07 仮面の下のときめき
王都に到着した翌日、カタリナは用事があるとのことで、朝早くに公爵家の本邸へと帰って行った。
この日のエレナたちの予定は、休養と明日のサロンへの準備である。
午前中はのんびり過ごし、午後からは衣装合わせと、カタリナが手配したエステが待っていた。
別邸に滞在する間はドレスを着て、令嬢としての勘を取り戻しなさい。とのカタリナからのお達しで、エレナは久しぶりにドレスに袖を通した。
「うぅ――、コルセットって、こんなキツかったかしら……それとも、隠遁生活で太った?!
いや、令嬢時代よりも、食べるものは質素だし、お菓子だって食べてないわよ……」
割り当てられた客室から、居間へと移動する廊下の鏡の前で、くるくる回りながら身体をくまなく観察していると、廊下の向こうからやって来たアシュレイが声をかけてくる。
「エレナ、似合ってる。」
「やだ、アシュレイさん。見てましたね」
アシュレイは、少し恥じらうエレナの表情に目を細めた
「見てたというか……気づいたら、目が離せなかった。
やはり、君は華やかに装うと、人の目を引くのだな」
「……もう。そんな風に言われると、余計に恥ずかしいじゃないですか」
エレナは頬を染めながら、スカートの裾をひとつ摘まみ、ふわりと回ってみせる。
「でも、着てしまえば案外なんとかなりますね。あとはこのコルセットさえ……ふぅ」
「義姉上のおかげだな。王都行きが決まってから、君がこんなふうに笑うのは、久しぶりに見る気がする」
「それは……ほんとうに、カタリナのおかげですね。
もう平気なつもりだったけれど、全然平気じゃなかった。
でも、カタリナが明るく迎えてくれたから……ドレスを着ても、大丈夫だって思えたのかもしれません。」
エレナが微笑んでアシュレイを見上げると、彼はそっと腕を差し出した。まるで舞踏会でのエスコートのように。
「麗しいお嬢様。あなたをエスコートするという、この上ない栄誉――本日、この私が賜ってもよろしいでしょうか」
アシュレイは珍しくおどけて言うので、エレナはクスクス笑いながらその手を取る。
「やだ、もうっ!アシュレイさんがやると、サマになりすぎて大事故が起きそうよ!」
「……ああ、言ってみたら、思っていたよりもかなり恥ずかしかった……二度とやらない。」
「あら、それは残念。」
エレナはしばらく笑いが収まらなかったし、アシュレイの赤面もなかなか引かなかった
次の日。いよいよ『ヴィラ・エトワール』の上客を集めたサロンの当日がやってきた。
前日に微調整を施された衣装は、完璧な仕上がりで届けられている。
午後からの開催に備え、午前中にはカタリナが別邸を訪れ、エレナの支度を入念にチェックしていた。
「……あんまり身体のラインが出ないのに、なんでコルセットまで必要なのよ」
ゆったりとした、仙女かエルフの姫君が纏うような衣装。
そのやわらかな風合いとは裏腹に、しっかりと矯正下着を着けさせられたエレナは、やや不満げにカタリナを睨む。
「そういうデザインだからこそよ。
その布はね、ドレープの美しさが命なの。直接身体のラインが見えなくても、ひだの流れを最高に見せるには、下地から整える必要があるのよ」
カタリナは涼しい顔で言って、エレナの顔を隠すマスクを確認している。
それは、マスクというよりも、ヘルメットに近い形で、目深に被れば頭全体を覆い、口元だけがかろうじて見えるものて、鳥の頭の形をしていた。
エレナが今着ている衣装に合わせると、それはキビタキの姿になり、まるで鳥の国からやってきた貴婦人に見えるのだった。
「これには、視認阻害の魔法もかけてあるから――口元を見られても、エルフィーナだと気づかれる心配はないわ。
さらに音声変換魔法も加えてあるから、声色で正体を悟られることもないはず」
カタリナは、ニヤリと悪戯めいた笑みを浮かべる。
「森の深淵に住まう、強力な付与魔法を操る神秘の魔女――“雨森の魔女”。
このドレスとマスクが、貴女にその異名にふさわしい印象を与えてくれるはずよ」
そう言ってカタリナは、エレナにそっと歩み寄ると、その頭に仮面を静かに被せた。
そのマスクは、外から見れば本当にキビタキの頭そのものだったが――
被ってみると驚くほど軽く、視界も良好だった。
「すごいわね。これ、もう“魔具”って言っても差し支えないくらい、いろんな魔法が織り込まれてるじゃない」
発声したエレナ自身も、思わず自分の声に目を見張った。
いつもの響きとはまったく違う、細く澄んだ、高い音色の声が返ってきたからだ。
面白がって、首をあちこちに動かしてみるエレナに、カタリナがさらりと言う。
「“混沌の淵の奇術師”、アラネ・クァの新作よ」
「……え、カタリナ。あのアラネ・クァと取引してるの?
あの、“何に役立つのか全然わからないけど、刺さる人には心を鷲掴みにして離さない”って評判の……?」
「ええ、あなたと違って、そう簡単に注文通りには納品してくれないけれど――気に入ったものがあれば、ね。定番にはできないけど、仕入れる価値はあるわ」
エレナがひとしきり感心していると、部屋のドアがノックされた。
入ってきたのは――モノトーンの騎士服に、カラスを模した仮面をかぶった男。アシュレイだった。
「アシュレイさん、似合ってましてよ?」
カタリナが半分からかうように笑いながら言うと、アシュレイは仮面を外し、
苦々しい表情を隠しもせずに、頭を掻いた。
「……この恰好、しなければダメか?」
「ええ、だって、エルフィーナの護衛をしたいのでしょう?」
カタリナは涼しい声で続ける。
「あなたがサロンにそのまま出てきたら、お嬢様方はあなたに夢中になってしまうでしょうし、
“雨森の魔女”の護衛があなた――アシュレイ・グランディスだと知れたら、後で必ず面倒になるわ」
一拍置いて、指を立てながらにっこりと微笑む。
「あなたは、“鳥の騎士”としてエルフィーナの影に寄り添い、決して声を発さない。
――それが、最低条件よ」
「……わかった」
アシュレイが苦い表情を浮かべたまま、再び仮面をつけるのを、カタリナは満足げに見守っていた。
「さあ、アシュレイさん。エルフィーナの横へ――そう、二人並んで……
ああ、やっぱり!思っていた通り、最高だわ!」
彼をエレナの隣へと誘いながら、カタリナは感嘆の声をあげる。
「ふふっ、これじゃ“森の魔女”というより、“鳥の国のお姫様と騎士”ね」
そう言って、侍女の一人に姿見を持ってこさせると、二人の正面にそっと置かせた。
鏡に映るのは、仮面をつけた神秘的な一対――
片や、鮮やかな羽のようなドレスを纏う貴婦人。
片や、漆黒の仮面とマントに身を包んだ、沈黙の騎士。
カタリナはうっとりとつぶやく。
「――やっぱり、私のエルフィーナは最高だわ。顔を隠したって、気品があふれ出てる。
アシュレイさんも、そう思うでしょう?」
「……ああ」
「カタリナ、無理に言わせないで。お世辞が過ぎると、気持ち悪いわよ」
エレナは顔こそ仮面に隠れていたが、その声には照れと呆れがたっぷりと滲んでいた。
「エルフィーナ、私は本当のことを言ってるだけよ?
ねえ、出資者として、もうちょっと私を愉しませてよ。
アシュレイさん、エルフィーナをエスコートしてみて?」
カタリナがすっかり悪ノリを始めたが、アシュレイは――ここまで来たら毒を食らわば皿まで、という気持ちか。
黙って仮面のまま、エレナに手を差し出す。
「きゃー!いい、いいわ!
じゃあそのまま向かい合って……そう、見つめ合って……アシュレイさん、かがんで顔を近づけて――」
二人の仮面のくちばしが、こつんと小さくぶつかる。
その瞬間、エレナの胸の奥に、くすぐったいような、妙なざわめきが走った。
くちばしの内側で、アシュレイは何を思っているのだろう。
見えない目と、届かない距離。けれど、確かにそこにいる彼。
「あぁーー、もう最高!まるで二人は、騎士と姫! 禁断の恋よ!
ねぇ、もうあなたたち、結婚しちゃいなさいよ!」
ひとりで盛り上がっているカタリナの声が、エレナには少し遠くに聞こえた。
仮面の内側で、彼とふたりきりになったような気がした。
本当に、騎士と姫の――
背徳の逢瀬に踏み込んでしまったような。
そんな予感に、エレナの鼓動は静かに、でも確かに、高鳴っていた。
「奥様、あまりアシュレイ坊ちゃんとエレナさんで遊ばないでください」
いつの間にかドアのそばに立っていた『ヴィラ・エトワール』の支配人、グローテが、あきれたように声をかけた。
「まあ、やだわ。私ったら――ふたりが素敵すぎて、つい夢中になってしまったのよ」
カタリナは肩をすくめて笑い、ふふっと小さく息を吐く。
「でもね、良い傾向だと思うの。
これだけお似合いなら、“森の魔女”とその“騎士様”を応援こそすれ、横槍を入れようなんて、無粋なお嬢様は現れっこないもの」
ぱん、と手を鳴らして促す。
「さあ、出かけましょう」
カタリナにうながされ、エレナはアシュレイの差し出す腕にそっと手を添え、部屋を後にする。
仮面の内側で、自分が赤面しているのがわかる。
頬も、耳も、きっと真っ赤だ――
でも、それが見えないことに、今は心から感謝した。
エレナは、時折ちらりと隣を伺う。
無言のまま歩く仮面の騎士――その横顔を、ほんの少しだけ、見るともなく見ながら。