03 ただの“エレナ”
「……」
エレナはぼんやりと天井を見上げていた。
身体はだるく、頭も痛い。でも、あまりにも眠りすぎたせいか、今はもう眠れそうにない。それは――少しずつ回復している証かもしれない。
(グローテさんの代わりが来て、品物は渡した……それから――記憶がないわ)
ふと額に手をやると、冷たい濡れタオルが載っていた。
「目が覚めたか。どうだ、気分は?」
横から男の声がした。
ぎょっとして顔を向けると、あの騎士がベッドのそばに椅子を引き寄せて座っていた。
「あ゛……」
何か言おうとしたが、喉が張りついたようにかすれた声しか出ない。
「いい、無理はするな。水は飲めるか?」
エレナが小さくうなずくと、騎士は枕元の水差しからグラスに水を注ぎ、そっと身体を支えて、口元へとグラスを運んでくれた。
「心配になって戻ってきたら、玄関で倒れていたんだ。――丸二日、寝込んでいた」
エレナが人心地ついたのを見計らって、騎士は手にしていたグラスをそっとサイドテーブルへ戻した。
「……たぶん、グローテと同じ病気だと思う。王都で流行っているんだ。風邪に似ているが、すこぶるたちが悪い。グローテは先週発症したから――きっと、奴からうつされたんじゃないか? 君は、この森から出ないんだろう?」
どうして、それを知っているの……?
――というより、あなたはいったい誰?
恩人とはいえ、目覚めたら見知らぬ男が自室の枕元にいるのだ。
誰だって動揺するだろう。エレナも例外ではなく、その困惑はすべて表情に出てしまっていた。
騎士は苦笑し、軽く背筋を伸ばすと、ようやく名乗った。
「私はアシュレイ・グランディス。王都で騎士をしている。
グランディス公爵家の三男で、カタリナ・グランディスは義姉にあたる」
「そっ、それは失礼をっ!」
思わず声を上げたエレナは、慌てて身を起こそうとする。
だが、それを制するように、アシュレイがそっと肩を押さえた。
「気にしないでほしい。今は、私人としてここに来ている。
それに……君はまだ、しっかり休んだほうがいい。治りかけで無理をすると、ぶり返すからな」
「でも……」
申し訳なさそうに言いかけたエレナに、アシュレイはやわらかく笑みを浮かべて言った。
「実は、私も今月の頭に同じ病気にかかってね。
治ったと思って動いたら、あっという間にぶり返して、ひどい目に遭った。
……ただ、一度かかれば、再感染しないらしい。
だから、看病人としてはうってつけなのだよ」
「でも……お仕事は、お忙しいのでは?」
なおも気遣うようにエレナが問うと、アシュレイは少しばかり気まずそうに目を伏せた。
「……実は今、怪我の療養中でね。
しばらく実家に身を寄せていたのだが……君が倒れたことを義姉に伝えたら、
『どうせ暇なんだから、しばらく手伝ってやれ』と一蹴されてしまって」
一拍置き、彼は真摯な眼差しでエレナを見つめる。
「君さえよければ……しばらくのあいだ、看病と、身の回りの世話をさせてもらえないだろうか」
「それは……大変ありがたいお申し出ですけれど……」
ひとり暮らしの身で、こういう時に頼れる人もいないエレナにとって、これほど心強い申し出はなかった。
けれども、目の前の男は公爵家の三男で、騎士という高い身分を持つ若い男性。
年は自分と同じくらいか、少し上だろうか――。
令嬢としての立場はとうに失った自分はともかく、素性もよく知らない女の世話をしているとあっては、
万が一どこかで噂が立てば、彼の名に傷がつくのではないか。
どう言えば断れるだろうか……と、言葉を探しているエレナの様子を見て、アシュレイはふっと小さく笑った。
「私のことなら、心配無用だよ。婚約者はいないし、
療養から本格復帰できるかどうかも、まだ不透明でね」
穏やかな声で、軽く肩をすくめる。
「おなじ屋根の下で寝泊まりさせてもらうことになるが……
騎士道に誓って、御令嬢に無体を働くようなことはしない。安心してほしい」
それでもエレナがなおも躊躇っていると、アシュレイは観念したように、ぽつりと最後の一言を漏らした。
「……頼むから、世話をさせてくれないか。
のこのこ帰ったら――義姉が、怖いんだ」
立派な騎士の装いで、なのにどこか情けないことを言うアシュレイに、
エレナは思わず吹き出してしまった。
「いっ――」
けれどその笑いが頭に響いて、すぐに呻き声が漏れる。
「さあ、もうしばらく寝ていてくれ」
アシュレイは布団をそっとかけ直し、額のタオルを外して洗面器に浸し、絞ってまた載せてくる。
その手際が妙に板についていて、エレナは観念したようにため息をついた。
「……わかりました。本当は、お申し出、すごくありがたいんです。
このままで失礼します。……エレナです。お世話になります」
「知ってるよ。エルフィーナ・アゼール伯爵令嬢、だろ?
“エレナ”と呼んでも構わないか?」
「……どうして、それを……カタリナがあなたに言ったんですか?」
エレナは目を見開き、力なく問い返す。
“エルフィーナ・アゼール伯爵令嬢”は、婚約破棄をきっかけに心を病み、領地で療養中。
今こうして森の中で暮らしているのは、魔法の刺繍とコサージュを作る“魔女のエレナ”――
あくまでも別人というていで、カタリナも対外的にはそのように振る舞ってくれている。
カタリナの夫である公爵でさえ、妻が抱えている職人の女が、かつての伯爵令嬢だとは知らないはずだ。
髪型も、化粧も、服装も――あの頃とはまるで違う。
よほど親しい者でなければ、気づかれるはずがないと思っていた。
「いや、義姉は君のことを“エレナという大切な友人”とだけ、私に伝えていた。
だから――君が出てきたときは、正直驚いた。もうとっくに、シュテーベル伯爵令息と結婚したものだとばかり思っていたから」
アシュレイは、エレナの胸中のざわめきを知ってか知らずか――こともなげにそう言った。
エレナは、かすかに息を呑む。
「……婚約破棄、されましたの。二年前の……大舞踏会で」
指先が震えないように、そっと布団の端を握りしめる。
「“エルフィーナ・アゼール伯爵令嬢”は、心を病んで、領地で療養しております。
ここにいるのは、ただの“エレナ”で……ございますので。どうか、ご内密に……」
その声は静かだったが、どこか消え入りそうにか細かった。
アシュレイは、はっとしたように目を見開き、少し慌てて顔色を変える。
「それは――大変失礼した。秘密は、必ず守る。
……そうか、君は、“ただのエレナ”か」
噛みしめるように言って、彼はエレナをちらりと見やった。
その顔は無表情に近かったが、ほんの少し――本当に、ほんの少しだけ、喜びの色が混じっていた気がする。
エレナは、その微かな変化に気づきながら、心の中でそっと首をかしげた。
アシュレイは軽く咳払いをして、改まったように言葉を継いだ。
「……その、ご両親――アゼール伯も、このことはご存知で?」
「もちろんですわ。
実際、婚約破棄のあと一年ほどは、かなり心配をかけてしまいました。
……今も、私をそっとしておいてくれていますの」
エレナは、ゆっくりと息を整えて、言葉をつないだ。
「公衆の面前で、あれほど華々しく破棄されてしまって……もう、本当に、嫁ぎ先など望めなくなってしまいましたの。
その後に寄せられた縁談も、伯爵家としては到底お受けできるようなものではなく……」
少しだけ、唇をかむ。
「――お恥ずかしい話ですけれど。
こうして森の中で静かに暮らせているのも……父母と、カタリナの庇護があってこそ、なのです」
自嘲の波が、心をさらいそうになっていた。
けれど、ふと疑問が胸をよぎる。
「……アシュレイ様は、私の婚約破棄――ご存知なかったのですね。
あれだけ華々しく、全貴族が集う大舞踏会の開幕で……まるで余興のように始められてしまったので。
知らない方など、いらっしゃらないと思っておりました」
その言葉に、今度はアシュレイが、少し痛みをこらえるような顔をした。
「……二年前だと、私はちょうど戦争に出ていた。
ダリクス帝国とザガル=アルダ帝国が、長きにわたる休戦協定を破棄し――本格的な戦闘に突入した頃だ。
我が国は、同盟国ザガル=アルダ帝国の要請を受けて、騎士団を数師団、派兵することになった。
私は、それに……従軍していた」
淡々と語るその声の底に、重い記憶の影が垣間見える。
「もう三年以上、社交界からは遠ざかっていたし――
帰国してからも、怪我の療養に専念していたので……そういったことには、まるで疎くてね」
「それは……私こそ、何も知らずに。……失礼いたしました。
お怪我も、そのときに?」
エレナがそっと彼の顔をうかがうと、ふいに、二人の視線がぶつかった。
「ああ。――……少し、話しすぎたな。君も、疲れただろう」
アシュレイは目をそらし、少しだけ声を落とす。
「ひと眠りしたほうがいい。
……起きるころには、消化に良いものを作っておくから」
そう言って、彼はもう一度、エレナの額のタオルを静かに絞り直すと、そっと部屋を出て行った。
エレナは、天井を見つめながら、ぼんやりと思う。
(……優しい人)
(初対面なのに、なんだか、しゃべりすぎてしまった)
まだ熱があるのだと、自分でもわかっていた。
思考がまとまらず、気持ちばかりがふわふわと浮いている。
(……それもこれも、熱のせい。体が弱っているから、心まで弱って、
初対面の人にちょっと優しくされたくらいで――)
ゆっくりと、まぶたが落ちていく。
エレナは再び、眠りの深みに沈んでいった。