第1話 コーヒーを飲む日
*軽微な修正を行いました。(2022.04.18)
霧の立ち込める林を抜けると木立が切れた先に、ぽつんと家が立っていた。燻んだオレンジ色の瓦にがっしりした石造りの壁。突き出た煙突からは、白い煙と香ばしい香りが立ち上り、それはやがて霧に混じって消える。
ーー同じだ
霧の中に佇んだ人影は、辺りに目を配りそう思った。他に人影は無い。
その一軒家の目の前にたどり着いてみると、入り口の門柱の上には真っ白な磁器のコーヒーカップが一客、まるで置き忘れられたかのように乗っていた。
ーー本当にある……
その風景の不釣り合いさに軽い眩暈を覚えながら、人影はふらふらと歩みを進める。あまり手入れのされていない前庭を、縫うように敷かれたオレンジ色の煉瓦に導かれ、その家の扉の前に立った。
『コーヒーを飲む日』
と書かれた歪な形の板が扉に掛かっている。
レトロな明かり窓が付いた木製扉の、うねうね曲がった真鍮の把手に手を掛けた途端、風も無いのにすうっと内開きに扉は開いてしまった。
“♪♪♪♪”
ウィンドウチャイムとハープシコードが混ざったような何とも言えない音がして、人影は一瞬たじろいだ。
「おや、新顔だね」
奥の方から良く響く軽快な声がして、そちらの方を見やると、今度はすぐ近くから声がした。
「いらっしゃいませ」
近くの気配に目を落とすと、その声の主は無表情にこちらを見上げていた。
「お好きな席へどうぞ」
声の主は一歩引いて、その新顔に中へ入るよう促す。おずおずと中に入ると、中は思っていたより広く、木のテーブルと椅子がポツポツと配置されている。恐らく何かの店なのだろうと、こっそりほっとした。
新顔は取り敢えず、入り口に近い壁際の席に腰を落ち着けることにした。
二人掛けの向かいの席に手荷物を置くと、背後に壁が来るよう反対の席に座る。それを見計らったように先程の人物は、お冷をテーブルに置いた。
「お客様。当店はコーヒーのみをお出ししております。お持ちしてよろしいですか?」
「え? ……あ、……はい……」
新顔の客は急なことに面食らって何も考えず頷いてしまった。すると、その返事とほぼ同時に、目の前に白い陶器のカップが置かれた。そこには、湯気の立ち上るコーヒーが、なみなみと入っていた。
客は慎重にカップを持ち上げ、恐る恐るコーヒーを口に含んだ。芳ばしい香りが鼻を抜け、口に広がるコクと僅かな苦味を残し、さらりと喉に落ちる。じんわりと身体が温まり、強張った身体が段々に緩んでいくのが分かった。口内の余韻に浸りながら思わずほうともふうともつかないため息が漏れる。
すっ、と客のテーブルにお茶請けの小さな菓子が置かれた。目を上げると、相手は変わらず無表情のまま無言で会釈をする。
ーーなんだか、人形みたいな人だな
「’ドールさん’、甘味追加で頂戴」
「かしこまりました」
‘ドールさん’と呼ばれたその無表情な人物は、切り揃えられた髪に西洋風の黒い衣装、細く伸びる手足と、確かに人形のような風体をしており、動かない表情筋が益々人形らしさに磨きをかけていた。
“♪♪♪♪”
ウィンドウチャイムとハープシコードが混ざった音と共に扉が開くと、桟に頭がぶつからないよう庇いながら、少し息を切らせて、縦に長い人影が姿を現す。
「こんにちは。なんとか間に合いましたよ」
そう言いながら、スタスタとコンパスのような脚が真一文字に横切る。カウンター席の一番端にどっかり腰を下ろすと、持っていたアタッシェケースをスッと足元に置いた。
暗い紺地に白のストライプのスーツ、暗い赤色のネクタイ、ピカピカに磨かれた革靴とズボンの裾から覗く黄土色の靴下。ピシッと分けた髪が殊更人となりを際立たせている。
「昨日は出張でホテル泊りだったんですけどね」
カウンターに肘を付き、腕を組んで、徐に話し出した。
「今朝起きたら“知らせ”が届いて、慌ててフライトを変更して来たんですよ」
店内にそのスーツの人の声だけが響いた。
「ああ、ありがとう‘マスター’」
カウンターの中から‘マスター’がコーヒーが出す。淹れたばかりのコーヒーを一口啜ると、先程到着した人物は満足気に、天を仰ぐように天井を見上げた。
「本当に、間に合って良かった……」
剥き出しになった少し煤けた木製の梁をぼんやりと見つめながら、今度は独り言のように呟いた。
「それはお疲れ様。さぞかし大変だったことでしょう」
カウンター席の反対の端から狐面顔の人物が声をかけた。
「ええ。でも来ない選択肢はありませんでしたし、実際間に合いましたしね」
「オシラセ、イツモ、クル、マニアウヨ」
今度は店の奥の隅から声がした。
「そうね。いつだって、お知らせは間に合うように来るわね」
「分かってはいても、今日は流石に焦りました」
カウンターの両端と、壁の角からの会話が続く。
「うちのネコはいつも、朝、顔を洗っている時に教えてくれるから助かるの」
「家にいる時はコーヒーマシンが大抵教えてくれるんですけど、今日みたいに出張先では何が教えてくれるか分からなくてね。今回はモーニングコールが知らせだったんですよ」
「オシラセ、クル、ホウホウ、イロイロ。ワタシ、シラセル、カイ」
「カイ? 貝殻の貝なのかい?」
「ソウ、カイ」
それを聞いた二人の目が丸く見開かれた。
「私は、星ですよ。だから知らせが来るのは前の日の夜です」
今まで黙って座っていた四人目が口を開いた。
「’学者先生’が『星』なら、’大富豪さん’が『貝』なのか。’占い師さん’が『ネコ』で、自分は『家電』なのは理解できるんだけどな」
「いやいや、私が『星』なのは自明の理でしょう」
「そういえば、」
と言葉を切って、‘占い師さん’は体の向きを変えた。
「’学生さん’は『どうやって』此処へいらしたの?」
四人の目が一斉に‘学生さん’へと注がれた。‘学生さん’は一拍間を置いて、自分が呼ばれたのだと気付いた。
「ご新規さんは久しぶりですね」
「‘ガクセイサン’、ハジメマシテ、デスネ」
自分に注目が集まって、居心地が悪そうに俯き、もぞもぞと座り直してから意を決したように顔を上げた。
「『夢』を見たんです」
「ほう、『夢』」
ちょうど‘大富豪さん’と‘学生さん’の席を直線で結んだ真ん中に座っている‘学者先生’が、身を乗り出して相槌を打った。
「はい。夢の中で私は来たことのない道を歩いていて、でもなぜか確信をもって進んでいるんです。そうしたら霧の中に、石造りの門とその奥にオレンジ色の瓦の家が見えてきました。門柱の上には白いコーヒーカップが乗せられていて、夢の中の私は迷わずその家の扉に立つんです。そして扉に手をかけようとしたら目が覚めました」
「なるほど、そのままだね」
‘学者先生’はそう言って腕を組んで椅子の背にもたれかけた。
「『夢』が切っ掛けだって、今までありそうで無かったんじゃないかな」
スーツの人は長い足を組み替えると、ふと思い出したように、
「あ、私は‘営業さん’と呼ばれています。よろしくお願いします」
と自己紹介をした。
「……! こちらこそ、よろしくお願いします」
‘学生さん’は他の四人の方に向き直って、深々と頭を下げた。
会話が途切れたところで、‘ドールさん’が皆に淹れたてのコーヒーを運んできた。
「ああ、これがなくては始まらないね」
‘営業さん’は早速口に運ぶ。
「私はすこおし猫舌なの」
ふーふー息を吹きかけながら‘占い師さん’がカップを手に取る。
「猫舌では無いのだけれど、よく上顎を火傷してしまうんだよな」
カップの水面をじっと見つめて‘学者先生’がつぶやく。
「アツイ、ノム、オイシイ」
‘大富豪さん’はゴクンとコーヒーを飲み、彫りの深い顔いっぱいに笑みを浮かべた。
新参者で気後れしていた‘学生さん’は、皆の意識が自分から淹れたてのコーヒーに移ったことに安堵の表情を浮かべ、新しいコーヒーを啜った。
「ああ、美味しい……」
目を閉じて小声で呟くと、ふと視線を感じ目を開く。カウンターの中の’マスター’が‘学生さん’と目を合わせニッコリと微笑んだ。
‘学生さん’は思わず顔を赤らめる。
それを見ていた‘学者先生’が「ふむ」と呟いて、何やらノートを広げ書き始めた。
“ネコ・家電・貝・星・夢とコーヒー。時空と人。”
「見つけるのは至極困難だ」
ブツブツ言いながら、何か書き付けてはコーヒーを口にする。最後の方は流し入れるように飲み干して、またブツブツと呟き始める。テーブルにはいつの間にかまた、新しいコーヒーが置かれていた。
******
誰もがコーヒーを何杯飲んだのか分からなくなった頃、不意に聖堂の鐘の音のような不協和音の音楽のような、喉の辺りがぞわぞわする旋律が店内に鳴り響く。人々は動きを止め、じっと音の鳴り止むのを待った。
音が鳴り止んで一瞬の静寂の後に、ガタガタと音を立てて店内にいた客達が帰り支度を始める。‘学生さん’は、その様子を見て慌てて自分の荷物をまとめた。
「ご馳走さま。また次回」
「ご馳走さま。またね」
「ありがとうございました。またお待ちしています」
次々に客達が帰る中、‘マスター’はカウンターの中から挨拶に応える。
「……あの……」
他の客がいなくなって最後になった’学生さん’は、躊躇いがちに’マスター’に声をかけた。
「はい?」
「お会計は……」
「ああ!」
今初めて気付いた、という顔で‘マスター’が最後の客を見る。
「もうすでにいただいていますよ」
「え?」
ーーいつ? いつ支払ったんだ?
戸惑いに‘学生さん’は二、三度瞬きを繰り返す。
「だから大丈夫ですよ」
そう笑顔で促され、半ば追い立てられるように店内を後にする。
半信半疑のまま‘学生さん’がトボトボとレンガの上を歩いていると、店の門柱の前で‘占い師さん’が待っていた。
「この店は支払い済みのお客しか来られないの」
扇で口元を隠し、狐面のようににいっと目を細めて、先程のやり取りを聞いていたかのようにそう話しかけた。
「支払いって、来た時も店にいた時もお金を払った覚えがないんですけど」
「そりゃあ、それより前だからねえ」
パシンと音を立て扇を閉じ、空を叩いて言った。
「次に来るまでに分かるかもねえ」
そう言うと‘占い師さん’は優雅に背を向け、濃い霧の中に消えていった。
『この店は支払い済みの客しか来られないの。』
呆気に取られて立ちすくんだまま‘占い師さん’の言葉を反芻する。
ーーん? 来られない?
‘学生さん’は首を捻り門の外へ出る。来た時に門柱に乗っていた白いコーヒーカップはもうそこには無かった。
『次に来るまでにわかるかもねえ』
軽快で艶のある声が耳に木霊し、’学生さん’もまた霧に包まれ見えなくなった。
お読みいただきありがとうございました。