04 雨の夜、そして白いシャツ
「エレナ! エレナ!」
「――っ、はぁっ……!」
男の手で肩を揺さぶられ、エレナは悲鳴のような息を吐いて目を覚ました。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
心臓が喉元までせり上がっている。
荒い息を吐きながら、無意識に掴んでいた手首をたどる。腕、肩、そして――その顔を見上げた。
「……ア、シュレイさん……?」
ようやく全身から力が抜けて、彼の手をそっと放す。
「かなりうなされていたから、起こしたんだが……」
アシュレイは不安げに彼女を見つめていた。
いつの間にか雨脚が強まっている。
窓の外では、雷が遠くの空を震わせていた。
「……ごめんなさい。驚かせてしまいましたね……」
エレナは息を整えながら、そっと身を起こした。
先ほど眠りに落ちたときよりは、身体がいくらか楽になっている。アシュレイの手を借りずとも、こうして座り直すことができた。
「悪夢を見たのか?」
アシュレイは水差しに手を伸ばし、グラスに静かに水を注ぎながら問いかける。
「ええ。体調がすぐれないときには、きまって見るんです」
グラスを受け取りながら、エレナは小さく笑った。
「それは……婚約破棄の夢か?」
「いえ、それとは違う夢です」
水を一口ふくみ、喉を潤す。
ゆっくりと嚥下するエレナの横顔を、アシュレイは黙って見つめていた。
「何かに追われているようだった――
差し支えなければ、話してもらえないだろうか。……悪夢は、人に話すと忘れられると聞いたことがある」
その申し出に、エレナは少しだけ視線を伏せて、考え込んだ。
水をもう一口飲むと、ふぅ、と静かに息を吐いて、口を開く。
「……もう、記憶も曖昧なんですけど」
グラスを両手で包みながら、エレナはぽつりと語る。
「昔、夜会で……怖い思いをしたことがあって。その時は助かったんですが、
それ以来、体調が悪いと、たまに夢で思い出してしまうんです。
何かに追われるような夢。
どこまで逃げても出口がなくて、誰も助けてくれなくて――
叫んでも、声が届かない夢」
アシュレイは黙ったまま、そっとうなずく。
言葉は挟まず、ただ彼女の言葉のすべてを受け止めていた。
「……その出来事のあと、婚約者の態度が少しずつ変わっていって。
婚約破棄のときにも、そのことを……皆の前で、持ち出されてしまって……」
言葉がかすれ、エレナは一度だけ唇を噛んだ。
「婚約破棄のことを思い出した日は……特に、夢に見るんです」
そこまで話して、エレナはふと我に返ったように黙り込む。
言いすぎた――そう思ったのか、そっと口をつぐんだ。
「……現実ではその夜、助けてくれた人がいたんだろう?
君が無事だったことを、その人はきっと……何より嬉しく思ってる」
アシュレイの声は、いつもと変わらぬ穏やかさだった。
けれど、その言葉の奥にある静かな感情が、たしかにエレナには伝わっていた。
彼は心から、彼女の無事を喜んでくれている――それが、わかった。
「そう……ですね。現実には、私は……助かったんです」
エレナはうつむき、そっと手元のグラスを見つめる。
水面が、かすかに揺れていた。
「粥を作ってある。食べるか?」
アシュレイは、先ほどと変わらない調子で問いかけてきた。
その一言が、エレナの心を暗い夢の世界から、そっと現実へと引き戻す。
「はい。……少し、いただきたいです」
「待ってろ。すぐ用意する」
そう言って彼は立ち上がり、静かに台所の方へと消えていった。
淡々とした彼の態度に、エレナはなぜだか救われるような気持ちがしていた。
やがて、部屋には、湯気の立つ粥の香りがやさしく広がってくる。
気がつけば、雷は遠ざかり、雨音も静かになっていた。
その夜を境に、エレナの体調は少しずつ、けれど確かに回復へと向かっていった。
彼女が倒れてから半月ほどで、ふたたび日中ずっと起きて過ごせるようになり、以前と同じように活動できるようになった。
もっと早い段階から「もう大丈夫」と本人は訴えていたが、アシュレイは首を縦に振らなかった。
慎重すぎるほど慎重で、エレナの言葉に表情ひとつ変えず、許可を出さなかったのだ。
アシュレイは、最初の二、三日は騎士服のままだった。
だが数日後、公爵家から食料や寝具、彼の私物などが届けられると、彼は騎士服を脱ぎ、白いリネンのシャツと落ち着いた色のトラウザーズという軽装へと変わった。
「最初に騎士服を着てきたのは、君を安心させるためだった」
彼は後になって、そう静かに少し照れながら語った。
“自分は怪しい者ではない”と身分を示すための――いわば演出。
その誠実な気遣いに、エレナは思わず、ふっと笑ってしまった。
けれど、同時に思う。
今の自分は、彼に頼りきりだ――と。
「……ありがたいけれど――
こんなに、なにからなにまでしてもらっちゃうと……
ダメ人間になりそう。少なくとも、一人暮らしに戻れるか不安だわ」
ここ数日、空はからりと晴れていた。
めずらしくベランダに藤の揺り椅子を出して、エレナは販売用の刺繍入りハンカチを仕上げていた。
そして、いつもの癖で、ふと独り言をつぶやく。
長く一人で暮らしてきた彼女には、独り言をつぶやく癖がある。
それは、誰にも見られない時間の中で、自然と身についた習慣だった。
「……しばらくは――それでも、いいんじゃないか?」
アシュレイの声がして、思わずエレナは肩を跳ねさせた。
彼は洗濯籠を抱えたまま、玄関のステップをゆっくりと下りていく。
「……やだ、聞いてたんですか?」
「すまん。ずいぶん大きな独り言だったから、俺に話しかけてるのかと思った」
アシュレイは肩をすくめる。
表情には相変わらず大きな変化はない。
けれどこの半月のあいだに、エレナにはわかるようになっていた――
それが、彼なりのおどけ方であるということが。
「義姉から連絡が来た。
昨年の評判がさらに広まって、君の作品の需要が高まっているそうだ。
どうせ実家で暇を持て余しているのだから、引き続き君の生活をサポートし、制作に専念させろ――と、命令された」
「……確かにありがたいですけど……
公爵家の立派な騎士様を家政婦代わりなんて――申し訳ないですね」
エレナがきまり悪そうに言うと、アシュレイは洗濯物を手早く干しながら、淡々と答える。
「そこは気にするな。
私だって新兵の頃は、身の回りのことはすべて自分でやっていた。
家事は一通りこなせる」
少し間をおいて、彼はふと視線だけをエレナに向ける。
「それに――君の作品を楽しみにしている御令嬢方が、たくさんいるのだろう?
君は、彼女たちの期待に応えることを、何より優先すべきだ。
目的を達成するためには、手段は問うな。使えるものは、うまく使えばいい」
彼は手早く洗濯物を全て干してしまうと、また籠を持って室内へと戻ってゆく。
――そうなのよね……
私が家事をしたって、誰も喜ばないけれど。
でも、刺繍やコサージュ、アクセサリーを作れば、お嬢様方が喜んでくれる。
カタリナの店の評判も上がって、誰かの幸せにつながっていく――
いずれは、お手伝いさんを雇って製作に専念するのも悪くない。
そう思っていたのに。
エレナは、針を止めた。
庭に目を向けると、洗濯物が風に揺れていた。
二人分の洗濯物は、大した量ではない。
あたたかな日差しの下、庭先の物干しに並ぶ布が気持ちよさそうにそよいでいる。
――アシュレイは、立派な騎士様よ……
けがで療養されているって言っていたけれど、日常生活で不便そうなところは見たことがない。
たぶん、近いうちに復帰されるんじゃないかしら……
カタリナが良いって言っているんだから、それまで彼に甘えてしまっても……いいのかしら。
本来なら国のために剣を振るっていたはずの騎士が、
今は自分ひとりのために身の回りのことをしてくれている。
胸の奥に、じんわりと残っていた。
その時、ふと目に入った――小さくて、ひらひらした布きれ。
風に揺れながら、丁寧に干されている。
一瞬の沈黙ののち、エレナはそれが何かを悟った。
「やっ……やだっっ、私の下着!!」
慌ててまだ乾いていないそれを回収しながら、
寝込んでいた頃のことは、いったん忘れることにして、
“明日からは下着だけは自分で洗おう”と、固く心に誓ったのだった。