第2話 星時計と学者先生
鬱蒼と立ち並ぶ霧に湿った木々が途切れると、辺りには香ばしい匂いが立ち込めていた。目の前に見えてきた燻んだオレンジ色の屋根を目指して進む。
背の低い門柱の上には真っ白なコーヒーカップが一客、忘れられたように置かれていた。
余り手入れのされていない前庭を、門から続くオレンジ色の煉瓦の道に従って進むと、うねうね曲がった真鍮のレバーが付いている木製の扉の前に辿り着く。
『コーヒーを飲む日』
と書かれた歪な形の木の札が掛かっている。昔よく見たステンドグラス風のレトロな明かり窓からは、暖かそうな光がうっすら漏れていた。
“♪♪♪♪”
扉が開くと、ウィンドウチャイムとハープシコードが混ざったような何とも言えない音がした。
「おや。今日は一番乗りではありませんでしたね」
扇子でパタパタと煽ぎながら、小股で奥のカウンター席へ向かう。
「ハイ。ワタシ、イチバン」
壁際の隅で一番乗りの客は既にカップを傾けていた。ゆったりと足を組んで背もたれに寄り掛かり、白く長いローブの裾からは素足に履いたサンダルが覗いている。
今来た客はパチンと扇子を閉じ、着ていた羽織を丁寧にたたんで、カウンターに手を付きながら座る。それに合わせるように、カウンターの中から湯気の上るコーヒーと、小皿に乗せられた小さな菓子が出された。
「あらめずらし。‘マスター’それはコーヒーサイフォンじゃないの」
カウンターの客は身を乗り出してキッチンを覗き込むと、珍しいものを見るように言った。
「なんとなく、今日はこっちが良いかなと、思いまして」
‘マスター’は透明なガラスでできたロートの中のコーヒーの粉を静かに攪拌し、くるっと砂時計をひっくり返した。ガラスの砂時計の中のオレンジ色の砂は、サラサラと崩れるように吸い込まれてゆく。
「へえ。私ゃ美味しければなんでも構わないんですけどね」
そう言ってカウンターの客は、淹れたてのコーヒーの香りを吸い込むようにカップに鼻を近づけた。
「オイシイデスヨ」
壁の隅の客はにこやかに言う。
「ふふ。‘大富豪さん’が言うなら間違い無いわね」
「‘ウラナイシサン’、ボウシ、アタラシイ? ミル、ハジメテ」
‘大富豪さん’は目を輝かせて‘占い師さん’をじっと見た。
「そうよ。この度新調したの。似合う?」
‘占い師さん’はぐるりと鍔が付いている真新しい帽子に手をやると、はにかみながらそう言った。
「ステキ! ‘ウラナイシサン’、ニアウ、ピッタリ!」
「ふふ、言わせちゃったみたいだけど、ありがとうございます」
細い目の目尻が少し下がった。
“♪♪♪♪”
「こんにちは~! 皆さん早いですね!」
入り口の桟に頭がつっかえそうな人と、その背に隠れるようにしてもう一人が入ってきた。
「あら、珍しいわね。二人で連れ立って来たの?」
カウンターの奥の席から‘占い師さん’が声を掛ける。
背の高い方の人物が大股でカウンター席に向かいながら、和かに答えた。
「それが、此処に着いたらぼうっと門の所に佇んでいたので、有無を言わさず連れてきました」
もう一人はフラフラと窓側の隅の席に移動していた。そして、背負っていた荷物を椅子に置き、背を向けたまま呟くように言う。
「……夢かと思って……」
「ああ、‘学生さん’はここに来る夢を見たんでしたよね」
‘学生さん’は「はい」と小さく頷いた。先日と同じ席に腰を落ち着け、ぐるりと店内を見回して続けた。
「この間のことも、今日も、まだ夢の中にいるような変な感じがしたんですが……」
そう言って出されたコーヒーに手を伸ばす。
「何故だか’営業さん’に声を掛けられたら、思い出したというか現実味が増したというか……」
ゆらゆらと揺れるコーヒーカップの水面を見つめて、独り言のように呟き、徐にコーヒーを口に含んだ。
“♪♪♪♪”
扉が勢い良く開いて、人が飛び込んで来た。
「おやおや、そんなに慌ててどうしたの?」
‘占い師さん’が声を掛けると、もじゃもじゃの髪を振り乱したまま、その人はゼイゼイと肩を上下させながら顔を上げた。
「す、すいません、み、ず……」
目の前にスッと水の入ったグラスを出され、飛び込んで来た人はそれを一気に煽った。
「グッ、ゴホッ! ゴホッ!」
「‘学者先生’大丈夫かい。そんなにあわてなさんな」
「ゲフッ! ……す、すいません。ありがとうございます」
‘学者先生’は一頻り盛大にむせた後、もらった水のグラスをカウンターに返した。
「それが、時計が大変なことになっているんです!」
「時計?」
「この『星時計』です」
そう言って大人の掌くらいの懐中時計を取り出し、時計の文字盤が全員に見えるように掲げた。
クロノグラフ型の懐中時計は、大きな乳白色の文字盤の中に小さな文字盤が二つ入っている。
12時・3時・6時・9時を表す位置にはそれぞれ、赤い小さな石が嵌め込まれていて、他の時間を示す位置には、それより更に小さめな青い石が嵌め込まれている。
「あれま! 時計の針がグルグル回っているね。こんな星時計見たこと無いよ」
「でしょう?」
‘占い師さん’の言葉が終わるか終わらないかのうちに‘学者先生’が応える。
「……私は星時計を見るのが初めてです」
おずおずと遠慮がちに覗き込んで、’学生さん’は首を傾げた。
「いつもはこんなことないんですよ。ごく一般的な星時計なので星時間に合わせて、チックタックチックタック動くんですけど」
今、星時計の針は、チチチチチチチチ……とものすごい早さで回転している。
「今朝気付いた時にはもうこの状態で。昨夜は普通だったのになあ……」
「取り敢えず、」
‘営業さん’はそこで言葉を切って皆の注目を集める。
「先ずはコーヒーを飲んで落ち着きませんか?」
そう続けると、「そうだそうだ」と時計を見に集まってきた皆は定位置に散った。
席に着くなり出されたコーヒーを、一口飲んで溜息を吐いた‘学者先生’は、星時計に目を落としてまた大きく溜息を吐いた。
「……星時計は、普通の時計と違うんですか?」
頃合いを見計らって、’営業さん’が声を掛ける。
やや落ち着きを取り戻した’学者先生’は、椅子に深く座り直して答えた。
「星時計は、“星巡り”を計るんです」
「“星巡り”?」
「星々の間を満たしているガスのような目に見えない物質が、川のように流れているんですが、それを“星巡り”というんです」
「……海でいう海流みたいな?」
「そうですね。それに似ています。ある起点の星から星系内を星巡りが一周するまでの時間が星時間の単位です」
「へえ。言葉しか知らなかったけれど、そういうことなのね。今度孫に話してやろう」
「あれ、‘占い師さん’お孫さんがいらっしゃるんですか?」
「そうよ~。時々遊びに来るんですけどね、最近は大分話せるようになって、色んな話をするのよ。まあ、ほとんど何を言っているのか分からないんですけどね」
思い出して顔をほころばせ、嬉しそうに話す。
「子どもは、大人とは別世界で生きていますよね」
「そうですねえ。別世界というか別次元というか」
「……ベツセカイ? ベツジゲン? ナゼ? コドモ、オトナ、イキテル、イッショ」
「ああ、それはですね、」
問いに答えようとして、’学者先生’はハッとした顔で’大富豪さん’を凝視し「……そうか! もしかしたら!」と鞄の中を漁ると、大きくて分厚い一冊の本を取り出した。そして一心不乱にペラペラとページを捲り、忙しなく右左に目を動かして何かを探し始めた。
突然の’学者先生’行動に、皆は唖然としてをその様子を見つめた。
「……ふむ。なるほど。ほうほう」
ある所でピタリとページを捲る手が止まり、’学者先生’は顎に手を当て、独り言を漏らしながら読み耽った。
「まだ解っていないことが多いのですが、恐らくこれでしょう」
一通り読み終わったところで’学者先生’はそう前置きして、今読んだ本の内容を話し出した。
「『星次元が混ざり合う日』が何年、いや何十年、何百年かに一度あると言われているのですが、この“星次元”というのは元来、階層毎に綺麗に分かれています。と言っても、次元と次元の境はグラデーションのように徐々に変わっています。その次元の境が全ての階層に於いて、まるで“コーヒーに溶かしたミルクのように混ざる時がある”のだそうです」
‘学者先生’の口調は至って穏やかなのだが、本を開く手に力がこもり、声色は普段よりはっきりしている。
「つまり、今日がその日なのではないかと思われます。ここには星時計が狂うという記述はありませんが、“時間の概念が混ざり合ってしまう”とあります」
「すみません。話の腰を折るようなんですが、そもそも『星次元』ってなんですか?」
遠慮がちに右手をあげて、’学生さん’は尋ねた。
「ああ、失礼しました。『星次元』というのは、星単位の次元のことですね。星それぞれにそれぞれの次元があると仮定されています。それらの総称が『星次元』です」
次元が混ざっている時間は、どれだけ続くか分からない。もし『星次元が混ざり合う日』に星時計が狂うとなれば、その日が割り出される日も近いだろう。
星時計は高々一〇〇年ほど前に出来たものだが、希少な星の鉱物を使用するため数える程しか生産されていない。
‘学者先生’が持っている時計も出来た当時からあるもので、祖父から譲り受けた物。その頃から数えても、星時計が狂ったことは無かったと記憶しているので、その間は星次元が混ざり合った日は無かっただろうと推測できる。そう続けた。
もしかしたら大発見かも知れない。説明は段々と熱を帯び、‘学者先生’はかつて無いほどの高揚感を味わっていた。
「星時計の針が回ってしまうこと以外に、私達には影響はないんでしょうか?」
「さあ?」
‘学生さん’の質問に、‘学者先生’は鮸膠も無く答える。
「この本には書かれていないので、特筆するような事が起こらないのか、気付いた人がいないのか、兎に角今のところは分からないですね」
「実際、私は特に気になる事はありませんね」
‘営業さん’が自分の腕時計を見ながら言った。
「腕時計もいつもと変わりが無いですし」
「私も無いですねえ」
「アリマセン」
‘営業さん’が’占い師さん’と‘大富豪さん’に順々に目をやると、それぞれ静かに首を振った。
「それにしてもさすが“学者”の方は色んなことをご存知ですね」
‘学生さん’が感心したように言うと、‘学者先生’はピタッと動きを止めて顔を上げた。
「私は“学者”ではありません」
目をパチクリしている‘学生さん’に向き直り、先ほどまでの興奮が嘘のように冷めた様子で淡々と続ける。
「ここでは‘学者先生’と呼ばれていますが、本物の“学者”ではないのです。それはアナタが“学生”では無いのに、‘学生さん’と呼ばれているのと同じです」
「そっかあ。‘学生さん’はまだ知らなかったかあ」
‘占い師さん’がコーヒーカップを片手にどこかあだっぽく振り返る。
「私も“占い師”では無いのだけれどね、此処ではどういう訳か‘占い師さん’と呼ばれるんですよ。初めて来た時からずっと」
そう言いながら、遠くを見るようにぼんやり視線を送る。
「ワタシ、ナイ、“ダイフゴウ”、チガウ」
「そうですね。私も“営業”の仕事はしていません」
「それが此処での『ルール』のようです」
皆の言葉に、‘学生さん’はちょっとした違和感を口にした。
「‘マスター’は此処の“マスター”ではありませんか?」
新しくコーヒーを淹れていた‘マスター’が目を上げて‘学生さん’を見る。
「此処では‘マスター’ですが、やはり自分も“マスター”ではありません」
「今気付いたけど、‘ドールさん’が普段から“ドール”なのは有り得ないよね」
テーブルの間を縫いコーヒーを運ぶ‘ドールさん’に、‘営業さん’が言った。
「それもそうですよね」
‘学生さん’はひどく納得したように頷いた。
「ただの渾名ってことですか」
「“ただの”、というには妙なんだけれどね」
「妙?」
「だって、此処に来た時に分からなかった? それも自然に」
‘学生さん’は、先日自分が初めてこの店に入って来た時の事を思い出す。
「そういえば、誰がその‘呼び名’なのか、何となく分かりました。それに、」
話の途中で、今気づいたとばかりに息を呑んだ。
「自分が‘学生さん’と呼ばれるのに何の違和感もありませんでした」
「そう! そうなんですよ」
‘占い師さん’はポンッと膝を打つ。
「自分は“占い”をするわけでも無いのに、“ああ、自分は‘占い師さん’なんだなって納得、いえ、ほとんど無意識にそう感じているんですよ」
「ワタシ、オナジ。フシギ、ナイ」
‘大富豪さん’は優雅に足を組み替えて、コーヒーカップを持ち上げた。
「あ、止まった」
‘学者先生’が低く声を上げた。
「止まったんですか?」
‘営業さん’の問いに、文字盤が見えるように星時計を掲げた。
「ええ。回り続けていた時計の針が止まって、正常な動きに戻りました」
星時計の針は、チックタックチックタックと一定のリズムで動いている。
「『星次元が混ざり合う日』が終わったのか……」
*****
ボワンと空気を震わせるように、聖堂の鐘の音のような不協和音の音楽のような、喉の辺りがぞわぞわする旋律が店内に鳴り響いた。
鳴り終わると皆は帰り支度を始める。そして、再会を約束しながら何事も無かったかのように次々と店を出た。
「ありがとうございました。またお待ちしています」
最後の客が出ると、‘ドールさん’が白いコーヒーカップを一客手にし、入口の扉から入ってきた。
「今日も何事もなく終わったね」
‘マスター’の独り言とも問いかけとも取れない言葉に、‘ドールさん’は何も言わず積み上げられたコーヒーカップを洗う。
隣で洗った食器を拭き終え、戸棚にしまうと、‘マスター’はカウンター脇に取り残された砂時計に気付く。
「そうだ、これもしまわなきゃ」
ガラスの砂時計を手に取ると、オレンジ色の砂がサラサラ落ちた。
「これは今日しか使えなかったからねえ」
そう言って、戸棚の奥の方から小さな木の箱を取り出し、砂時計をオレンジ色の布に包んで慎重に納める。そして箱の鍵をパチンと閉めると、戸棚の奥の元在った場所に戻した。
*****
「’占い師さん’!」
呼び声に応じてすっと片足をずらし、くるりと流れるように振り向いた姿に、’学生さん’は、一瞬、見蕩れた。
「なんでしょ?」
「あ、あの、お会計の、前回伺った、ここのお支払いの話なんですけれど」
‘占い師さん’の返事に’学生さん’は、あわてて口を開いた。
「……ああ! そんな話しましたねえ」
‘占い師さん’はほんの少しの間考えてから、’学生さん’が初めてきた日のことを思い出した。
「それが、よく分からなくて……その、『いつ』ここの支払いをしているのか……」
‘学生さん’は段々と意気消沈する。
‘占い師さん’は閉じた扇子で口元を隠し、「ふむ」と考え込んだ。
「……たぶん、無意識なんでしょうねえ。でも、だからなのか……」
「え?」
ほとんど独り言のようなその声は、夢の中のように霞がかる。
「……そうね、その内分かるでしょう。今無理して分かる必要はないわね。特にあなたの場合は」
「え? それは、どういう……」
‘占い師さん’は、にっこりとまなじりを下げ、それ以上は言葉を発さず、ひらひらと手を振って霧の中へ消えた。
取り残された’学生さん’は、無言でしばらく考え込んだ後、晴れない霞を抱えて帰路についた。
お読みいただきありがとうございました。