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異界小話

作者: 野良ゆき

以前別名で投稿していたもののリメイクです。

 純白の絹のドレス、翡翠の首飾り、紅に染められた唇、まぶたと頬に薄く塗られた紫露草の顔料…。

 鏡の中の自分の姿を、彼女はごく自然に「美しい」と感じた。

 この村の女は、年に一度の祭りのとき以外は、美しく着飾ることも、化粧をすることもない。

 だが、今日は特別な日…別人のように美しくなった自分を、鏡に映すことのできる、一生に一度の日なのだ。

 そう、彼女は今日、婚礼の儀を行うのである。


 その時ばかりはね、女は本当に別人になるんだよ。一日中、鏡をみてたって飽きないくらいにね。


 そう、祖母や母から聞かされていたこの瞬間を、彼女は幼いころからずっと心待ちにしてきた。

 だが、介添えの女衆の手によって、どんどん美しく変化していく自分の姿を見つめる彼女の瞳には、ほんの少しの歓喜の色さえ宿っていない。その眼は、まるで合わせ鏡のように、鏡の中の自分を無造作に反射させているだけだ。

 介添えの女たちも、誰一人として口を開くことはない。

 女たちは知っているのだ。この花嫁の、決して口にされることのない悲しみを、不満を、そして怒りを。

 だが、女たちは、花嫁を救うためのどんな言葉も持ち合わせてはいなかった。だから、せめて、今まで眼にしたどんな女よりも美しく、この花嫁を飾り立ててやろうと、無言で、笑顔ひとつ見せずに、課せられた作業を黙々と進めているのだった。

 そんな女たちの気持ちは、花嫁にも痛いほどに伝わっている。

 彼女もまた、ただ鏡を見つめるだけで、女たちに話しかけることも、目線を送ることさえしない。彼女の言動は、それがどんな些細なものであれ、鋭い刃となって女たちを刺すだろう。だから、こうして、着せ替え人形のように黙って、身動きもせず、立ち尽くすことしかできないのだ。

 狭い着付け部屋は、つつけば破裂してしまいそうな、静かで、危うい緊張感に満たされている。


(…一生に一度のこととは言うけれど…)


 ふと、彼女は考える。

 もう一度だけ、残りの人生において、私が美しく着飾ることのできる機会があるではないか、と。

 しかし、そのときにはもう、彼女は自分の姿を鏡に映して見ることはできない。

 大好きだった祖母も、母もそうだった。最後の晴れ姿…死装束を自分で見ることもなく、今は冷たい土の下に眠っている。


(これは、私の死装束なのかもしれない)


 彼女は思った。

 これから先の人生は、ゆっくりと死んでいくのと同じなのではないだろうか、と。

 ならば、今日の儀式は、婚儀というよりむしろ葬儀と呼ぶほうが相応しい。


(そうよ。私は、今日…死ぬんだわ)


 そんな風に決めつけてしまうと、ほんの少しだけ心が軽くなったような気がして、彼女は、自分の思いつきに満足した。

 紅を引いた唇は、いつの間にか、自虐を含んだ微笑のかたちに、軽く、開かれている。



 物心ついた頃には、いつも傍にいたあのひと。

 何をするにも一緒だったふたり。

 最初は、頼りがいのある、齢の近いおにいちゃんみたいに感じていた。

 それが、かけがえのない存在になったのは、いつの頃からだっただろうか。

 お互いの気持ちを確かめ合ったのが、二年前のこと。

 結婚の約束をしたのが半年前のことだった。

 聖堂の司祭の前で、私たちは夫婦になることを誓ったのだ。

 村の人たちは、皆、私たちのことを祝福してくれた。

 幼いころに死んだ父と祖母、結婚を心待ちにしながら、一年前に死んだ母。

 誰よりきれいな花嫁になって、次の世にいる三人を喜ばせたかった。

 それなのに。



「…まあ、きれいになって!」


 突然の声に振り返ると、戸口に小柄な老女が立っている。

 過去の記憶を辿っているうちに、準備はすべて終わっていたようだ。介添えの女たちの姿もいつの間にか消えている。


「おかあさま…」


 まだ慣れない呼び名で応じると、老女はちょっとはにかんだような表情を見せる。


「準備は、もう終わったみたいだね。…まあ、でも本当に、こんなきれいな花嫁姿、見たことないわ」


 彼女は少し微笑むと、老女に向かって軽く頭を下げた。


「ありがとうございます。…あの、彼は、もう?」


 老女の顔に、さっと影が落ちた。


「…ええ。あっちも支度は終わったようだよ。先に聖堂で待っているはずだけど…」


「そうですか。…では、私も…」


 そう言って、花嫁は静々と歩き出した。

 その手を取って先導しようとする老女に、軽く手を振って拒否の意を示す。

 伸ばしかけた腕を宙に留めたまま、黙ってうつむく老女を後に残し、彼女は着付け部屋を出た。

 わかっているのだ。

 老女が、悪いわけではないと。

 しかし、これ以上話を続ければ、これ以上優しい言葉をかけられれば…。何を言い出してしまうか分からない。そんな自分自身への恐れが、彼女の相貌を冷たいものに変えている。



 外に出ると、夜の冷気が身にまとった薄いドレスを通り抜け、容赦なく彼女の肌を刺した。寒さで肌が粟立つおを感じたが、表情には出さないまま、彼女はゆっくりとした足取りで歩いていく。

 沿道には、村人たちが松明を手に立ち、彼女の行く道を照らしてはいたが、辺りは濃い霧に包まれ、人々の表情まではうかがうことができない。しかし、きっと皆、介添えの女たちや義母のように、そして今の自分のように、様々な感情を押し殺した顔をしているに違いない。

 なじみの村人たちのそんな表情を見ずに済んだ幸運に、彼女は霧の中でそっと安堵の息をついた。

 やがて、霧の向こうに小さな家屋の影が浮かんできた。

 花嫁と花婿の新居となる家だ。

 もとは住む者もいない廃屋だったのを、村の若い衆が数日をかけて修理し、昨日完成したばかりだという。

 修理、とはいっても、床板を張り替え、壁の塗りも新しくし、屋根も半分以葺き替えたというから、ほとんど新築同様の美しさだと聞いている。

 しかし、夜中でしかもこの霧の中では、その姿はおぼろげにしか見ることはできない。松明の光の中でゆらりゆらりと揺れるその黒い影は、彼女を手招きする巨大な掌のようにも見える。

 新居の戸口には、慣例通りに村長が待っていた。

 花嫁は、新居の前で村長から扉の鍵を受け取り、その後に聖堂で待つ花婿のもとへ向かうのが、この村の古くからの婚姻のしきたりとなっている。

 花嫁が、これも慣例通りにひざまずいて首を垂れると、村長は小さく咳をして、彼女に両手を差し出すように命じた。

 言われるがままに差し出した掌に、小さな鍵が乗せられる。

 同時に、彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。



 もう、戻ることはできないのだ。

 私は、あのひとの花嫁として、妻として、一生を終えねばならないのだ。

 優しいあのひと。

 笑顔の似合うあのひと。

 母が死んだときには、何も言わず、ただ抱きしめてくれたあのひと。

 そして、今、聖堂で私を待つあのひと。

 …もう、戻れないのだ。



 型通りの祝詞が、村長のしわがれた声で続けられている間中、彼女は頭を垂れた姿勢のまま、声を殺して泣き続けた。

 掌の小さな鍵が、次第に、その重さを増していくようだ。

 


 泣くな、私。

 さっき決めたじゃないの。

 何も悲しいことなんてないんだ。

 私は、今日、この瞬間から、死ぬのだから。



 祝詞が終わりに近づいている。

 それが終われば、これも慣例通りに、彼女からの答礼を村長に返さねばならない。

 声が湿っていることを、泣いていたことを、気づかれたくなかった。

 彼女の傷が露わになることは、同時に、他の村人たちにも傷を負わせることになるのだ。



 私は、死ぬのだ。

 今日、死ぬのだ。

 この鍵は、ひつぎの鍵。

 そして、この家は、私の柩…。



「…あまたの精霊と、それを統べる神の御名のもと、誓いの言葉を奏上いたします…」



 涙は、乾いていた。

 頬を伝わった涙の跡が、ふた筋の傷跡のように残されていたが、この霧の中でそれを見咎めるものはいないだろう。

 淀みのない答礼の言葉に重々しく頷いた村長が、ひざまずいたままの彼女に、立つように促した。

 彼女は立ち上がり、ドレスの裾についた土を軽く振り落とすと、聖堂へと続く緩やかな上り坂へと歩き出す。

 その背後で、彼女の「柩」が、相変わらずの霧の中で、ゆらゆらと揺れている。



 小さな聖堂の、その奥。

 祭壇の前で、花婿はすでに彼女の到着を待っていた。

 真夜中の婚礼の儀式は、花婿と花嫁、そして司祭の三人だけで執り行われる。

 静かな足取りで祭壇の前に歩み寄ると、花嫁は、持っていた新居の鍵を司祭の手に預け、花婿の隣に並んだ。


「…わしは…」


 と、老司祭は儀式を始める前に、何か気の利いた言葉を―聖職者らしく―与えねばならないと思ったらしく、口を開いた。しかし、花嫁の空疎な表情を見て、次の言葉を失った。助けを求めるように花婿のほうを見、最後に床に視線を這わせると、小さな声で言葉を続ける。


「…わしは、自分が、聖堂の守り人を勤める間に、この儀式を執り行わねばならない日が来ようとは…夢にも、思わなかった…」


 言葉に窮して、言わずともよいことを、口にした。

 貧乏くじを引かされたと言わんばかりの、自らの失言に気が付いた老司祭は、謝罪の言葉をつなごうと顔を上げて花嫁を見た。

 花嫁は、笑っていた。

 何を見ているとも知れない瞳を見開いたまま、紅のひかれた唇を、にっこりとほころばせているのだ。

 老司祭は、その笑みを、美しいと感じた。

 それは、人形の笑みのように、生命の通わないものが持つ無機質な、冷たい美だ。

 言葉を忘れたように立ち尽くす老司祭の前で、花嫁は、そっとひざまずくと、隣に横たわる花婿の空の柩に、小さく、誓いの口づけをした。

 死にながら生かされる花婿に。

 生きながら死せる花嫁として。



 ……



 エメク地方、トバイ人の集落には、現在では絶えてしまった様々な故習が、今なお息づいている。その中に「ルダの家」という変わった儀式がある。「ルダ」とは彼らの信じる神々の中のひとつであるが、特定の神の名を示すものではない。戦場で死んだ若者の霊魂が神格化されたものの総称で、特に、その遺骸がついに故郷の地に帰り着かなかった戦死者の魂が「ルダ」になるのだと言われている。

 「ルダ」は遺骸を埋葬されないがゆえに、自分がすでに死せる存在であることを理解できず、人々に多くの厄災をもたらすと考えられており、古来より疫病の流行や天災の発生のたびに、トバイ人たちは「ルダ」たちの無念を晴らそうと、様々な儀式を行ってきた。

 「ルダの家」もそのような儀式のひとつで、「ルダ」となった若者のために家を用意し、そこに生前使われていた道具や衣服を収める。生前と同じ生活を送らせることで、非業の死を遂げた「ルダ」をなだめようというのである。その際、もし「ルダ」に、生前、婚約の契りを結んだ相手がいた場合は、その相手は「ルダ」との婚儀を挙げ「ルダの家」で一生を送る義務を有する。

 この不幸な花嫁は、一般に「ルダの花嫁」またはより単純に「死者の花嫁」などと呼ばれるが、この儀式が実際に行われたという記録は少なく、エメクの史書が伝えるのは、ほんの数例のみに留まる。


アイメ・ハルエド著『大陸周遊記』三章五節

「エメク地方の地勢および風習」より





おしまい

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