見つめたまま、
頭の中で、淡々と胸算用を続けていた。