17 あの夜の騎士は、今も私を守っている
「こんなにワクワクしながら布団に入るなんて……これだけで悪い夢なんて見ない気がするわ。」
アシュレイと自分の魔石に、夢を共有する魔法をかけたその夜、
エレナは布団を引き上げながら苦笑する。
アシュレイは、夢の中でも私を守ると誓ってくれた。
それで、なんとなく悪い夢を見る前提でいたけれど──
「そうよ、べつに悪い夢じゃなくたっていいのよね。
アシュレイさんが私の夢に来るんじゃなくて、私が彼の夢にお邪魔するかもしれないし……。
そう考えたら、ちょっと気が楽だわ。さて──どんな夢が見られるかしら?」
明かりを消し、まぶたを閉じる。
口の中では、もう癖になった安眠のおまじないがそっと囁かれる。
そうしてエレナは、静かに、深い眠りへと沈んでいった。
生暖かい空気。煌めくシャンデリア。鼻をくすぐる香水の香り。静かに響く楽団の演奏。そして、人々のざわめき――。
今年の大舞踏会のために仕立てた、明るいカナリア色のドレス。
未婚の乙女にはふさわしいのかもしれない。けれど、二十歳を越えたエルフィーナには、少し浮ついて見える気がしてならなかった。
同年代の令嬢たちは次々と嫁ぎ、子をもうける者もいる。
一方で、自身の婚約者からの返事は、いっこうに色よいものではない。
子どもの頃に組まれた政略結婚。そろそろ身を固めなければと、マーティンにも両親の圧はかかっているはずだ。
けれど、のらりくらりと逃げてばかり――。
――でも、長い付き合いだったし、昔は仲もよかった。あの頃は、本当に優しかった。
だから……大丈夫。彼もきっと、結婚という人生の節目を前に、ただ尻込みしてるだけ。少しだけ現実から目をそらしているだけ。
本来なら、婚約者に腕を取られて入場するはずだった。
けれどマーティンは、“紳士クラブ”の重鎮に急きょ呼び出されたとかで、彼女をあっさり放棄した。
代役を立てる時間もなかったエルフィーナは仕方なく、両親とともに入場することになった。
温厚なことで知られるアゼール伯爵夫妻も、このときばかりは怒り心頭だった。
両親は社交の挨拶に引き込まれ、エルフィーナは早々にひとりになった。
仲のいい令嬢を見つけて、ひとしきり談笑でもできれば――
そんな気持ちで、給仕からシャンパングラスを受け取り、ゆっくりと歩き出した、その時だった。
「エルフィーナ・アゼール伯爵令嬢!」
突然の大声に、辺りの会話が一瞬止まり、視線がエルフィーナに集中する。
ハッとして振り返ると――
そこにいたのは、見間違えようのない彼女の婚約者、マーティン・シュテーベル伯爵令息だった。
見知らぬ女の腰を抱き、不躾に彼女を指さして、会場の中央で仁王立ちしていた。
エルフィーナとマーティンの周囲から、人々がざわめきながら波のように退き、ぽっかりと人垣の中に“広場”のような空間が生まれた。
視線が突き刺さる。気がつけば、誰も隣にいない。
エルフィーナは、一人きりで晒されていることに気づき、急に足元が心許なくなった。
――なに? いきなり、何のつもり……?
不意打ちの突然のことに、エルフィーナの鼓動が嫌な感じに跳ねた。
「君とは長らく婚約関係にあったが、今夜この場をもって破棄させてもらう。
君のような――穢れたかもしれない令嬢を、僕は到底、妻として受け入れられない。」
勝ち誇ったように言うマーティン。
「何のことでございましょう。昨年の夜会での出来事でしたら、騎士団から証明が――」
あの夜のことを、エルフィーナはすぐに思い出した。
一年前の社交シーズン。夜会で一人になった彼女は、複数の男に囲まれ、休憩室へと連れ込まれそうになった。
けれど、巡回中の騎士に救われ、事なきを得たはずだった。
あれほど怖く、屈辱的な夜はなかった。
それでもマーティンは、その件を持ち出しては彼女を責め立て続けていた。
「本当に、君の純潔は守られていたのかな?
あの夜だけじゃないだろう。
君は事あるごとに、声をかけられ、連れ込まれ、押し倒されそうになっている。
そんなことが何度も起こるなんて――
君が、男を誘っているとしか思えない。」
「そんな……冤罪です! 名誉棄損です! どうか、撤回してください!」
エルフィーナも必死で声を張り上げる。
人垣のささやきが、冷たい針のように突き刺さる。
誰もが、自分を嘲り、軽蔑しているように思えてならなかった。
「君のような、破廉恥で淫らな女よりも──
シャルロッテのほうが、よほど僕にはふさわしい。
愛らしく、貞淑で、聡明で……なにより、君よりずっと若い。」
マーティンは、いつからかエルフィーナには向けなくなった、あの甘い微笑みを、シャルロッテにだけ与えていた。
シャルロッテと呼ばれた令嬢も、恥じらうように頬を染めながら、満足げに微笑んでいた。
「二度と僕の前に現れないでくれ。目障りなんだ。
その淫らな身体で、修道院暮らしなんて務まるはずがないだろう。
……いっそ、娼婦にでもなれば?」
マーティンは、エルフィーナを見下ろした。
その顔には、蔑みと侮蔑と、支配欲に満ちた歪な笑みが浮かんでいた。
そんな顔を、彼が他人に向けるのを見たことはあっても、まさか自分に向けられる日が来るとは思わなかった。
足元に、ぽっかりと深い穴が開いた気がした。
声も出せず、身動きもできず、そのまま、どこまでも、どこまでも堕ちていく。
空気は冷たく、ざわめきは遠のいていく。
音も色もすべてが消え、ただ絶望だけが、彼女を丸ごと呑みこんでいった。
たしかに、自分は華やかな令嬢ではない。
けれど、マーティンが言うような女では、断じてない。
節度を守り、貴族の娘として、つつましく生きてきた。
家と家のつながりのためとはいえ、マーティンの妻となることを、自分なりに受け入れ、想いを重ねてきたのに――
確かに、何度も危ない目に遭った。
あわや、という瞬間も、数えきれないほどあった。
それでも……すべて、未遂だった。
誰にも、奪われなかったはずなのに――
これだけ多くの人の前で、たとえ未遂だったとはいえ、過去を暴かれ、
意味もなく笑われ、噂され、
“男を誘う女”だという冷たい視線を浴びた今となっては――
もう、すべてが音を立てて崩れてしまった。
エルフィーナという花は、今夜、無理やり手折られ、
踏み入るべきでない領域まで、土足で踏みにじられた。
「私は……純潔です。失ってなど、おりません……。
どうか……信じて……」
エルフィーナは、震える声をなんとか振り絞ると、その場に崩れ落ちた。
――ああ、まただ。
これは……いつもの夢。
今夜も、見てしまった……
膝をついたエレナは、夢の中の床をじっと見つめながら、どこか達観した心地になっていた。
背後から、足音が聞こえる。
――ああ、そろそろ両親が迎えに来る……
二年前のその夜も、異変を察知した両親が、彼女を迎えに来てくれた。
わずかに身を起こしたエレナの耳に、聞きなれた声が届いた。
「……前言撤回を願おう。
かの夜会における彼女の純潔は、我が第一騎士団が証明する。
根拠なき異議申し立ては、受け付けられない。」
「誰だ!」
マーティンの驚く声がした。
エレナは驚いて振り仰いだ。
「アシュレイ・グランディス。第一騎士団団長を預かっている。
その夜会で彼女を助け出したのは我が隊。その場に私も居合わせた。」
整えられた髪、涼しいアメジストの相貌、凛々しい体躯を団長職のみが身に着けられる特別な騎士服で包んだ、アシュレイ・グランディス、その人が、マーティンをまっすぐに睨みつけている。
やがて、ぽかんと口を開けた、令嬢らしからぬ表情で固まっているエレナに視線を移すと、
アシュレイは、その頬をわずかにゆるめ、フッと微笑んだ。
「助けるのが遅くなった。すまない。」
エレナは勢いよく立ち上がり、気づけば、アシュレイの胸に飛び込んでいた。
夢の中だとわかっていても、そのぬくもりが、確かに心を包んでくれる気がした。
エレナは、声を上げて泣いた。
気がつくと、マーティンも、人垣も、大舞踏会の広間も、みんな消えていた。
彼女とアシュレイを包むのは、ミルクティーよりも淡くて、あたたかな霧だけだった。




