06 魔女と親友の夜
馬車は夕闇の迫る王都郊外の農村を静かに進んでいた。王都へ向かう馬車の中、エレナは頬杖をついて外を眺めている。
外は雨模様。向かいにはアシュレイ。
本来なら、護衛の騎士は馬で並走するものだろう。だがアシュレイは、最初から馬車に同乗する予定だった。
怪我の後遺症で、乗馬はほんの短時間で限界だそうである。
王都までの行程はほぼ丸一日。
長時間の移動という事で、公爵家が乗り心地の良い長距離用の馬車を貸し出してくれた。
森の家を発つその朝は、ここのところでは珍しく、激しい雨だった。
アシュレイは出立を一日遅らせようかと提案したが、エレナは首を横に振った。「決めたことだから」とだけ言い残し、彼女は濡れた道を踏みしめるようにして、森を後にした。
王都が近づくほど、エレナは無口になる。それは、アシュレイとの話題が尽きて来ただけでは決してなかった。
「王都ではご両親には会うのか?今、タウンハウスに来ているんだろう?」
アシュレイがたずねると、エレナは窓の外から視線は外さず、答える。
「いいえ、両親には会わないわ。領地で時々会っているし、誰がどこで見ているかわからないもの。
私が“エルフィーナ”だとばれるような真似は、絶対にしないつもりです。」
それからゆっくりと車内に視線を戻すと、アシュレイを見て力なく笑った。
「でも――王都のお店は、何軒か行きたい場所があるわ。付き合ってくれますか?」
「もちろんだ。王都での滞在は五日間だったな。安心しろ、全日付き添える。」
「アシュレイさんは用事、無いんですか?会いたい人とか。」
エレナはそう言ってから、ほんの少しだけ視線を下げた。
まるで、自分自身には“会いたい誰か”がいないのだと、言い聞かせるように。
「気づかいは無用だ。私にも特に会いたい人はいない。」
「そう……」
エレナはぽつりと返すと、再び窓の外へと視線を戻した。
雨に霞む風景は、もうよく見えなかった。
曇天も相まって、あたりはすっかり夕闇に沈んでいた。
馬車は王都の城門をくぐり、石畳の通りをしばらく進んだ。
喧騒を抜け、やがて静かな住宅街の外れに差しかかると、瀟洒な三階建ての館が、街灯に浮かび上がって見えた。
カタリナの別邸である。
エレナがアシュレイにエスコートされてステップを降りると、玄関にはこの館の持ち主、公爵夫人のカタリナが出迎えに来ていた。
「エルフィーナ!お久しぶり、元気そうで何よりだわ!」
カタリナは、まるで春風のような勢いで玄関から駆け出てくると、ひしとエレナを抱きしめた。
香水の甘い香りとともに、エレナの頬に柔らかな声が届く。
エレナも彼女を受け止めて、二人はしばし再会を喜んだ。
「二年ぶりよね。来てくれないかと思ったわ。」
「私がカタリナに呼ばれて来ないわけがないじゃない。」
エレナがカタリナと別れたのは婚約破棄の直後、王都を去る時だった。
二人は無二の親友だったが、公爵夫人というカタリナの立場が邪魔をして、彼女がエレナの元へと赴くことはできなかった。
「積もる話があるわ。さあ、中に入って。晩餐を共にしましょう。」
カタリナが手を引く。
「旦那様――公爵閣下は?」
エレナは、ごく自然を装ってたずねた。だが、声にはほんの少し、探るような響きが混じっていた。
「あの人は王太子殿下のザガル=アルダ帝国訪問に随行しているから、あと一カ月は帰らないわ。
珍しい宝石や魔石、アクセサリーパーツなんかも持って帰ってくれる約束だから、エルフィーナも楽しみにしててね。」
思わず、エレナの胸の奥に安堵が広がった。
公爵閣下に改まって挨拶をしたり、余計な詮索をされたりせずに済む――それがありがたかった。
そして何より、今夜はカタリナと気兼ねなく話せることが、嬉しかった。
「アシュレイさんも、今回王都にいる間は、エルフィーナの護衛に徹してくれるのでしょう?
あなたの部屋も用意しているわ。荷物は運びこんでおくから、あなたも食堂へいらっしゃい」
カタリナはエレナと手をつないだまま、アシュレイに振りかえる。
「わかった。」
彼はカタリナの笑顔に、眉一つ動かさず答えるのだった。
和やかな晩餐を終え、湯あみも済ませて、あとは眠るばかり。
そんなエレナの部屋を、やはりネグリジェ姿のカタリナが訪れていた。
彼女も今夜はこの別邸に泊まることになっており、“公爵夫人”の仮面なんて脱ぎ捨てて、今夜は子どもみたいに、親友と夜更かしする気満々だった。
「ふふ、一緒に寝るなんて、子どもの頃以来よね。
この部屋にベッドを二台入れたとき、いつかあなたとこんなふうに泊まれたらって、ちょっと夢見てたの。
この年になって、公爵夫人にまでなって……それでも、こうしていられるなんて。嬉しいわ。」
カタリナはクッションを抱えて、ソファの向かいに座ったエレナを見た。
「私だって嬉しいわ。でも、“雨森の魔女”だから、こんなこと許されるのよね。伯爵夫人になってたら、たぶん無理だったわ。」
「こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど……私は、“雨森の魔女”としてのあなたに――そして、“エレナ”として生きてくれたあなたに、本当に感謝しているの。
伯爵家の令嬢だった頃から、あなたの才能はずっと知っていた。
でも今は、それを惜しみなく発揮して、自由に羽ばたいている。そんなあなたが、私は大好きよ。
私には、公爵夫人としての責任も苦労もあるけれど……こうして、あなたを支えられる立場になれたことだけは、本当に誇りに思ってるの。」
「カタリナったら……大げさよ。でも、私も、“雨森の魔女”として、やりたいことをさせてもらってる。感謝してるわ。」
エレナは、両手で包んでいたマグカップをそっと机に戻し、穏やかに微笑んだ。
「その……王都は、変わった? 社交界は……なにか話題とか……。
マーティン――元婚約者殿は、結婚したの?」
恐るおそる尋ねたエレナに、カタリナは一拍置いて、軽く肩をすくめた。
「いいえ。あれだけ派手にやっておいて、まだなのよ。予定はあるみたいだけどね。
ただ――今、彼、派閥によってはかなり評判が悪いの。
まさか……あんな人に、まだちょっとでも気持ちが残ってるなんて言わないでよね?」
「そんなわけないでしょ。」
エレナが即座に否定すると、カタリナはほっとしたように、大げさに胸をなでおろして見せた。
「よかった。……本当は、あなたにこれを伝えるべきか迷ったの。
でも、もう元気になったって信じて、あえて言うわね。
マーティンの奴、相変わらずあまりよろしくない連中とつるんでるの。“紳士倶楽部”っていう、若い貴族や大商人の集まりよ。
そこで――なぜかあなたの噂を、今もずっと流し続けているの。……もう二年も経つのに、よ?」
「噂って……もしかして、“アレ”?」
エレナの問いに、カタリナは静かにうなずいた。
「そう。根も葉もない、例のアレよ。
あなたが夜会で襲われて、純潔を失った――っていう、あの悪質なデマ。」
「……でも、大事に至る前に、警護の騎士に助けられたって、証言もちゃんとあったのに。」
「もちろん知っているわ。
まともな人たちは、あなたの潔白を疑ってなんていない。
むしろ、婚約者がいながら子爵令嬢に手を出していたマーティンの方が、今では非難の的よ。
でもね……その噂、どう考えてもマーティン一人の仕業じゃない。
明らかに誰かが、意図的に流し続けているの。
社交界を二年も離れていた令嬢の話なんて、普通ならとっくに忘れられているはずでしょう?
だから――どうか、警戒しておいて。」
エレナはしばらく一点を見つめて、それから決意したように顔を上げた。
「わかったわ。私はもう“エルフィーナ”に戻るつもりはないし、噂なんてどうでもいい。
でも――警戒はしておくわ。」
「警戒で思い出したけど……ねえ、あなた、アシュレイさんとはどうなの?」
カタリナは目をきらきらと輝かせ、エレナの顔を覗き込んだ。
「どうって……よくしてもらってるわよ。おかげで今回も制作に集中できたし。
カタリナが彼に命じてくれたんでしょ? 感謝してるわ。」
率直にそう答えると、カタリナは目を細め、さらに身を乗り出す。
「まあ、お願いはしたけど――それだけ?
年頃の男女が一つ屋根の下で暮らしてるんでしょう? まさか、何にもないってことは……」
「ないわよ。」
エレナは、少し呆れたように笑った。
「アシュレイさんとはそんな関係じゃないもの。
彼は立派な騎士様よ。そんなふうに思ったら、むしろ失礼でしょ?」
「……そう。なの。……もぉ、あのヘタレがっ」
後半のつぶやきは小さすぎて、エレナの耳には届かなかった。
「ん? 今、何か言った?」
「なーんにも。
まあでも、エルフィーナも決めつけるのは早いんじゃなくて?
ほら、素敵なロマンスって、案外すぐ隣に転がってるものよ?」
「私に限って、それはないわよ。
公爵様に見初められたあなたとは、違うんですよー。」
エレナも笑い、カタリナも笑った。
二人はそのまま語り明かし、夜はゆっくりと更けていった。