18 白百合の目覚めと、獅子の襲来
エレナは目を覚ました。
窓の向こうでは、すでに陽が高く昇っていて、さわやかな鳥のさえずりが聞こえてくる。
ぼんやりと夢を、そして、現実の大舞踏会を思い返した。
――私、夢の中だったけど、初めて助けられた……
あの大舞踏会では、マーティンの突然の行動に、誰もすぐには対応できなかった。
両親も、シュテーベル伯爵夫妻も、エルフィーナの友人たちも――ただ、呆然と立ち尽くしていた。
結果、すべては彼の思うままに運ばれてしまった。
カタリナもまた、そのときは会場の最奥にいたという。
まだ公爵閣下と結婚したばかりで、地位を固めるために高位貴族への挨拶回りに追われていた。
騒ぎに気づいても、まさかその渦中にエルフィーナがいるとは、思いもよらなかったのだ。
後になって、「あのとき人垣の中にいたけれど、怖くて動けなかった」と手紙を寄こしてくれた友人もいた。
もちろん、皆がマーティンの言葉を真に受けたわけではないと信じている。
それでも――この出来事を境に、少しずつエルフィーナの周囲から人が離れていったのも事実だった。
――そういえば、三年前の夜会で私を助けてくれたのは、第一騎士団の団員たちと団長だった……
でも……まさか、その団長が、アシュレイさんだったの?
エレナは無意識のうちに、手首のブレスレットを握りしめた。
魔石が、ほんのりと熱を帯びているような気がした。
――夢の中のアシュレイさんが言っていたことって、本当なのかしら……
あれが本当の彼なのか、それとも私が作り出した幻想なのか――確かめてみないと、わからない。
夢の余韻が薄れていくにつれて、エレナの意識も、少しずつ現実の輪郭を取り戻していった。
――夜会のあとは、お礼状も手配も、全部、両親がやってくれていた。
私はただ、ショックで部屋にこもって……なにもしていなかった。
あのときは、責め立ててくるマーティンのことばかりが頭にあって、助けてくれた人たちに、自分からは何ひとつ……。
ベッドから身を起し、侍女を呼ぶ。
――いまさら気づいても、遅いかもしれないけれど。
それでも、ちゃんと確かめて、伝えなきゃ。
今朝はエルフィーナとして、彼の前に立とう。
そう心に決めて、エレナは扉を開き、侍女を迎え入れた。
いつもよりもたっぷりと時間をかけて、貴族令嬢としての装いを整えた。
森の暮らしですっかり緩んでいた所作にも、意識して緊張感を取り戻し、寸分の隙もないよう心がける。
公爵家の侍女たちでさえ、エルフィーナの姿にため息を漏らした。
「さすが奥様の一番のご友人」
「まるでおとぎ話の姫君のよう……」
そんな声が、鏡の背後からいくつも上がる。
――そうだった……
社交界にいた最後の頃は、冷たい言葉で責め立てるマーティンに、下卑た男性貴族の視線、夜会での心ない噂……。
暴漢に、無頼漢に……振り回されるばかりで、私はすっかり疲れ切っていた。
けれど――本来の私は、“社交界の白百合”と呼ばれた存在。
“赤薔薇”のカタリナと並び称され、舞踏会ではいつも注目の的だった。
エレナは、鏡の中の自分を見つめた。
そこには、忘れていた“エルフィーナ”が、確かに立っていた。
――あの頃は、マーティンしか見えていなかった。
政略結婚とはいえ、彼にそこまで固執する必要なんてなかったのに。
もうあの頃から、彼のまわりには詐欺まがいの噂や、薬物、怪しい仲間がつきまとっていた。
私も、一度だけ、変な薬を勧められたことがある。
もちろん断ったけれど……そのときの、彼の不機嫌そうな顔……あとでなだめるのが、どれほど面倒だったか。
エレナはそっとまぶたを閉じ、一瞬だけ――もしマーティンと結婚していたら、と想像してみた。
そして、ぞっとして身震いする。
――でも、私は……運がよかった。
あんな形だったとはいえ、マーティンから逃れることができた。
そして、今は――
ふと、手首のブレスレットに目を落とす。
令嬢の装いの中でも、決して浮くことなく、静かに上品な輝きを放っていた。
良いものを選ぶように勧めてくれたカタリナに、心の中でそっと感謝する。
「アシュレイさんにお会いしたいの。今、どちらにいらっしゃる?」
私は令嬢らしい所作で優雅に身を返し、侍女に静かに尋ねた。
アシュレイは、朝食を済ませたあと、前庭に出ていた。
庭の手入れをしていた庭師に声をかけ、何やら言葉を交わしている。
エレナの姿を見つけると、庭師に軽く一礼し、彼女の方へと歩いてきた。
「おはよう。……なんか、今日は一段と綺麗だな。
その、――よく眠れたか?」
アシュレイは、柔らかい微笑をのせ、けれども少しだけ視線はエレナから外してたずねる。
「はい。今朝方――私の夢に、いらっしゃいましたか?」
「……ああ。君は、毎日、ああいう夢を見ているのか?」
「ええ。毎日のように見ております……」
「……あれは、本当に――起こったこと、だったんだな。」
「はい。もちろん私の主観も混じっていると思いますが……概ね、事実です。」
「そうか……」
アシュレイは黙り込んだ。
何かを噛みしめるように顔をゆがめたあと、まっすぐエレナを見つめ返す。
一歩踏み出すと、まるで忠誠を誓う騎士のように、静かにひざまずいた。
そして、迷いのない動作で彼女の手をとり、その指先に、深く敬意をこめて唇を重ねる。
「もし、あの場に私がいられたなら……
君を、これほどまでに傷つけることはなかったかもしれない。
出征していたとはいえ、どうにも悔やまれてならない。……すまなかった。」
その血を吐くような悔恨の声に、エレナは思わず首を振った。
「いいえ、私はそんなふうには思っていません。
むしろ――あのとき、あれほど徹底的に捨てられたからこそ……今の私があるんです。」
エレナは腰をかがめ、そっとアシュレイの目線に合わせた。
「あの夜、私は……たくさんのものを失いました。
でももし、失わずにマーティンを盲目的に信じたまま結婚していたら――
きっと、もっと恐ろしい未来が待っていたと思います」
小さく息を吐いてから、ふっと笑う。
「まあ……あのとき、あなたが颯爽と現れていたら、きっと、すぐに救われたでしょうけれど。
でも――それはそれで、困ったことになっていたでしょうね」
「……困ったこと?」
アシュレイが首をかしげて問い返す。
エレナは何も答えず、ただ微笑むと、差し出した手で彼の手をそっと取り――引き寄せるように立たせた。
「すこし歩きませんか?朝のお散歩には、少し陽が高くなってしまいましたけれど。」
「……ああ」
アシュレイが少し戸惑いながら答えたその時だった。
「やあ、我が花嫁、エルフィーナ殿。本日はまた一段と美しく、私の迎えを心待ちにしてくれていたと、思っても良いのかな?」
耳障りな猫なで声が、前庭の空気を打ち破るように響いた。
まるで絹に泥を塗るような、滑らかさと濁りが同居した声だった。
「お前は……」
アシュレイは自分の背後にエレナを庇いながら、素早く視線を走らせた。
男の後ろには、数十名の軽武装した、見るからに筋の物とわかる戦闘員を従えており、門番や警護の騎士を制圧しているのが見える。
「おっと、ちゃんとお話しするのは初めてでしたね。
私はファリド・ザフラーン。
エルフィーナ・アゼール嬢をお迎えに上がると予告しておりました者でございますよ。」




