10 触れかけて、立ち止まる
「二年くらいじゃ……そんなに変わらないものですね」
「そうだな」
王都の街角を、エレナとアシュレイは手を繋いで歩いていた。
最初はアシュレイが「エスコートしよう」と申し出たが、それではまるで貴族そのものだと、エレナが止めた。
「変装が台無しになります」と真顔で主張した彼女に、アシュレイは笑って引き下がった。
その代わりとして、雑踏で迷子にならないため――という名目で、ふたりは手を繋いだ。
見ようによっては、まるで恋人のように。
この街では、年頃の男女が連れ立って歩けば、それだけで恋人同士に見られてしまう。
……たとえ、そうじゃなかったとしても。
「アシュレイさんは、王都……ひさしぶり、なんですよね?」
「ああ。もしかすると、君よりも長く離れていたかもしれない。
戦争に行ったのが三年前で、それからは町なんてろくに歩いてなかった。
……まあ、それでも――あまり変わってはいないな」
「ま、そうですよね。……あ、あの屋台、鳥串が美味しいんです。
まだやってたんだ。嬉しいなぁ。ちょっと寄っていきませんか?」
エレナが指さす先には、煙をくゆらせる屋台。
小太りの中年男が、串に刺した肉を次々と炙っていて、香ばしい匂いがあたりに漂っている。
エレナが思わずつばを飲み込むのを、アシュレイは見逃さなかった。
「君は、こういうことにも詳しいのか?」
思わずそんな疑問が浮かぶ。
貴族の令嬢なら、まず縁のなさそうな屋台飯――
エレナは迷いなく歩き出した。
彼女に導かれるようにして、アシュレイもその列に加わる。
「今でこそ、あんな森の中に引っ込んでますけど、こう見えて王都育ちなんですよ。
婚約者には内緒でしたけど――よく町娘のふりをして、問屋街を歩き回ってました。
お屋敷に品を持ってこさせるのも悪くないですけど、やっぱり自分の足で歩いて、目で見て、ぴんとくるものを見つけるのって……格別なんです」
「なるほど。……自分の作品に使うものは、自分で見つけたい、ってことか」
「そうです。ここ二年は、カタリナに私の気に入りそうなものを送ってもらってましたけど……。
これからは、またこうして、自分の足で探しに行きたいですね」
タレの匂いが食欲をそそる鳥串を、アシュレイは受け取りながら、深く頷いた。
たしかに――彼女は、自分の目で見て選ぶ人なのだ。
エレナは屋台のわきで、壁に軽く背を預けると、串を手に、ハフハフと熱そうに吹き冷ましながらかじりついた。
アシュレイは少し迷ったものの、その隣に立ち、静かに串焼きに口をつける。
串焼きは、エレナの記憶どおりにおいしかった。
お腹も、心も、少しだけ満たされて――空気がやわらかく感じる。
「ふぅ……つい食べてしまいました。これではもう、さあ昼ごはん、って感じでもないですね」
食後の余韻を楽しむように、エレナはぽつりと言った。
アシュレイは視線を向けたまま、短く応じる。
「少し歩くか?」
エレナは頷き、公園のほうへと足を向けた。
花の香りが、風に乗ってふわりと漂ってくる。
身分に関係なく入れる植物園が、この先にあったはず――そう思い出して、ふと視線を向ける。
「植物園……」
エレナがつぶやくと、アシュレイはすかさずその声を拾った。
植物園は、少額とはいえ入場料が必要で、王都の若者に人気のあるデートスポットの一つだった。
「入るか?」
それを知ってか、知らずか――誘ったのは、アシュレイだった。
エレナはほんの少し考えてから、やがてうなずいた。
「ええ、入りましょう」
植物園は、ガラス張りの大きなドームや温室がいくつも繋がった構造になっていた。
魔法によって温湿度が保たれ、異国の植物が大切に育てられている。
それぞれの気候に合わせて、小さな虫や動物たちも放し飼いにされており、
歩いていると、どこからか羽音や小さな鳴き声が聞こえてくる。
「ここに来るのは……ほんとうに、久しぶり」
エレナは立ち止まり、ふと足元の石畳を見つめるように言った。
「最後に来たのは、マーティンとだったけど――
一人になった時に、変な男の人に絡まれて、怖くなって……
それ以来、二度と来られなかったの」
エレナが差し出した指先に、南国の大きな蝶がひらひらと舞い降りる。
羽を閉じて、そっととまった。
アシュレイは、それを見てから、静かに言葉を選んだ。
「――そんな辛い記憶の場所へ、誘ってしまって……すまなかった」
「いいえ。いいんです」
エレナは蝶を見つめたまま、小さく首を振った。
「いつまでも、苦手なままでいるのは、もったいないから」
少し間を置いて、ふっと笑う。
「……あれから三年も経ったのだし。
今は、アシュレイさんと一緒だから――
……大丈夫です」
蝶が、エレナの指から飛び立って、温室の天井へと高く高く舞い上がってゆく。
「――婚約破棄からだって、二年も経ったんです。
でも、噂が消えない……エルフィーナはずっと穢されたままだし、
……父より年上の方の後妻にとか、
妾を何人も囲ってる人の“何番目かの妻”にどうかって。
他にも、過去に何度も離婚や死別をしていて、しかも“妻に手を上げた”って噂まであるような人まで……」
エレナは、声を落とす。
「……私には、受け入れがたい縁談ばかりが、立て続けに届いて……
半年前からは、もう家族が処理してくれていますけど……
いったい、私が何をしたというんでしょうね」
エレナは、自分が感傷的になっているとわかっていながら、それでも言葉を止められなかった。
「私は――そんなに、汚れているのでしょうか?
好きで襲われたわけじゃない。
それに、未遂で助けられたことも、騎士団が証明してくれているんです。
なのにマーティンは……あんな公衆の面前で、私を辱める必要が、あったのでしょうか
『未遂だって、他の男に触れられたかもしれないお前は汚らわしい』なんて。
しかも、別の女の腰に手を回しながら――」
声が震えるほど、語気は強くなっていった。
けれど不思議と、その声は小さく、囁くようになっていった。
アシュレイには、それがすべて聞こえていた。
俯いて、声を詰まらせたエレナの肩に、彼はそっと手を置く。
「……ごめんなさい。こんな話……
二年も経ったのに、私、まだ忘れられてないし――納得できてないの」
エレナはぼんやりと前を見つめたまま、ぽつりとこぼした。
けれどすぐに、何かに気づいたように、はっと顔を上げる。
「――やだ、私ったら……」
エレナは目を伏せて、きまり悪そうに笑った。
「国のために戦ってきた騎士様に、こんな小さなこと……
本当に、ごめんなさいね」
「――そんなことない」
アシュレイは、いつになく真剣なまなざしでそう言うと、
肩を抱いているのとは反対の手で、エレナの手をそっと取り上げた。
まるで、何か大切なものを扱うかのように。
「悩みの大小に、優劣はない。
それに……令嬢にとって婚約破棄が、どれほど重いものか。
まして、公衆の面前で貶められるなど――
どれほど非道なことか。
世事に疎い私でも、それくらいは、わかる」
エレナの鼻先を、アシュレイの香りがふわっとくすぐっていく。
ふたりの身体が触れ合っている部分が、じんわりと温かい。
――アシュレイさんは……やさしいなぁ……
胸の奥で、何かがふわりとほどけていく。
思わず、そのまま彼に体を預けてしまいそうになる。
けれど。
その瞬間、自分の中の“冷静さ”が顔を出した。
エレナは、そっと体を引き寄せかけた気持ちを引き留める。
――やさしいけれど、深入りしちゃだめ。
彼は、公爵家の三男で、立派な騎士様。
私は、“傷物”の令嬢で、森に潜む魔女――
全然、釣り合わない。
これ以上、傷つきたくない。
時間を無駄にしたくも、ない……
「――ありがとう」
エレナはそれだけやっと言うと、彼の腕の中からするりと抜け出した。




