第3.5話 コーヒー豆と焙煎小屋
今回は閑話で、短めです。
霧のかかる見通しの悪い林の中はひんやりとして、空気はしっとりと肌に馴染む。木々の枝の隙間から見えるオレンジの屋根は、燻んだ色をしていた。辺りは香ばしい香りが漂い、一筋の煙は空へ消えていく。
「あーー、暑い!」
扉が開き、今日は幾分肌寒いというのに短パンにTシャツ1枚で、ずかずかと無遠慮に入ってきた。
「アイスコーヒー、アイスコーヒー無いの!?」
縛っていた髪を解き、バサバサと頭を振って、肩にかけた布袋も下ろさず、カウンター席に座るなり‘マスター’に声をかけた。
しゃがんで何やらゴソゴソとやっていた‘マスター’が、カウンター越しにヒョイと顔をのぞかせ、今気づいたとばかりに眉を上げる。
「作ってありますよ」
そう言うと立ち上がって背後の棚から背の高い口広のタンブラーを選び、そこにガラガラと縁いっぱいまで氷を入れると、足下の冷蔵庫から作り置きのアイスコーヒーを取出して注いだ。
「あ、ストローはいいわ」
‘マスター’がストローを渡そうとするのを断り、グラスに直接口をつけ、ゴクゴクと咽喉を鳴らす。
「はぁぁ〜〜! 生き返るわぁ〜〜!」
仰け反るように椅子の背もたれに寄りかかる。そして縮れた髪の毛を旋毛の辺りでひとつに縛り直し、首にかけたタオルで汗を拭った。
「ご苦労様です。今回は何釜ですか?」
「3つよ」
「今回も3種類ですね」
「そうね。ちょっと配合変えたけど。季節的なものだから、味わいは変わらないはずよ」
「そこはお任せしていますよ」
未だ止まらない汗を拭いつつ、残りのアイスコーヒーを一気に飲み干してカラカラとグラスに残った氷を鳴らすと、マスターは空になったグラスに追加のアイスコーヒーを注ぐ。
「それにしても、豆の種類ごとに焙煎するのは、大変ですね」
「仕方がないわよ。豆の焙煎度合がそれぞれ違うんだから。お煮しめみたいなもんよ
‘マスター’は水を差し出す。
「ありがと。じゃあ、よろしく」
受け取った水を口に含みゆっくり飲み込むと、徐にコーヒー豆の詰まった瓶を袋から取り出し、片手でカウンターの上に置いた。まだ蓋は開けていないのに、焙煎したてのコーヒーの香りが散らばってゆく。
‘マスター’は瓶の中身を何杯かコーヒースプーンで掬ってグラインダーに入れ、一気に挽いた。粉になったコーヒーに鼻を寄せ息を吸い込んでから、濾紙がセットされたドリッパーに空け、平らに慣らした粉にお湯を注ぎ始めた。
お湯を含んだコーヒーの粉は、いつもよりも大きく膨れ、パスンとガスを吐く。少し慎重にお湯を落としながら’マスター’は、時折抽出口に顔を近づけて、液体の落ちる様子を見る。
カウンターに座った人物は、頬杖をついて鼻歌を歌いながら、その様子を面白そうに眺めた。
「……良いですね」
‘マスター’はコーヒーカップを三つ並べ、均等に淹れたばかりのコーヒーを注いだ。そしてカウンターに一つ出してから、自らもカップを手に取って一口飲んだ。
「暑い時期に向けて、爽やかになりましたね」
「そうよ。酸味と甘みを強めたわ」
いつの間にか来ていた‘ドールさん’も、‘マスター’の隣でコーヒーの味見をしている。
「……苦い」
「まだ煎りたてで落ち着いていないからね。ちょっと苦味が強く感じるかも」
「2・3日後がちょうど良いわよ」
「ふうん」
「苦い」とほんの僅か眉を顰めながらも飲み切る’ドールさん’に、二人は苦笑する。「まあねえ、コーヒー好きじゃないとこんなことやってないわね」と二人は顔を見合わせた。
「 ‘焙煎士’さんは今日はこれで上がりですか」
‘マスター’がそう水を向けると、’焙煎士’さんは嫌そうに顔を顰めた。
「その’焙煎士’っていうの、気に食わないのよねえ。‘コーヒーロースター’って呼んでちょうだい」
「長い」
「うるさいわねえ。じゃあ、‘ロースター’で」
‘ドールさん’の赤裸々な難色に、文句を言いつつあっさり承諾する。「まあ、アンタたち以外に呼ばれることもないんだけど」ふん、と鼻を鳴らして’ロースター’は続けた。「お客さんに存在を知られているかどうかも怪しい」そう透かさず’ドールさん’が言うと、「もう、うるさいわね。大概にしなさいよ」と睨み付ける。涼しい顔で受け流す’ドールさん’に、’ロースター’は諦めたように力無く笑みを浮かべた。
「そういえば随分増えたもんねえ」
おかわりしたコーヒーを飲むと‘ロースター’はカウンターに肘をつき、軽く曲げた指の付け根にあごを乗せて溜息混じりに漏らした。
「初めの頃は2人? 3人くらい? こんなに多くなかったわよ」
「そうでしたねえ」
‘マスター’は窓の外の林の向こうに目をやったまま相槌を打つ。
「それだけ『孤独を知る』人が増えたのね」
「そうでしょうね。だからこそなのかも知れませんね」
「そうね。まあ『孤独』は条件にしかすぎないけれど」
うっそりと‘ロースター’は言う。
「ええ。捉え方なのでしょう」
視線をカウンター席に戻し、‘マスター’はどこか悠然と答えた。
「じゃ、いつも通り貯蔵庫に運んでおくわよ」
空気を断ち切るように立ち上がって布袋を背負い直すと、片手で空のコーヒーカップをカウンター台に乗せ、‘ロースター’は告げた。
「ありがとうございます。いつもすみません」
「しょうがないわ。小屋にはアタシしか入れないんだから。まあその分気楽で良いけど」
「ごちそうさま」と’ロースター’は振り向かずに片手を振り、来た時よりものんびりと髪を揺らしながら出て行った。
「……‘マスター’は入れない?」
「うん。焙煎小屋には’ロースター’さんしか入れないようだね」
‘ロースター’が出ていくのを見送り、’ドールさん’が訊ねると’マスター’は律儀に’ロースター’と言い答えた。
手元の時計を見て「そろそろだね」と’マスター’が促し、’ドールさん’はカウンターの後ろへまわる。そして壁の棚の下の段の奥から白いコーヒーカップを一客取り出すと、それを持って外へ出た。
‘マスター’は洗い終えたカップを拭き、棚に仕舞う。そのまま少し棚を眺めてから、今度は土色の陶器を取り出した。
程なくして’ドールさん’は扉にかかっている歪な形の板を裏返し、わずかに軋む音を立てて扉の中へ入って行った。
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