16 届けたい魔法、届かない気持ち
――アシュレイさんの、私への気持ちは、深紅だった。
火のような赤ではなく、もっと深く、静かな紅。
たとえば熟れすぎた果実のような、
あるいは、ずっと胸の奥で熟成されたワインのような、
……そんな色に、触れてしまった。
あれから数日。エレナは、いくつかの魔法を双晶魔石に付与する予定だったはずなのだが……
まだ一つしか、魔法を付与できないでいる。
最初は、今までエレナがかけてきた「ダンスが上手に――」とか「アガらない――」とか、そういった類の魔法をかけようとしたが、カタリナは断固拒否した。
「だって、これを身に着けるのは、お互いが好き合っていて、その気持ちを確かめる覚悟を持った恋人や夫婦が想定されるわよ?
だから、恋人同士が欲しがるような魔法にしなくちゃ。」
カタリナの言うことはもっともだった。
もっともだったけど……
「私とアシュレイさんは、恋人同士じゃないもの……」
カタリナは、あの石の変化した色の仮説について、アシュレイには一言も語らなかった。
わざとだ。
たぶん、わざと、何も言わなかった。
そしてその代わりに、私にだけ、
ニヤニヤと、底意地の悪い笑みを向けてきた。
だから、あの色がアシュレイ自身の気持ちだとは、彼は知らないでいる。
――そもそもよ、相手への気持ちを可視化して、第三者にまで開示する魔法って……
結構えぐいわよ……
だって、もしもよ? 愛し合っていると思い込んで、一緒に握って、
自分の石だけ色づかなかったら……
……それって、想いが届いていなかった証になる。
相手には、何か事情があって、思惑があって、
それでも一緒にいなければならない理由があったとしても――
色は、嘘をつかない。
魔法は、言い訳を許してくれない。
……そんな現実、誰が望むのよ。
暗澹たる思いの渦に、飲まれかけていた。
けれど、そのまま沈んでしまう前に、エレナは自分を引き上げるように、短く息を吐いた。
ソファから立ち上がると、まるで儀式のように、そっと言葉を口にする。
「――アシュレイさんに聞いてみよう」
声にすることで、自分を奮い立たせる。
これは仕事、あくまで商品開発の一環。
だから、彼にどんな魔法をかけたらいいか、聞きに行くだけ。
……本当は、そんなふうに割り切れたら、どれだけ楽だったろう。
エレナは廊下に出ると、手のひらに載せた双晶魔石に、そっと息を吹きかけた。
唯一、かけることができた魔法を、試してみる。
それは、魔石同士の距離が物理的に近づくと、魔石の内部に光の粒子が舞い踊るという、ごく単純なエフェクト魔法。
光の粒は、相手が近づくほどに多く、鮮やかに。
離れれば、静かに、消えていく。
正しく機能していれば、この光の舞いが、彼へと導いてくれるはずだった。
光をたどって辿り着いた先は、馬房そばの空き地だった。
――昔、この別邸にも騎士団が駐屯していた頃、訓練場として使われていた場所。
草の香りと、かすかに残る鍛錬の名残の中、
アシュレイはただひとり、木刀を振るっていた。
袈裟斬り、薙ぎ払い、そして踏み込んでの突き――
動かぬ人型を本物の敵と見立て、打ち込むごとに音が乾いた空気を裂く。
額に滲む汗も拭わず、彼の横顔には、ただ一点の曇りもなかった。
やがて、ひとしきり動き終えたところで、彼はその場に膝をつく。
カラン――
軽い音を立てて木刀が地に落ちた。
荒い呼吸音だけが、場に残る。
「――クソっ」
呼吸がようやく落ち着いたころ、
低く、悔しさの滲んだ小さな声が、風に乗ってエレナの耳に届いた。
出て行こうか、声をかけようか。
迷っていると、ふいに彼の視線がこちらに向いた。
「……ああ、君か。いつから、そこに――」
「ついさっきからです」
少し気まずそうなアシュレイに、エレナは、
ほんの一瞬だけためらってから、うそをついた。
「――剣の鍛錬は久しぶりで、すっかり鈍っていた……情けないな」
腰に下げていた手ぬぐいで、アシュレイは額の汗を拭いながら、エレナの方へ歩いてくる。
いつもほのかに香る、あの穏やかな香水の匂いに、今日は汗の生々しさが重なっていた。
その混ざり合った香りに、エレナはなぜか、胸の奥が少しだけ跳ねるのを感じた。
「何か用か?」
「あー……ええ。ちょっと、お話がしたいなあ、と思って、
お忙しくないですか?」
そう尋ねたエレナに、アシュレイは柔らかく笑う。
「ちょうど、一息入れようと思っていたところだ。……日陰へ行こう」
木陰のベンチで並んで座ると、アシュレイは無言で水筒を手に取って、勢いよく水をあおった。
エレナはなんとなく、その喉を見ていた。
上下する喉仏に、汗がきらりと光るのをぼんやり眺めながら、
(あ、見すぎてる……)と気づいたときにはもう、彼がこちらを向いていた。
「……俺の顔に、何かついてる?」
照れくさそうに苦笑するその顔に、エレナは反射的に首を振った。
「いえ……別に」
視線を逸らした先、ふと彼の腕に光るものが目に入る。
あの双晶のブレスレットだった。
「あ、ブレスレット……つけてくれてるんですね」
「ああ。いろいろ試すんだろう?
だったら、なるべく肌身離さずつけてた方がいいと思って」
そう言って、アシュレイは無意識に指先でブレスレットをなぞる。
その仕草すら、妙に優しくて、エレナは小さく息を呑んだ。
「何か、新しい魔法を……付与したのか?」
「いいえ、光のエフェクト以外はまだ――」
一瞬迷ったあと、エレナは素直に話すことを選んだ。
「カタリナに言われまして……
この双晶魔石は、恋人や夫婦といったカップルに身に着けてもらうことを想定しているから、従来の私の祝福ではダメだって。
私のいつもの魔法は、
“素敵な殿方に振り向いてもらいたい”とか、
“愛しいあなたの幸せを祈って”とか……
一方的な思いを、そっと後押しするようなものばかりなんです。
でも、これは違うって。
愛し合う者同士が、想いを確かめ合って、
その証として、ずっと持ち続ける魔石なんだって。
だから、それにふさわしい祝福でなくちゃいけないって……」
そこまで話して、エレナはふっと息をつく。
ため息のように、苦笑のように、
どちらともつかない吐息がこぼれた。
両手で顔を覆いながら、ぽつりと漏らす。
「二年前……婚約破棄されて、恋に破れて、
引きこもった私に……
そんな“幸せな魔法”……思いつくわけないんです……」
「……愛し合う者が――想いを確かめ合う?」
アシュレイは、手首の魔石にそっと視線を落とした。
その呟きはこずえを揺らした風の音に紛れ、エレナの耳には届かない。
けれどその瞳には、初めて気づいたような、かすかな戸惑いが揺れていた。
「だから、とりあえず、今回はいいかなって」
エレナは努めて明るく言った。
そうしないと、胸の奥がうっかり揺れてしまいそうで。
「私たちの魔石には……アシュレイさんが欲しい祝福を付与するのが、一番いいんじゃないかなって」
「いや、エレナ。そういう商品にするとコンセプトが明確なら、ここは真剣に考えた方がいいと思う」
アシュレイは、いつになく真剣なまなざしで、じっと考え込んだ。
そんな彼の様子を見ながら、エレナは苦笑まじりに小さく呟いた。
「恋愛かぁ……私がそんなこと真面目に考えてたら、また婚約破棄のときの夢とか見ちゃいそう」
「……最近も、またよく見ているのか?」
「ええ、実は……この前、マーティンと会って、連れて行かれそうになってから、毎日のように見ているんですよね……
大舞踏会で派手に婚約破棄された時の夢に、夜会で一人にされたとたん、客室に連れ込まれそうになる夢、物陰に引きずり込まれて襲われそうになる夢……各種取り揃えられて、ちょっと寝不足です」
そう冗談めかして言いながら、エレナは少しだけ笑った。
けれど、その笑みには、疲れと嫌気がにじみ出ていた。
アシュレイはしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて、ゆっくりと言葉を継いだ。
「……ならば、夢を操るような魔法はどうだろう」
「夢?」
エレナがいぶかし気に顔を上げる。
「思い合っている恋人同士なら、夢でも会いたいと願うのは自然なことだ。
それで君の悪夢がやわらいだり……俺が、その中に入れたら……
恋人向けの商品の実験としても有用だし、君を夢の中でも護衛することができる。」
さらりと言ってのけた彼を、エレナは呆然と見つめていたが、沈黙に気まずくなったのか、アシュレイは咳払いをして続けた。
「とはいえ、夢の中まで付きまとわれては、少々鬱陶しいかもしれないが――」
「いえ、それ名案ですよ!」
エレナは顔を輝かせ、パンと手を打つ。
「“夢でもあなたに会いたいの”って、恋愛小説とかでは定番のセリフですよね!
きっと、現実の恋人もそんなこと、一度は思っているんじゃないでしょうか。
決まりです!その魔法にしましょう!
いやー、なんだか今から夜が楽しみだなぁ!」
早速、魔法をどう構築しようか考え始めて、自分の世界へと潜っていったエレナの横顔を、アシュレイはいつまでも静かに見つめていた。




