05
夏の冷気が、換気のために開けれた窓から吹きこんできた。
肌寒さに震えながら、私は目の前の如月という名の怠惰な大学職員が発した言葉の意味を考えていた。
彼は眠たげな目をこちらに向けたままだ。
私はどういう意味なのか図りながら、
「何語って……カレンはアメリカ人だし、日本語は上手く話せないから、英語で会話していましたけど」
「なるほど」
彼はそういうと、目線を宙にやって
「じゃあ、キミの語学力はどの程度なんだ?」
「語学力?英語をどれくらい話せるか、ってことですか?」
「そうだ」
「高校生に毛が生えた程度だと思いますけど……。広山大学に入学するのに苦労するほどではないです」
「実際の会話に支障を感じたことは?」
「カレンはものすごくゆっくりと、分かりやすい英語で会話をしてくれていたので、特にありません」
「なるほど」
再び彼はそう言うと、眉を少しだけひそめて
「なら、致命的なコミュニケーションの問題が生じたということはなかったわけだ」
「……はい」
「ふむ」
手で顎をさすり、彼は「ふむ」とまた呟いて
「なら、この可能性は排除してもよさそうだな」
「この可能性?」
「誤解が積み重なって、相手とキミとの間に認識の齟齬があったという可能性だ」
「それは……」
そんなことはない。
彼女と私は、きちんと、心の通った会話をしていた。
オンライン会議機能を使って見た、カレンのあの表情に間違いはない。
私の怒りを察したのか、彼は苦笑して
「まあ、英語が分からなかったために、そのカレンという子を、同じ大学の学生と勘違いした可能性や、同じ講義を履修していると勘違いした可能性も、考えなくてはいけないからね」
「……意外と真面目に考えてくれてるんですね」
この人の大学職員とはとても思えないふざけた態度を散々見てきていただけに、純粋な驚きの言葉がもれてしまった。
彼は苦笑とも判断がつかない微妙な笑みを浮かべると
「大学職員の仕事は、社会を知ることだ」
「……はい?」
「大学職員の仕事は多岐に渡る。総務財務といった、どこの企業にもあるような仕事から、研究の推進、果ては地域への貢献、国際交流とかね。社会の要請を受けて、大学の役割も変わってきて、どんどん多様化していっている」
「……はあ」
いきなり何を言っているのだ、この人。
私の白けた表情を、彼は気をとめた様子もなく、といって、熱が入ったわけでもない態度で続けた。
「大学の事務職員も、法律できちんと定められた存在だ。おまけに、2017年には法律が改正されて、事務を『処理』する存在から『遂行』する存在になった。職員に求められる役割は日々高まっているのさ」
「……それが私の相談とどう関係があるんですか」
マスク越しでも分かるであろう私の表情の変化に、彼は肩をすくめて
「学生の考え方、感じ方は、大学が相手にする社会の一要素だ。学生の相談に乗るというのは、職員にとって貴重な機会だから、自分としても、真剣にならざるを得ないのさ」
「……真剣な態度がそれなんですか?」
私の当然の疑問に
「真剣さは人それぞれだ。これが僕の真面目さなんだ。……で、キミの相談も僕なりに真面目に考えてみたい」
そして、彼はすっとこちらに目線を据えた。
先ほどからの冷気とは無関係に、部屋の空気が、すっと冷えた気がした。
そんな私の臆する様子を彼は問題にせず
「最初に思いついた可能性は、さっきの、英語でのコミュニケーションが上手くいかず、互いに誤解が積み重ったというものだ。でも、キミの感覚ではそれはありえないという」
「私がカレンと知り合って、3ヵ月もあったんです。少しは、話が通じない場面はあったかもしれないけれど、広山大学の学生であることや、新入生であること、所属している学部や、履修している科目。そんな基本的で、大事なことを、間違えていただなんて思えません」
「なるほど」
彼は腹が立つほど軽快に頷くと
「なら、2つ目の可能性を指摘しよう。彼女がそもそも日本に来日していなかった、というのは?」
「……どういうことですか?」
「彼女との会話は常にオンライン上だったんだろう?なら、物質的な距離はこの際問題にならない。彼女が、アメリカにいたまま、来日したふりをして、コミュニケーションをとっていた、という可能性だ」
「……そんなの、ありえない」
「なぜ?」
私の感情的な返答に、彼は論理の疑問をぶつけて
「彼女は、日本の大学に前々から興味があったのかもしれない。そこで、とある日本の地方大学生に成りすますことにした。学部の情報やシラバスは大学のホームページで公開されているから、日本の大学生の『ふり』をすること自体はそう難しくもない」
「……でも、彼女のSNSのアイコンは、実際に大学近辺のものを使用していました」
「いくらでもネット上で画像を拾ってこられるだろう」
「でも……」
私は言葉を必死で接ごうと焦る気持ちを抑えて
「……時差の問題があります」
「時差?」
「私と彼女は日中でも夜間でも、普通に接していました。アメリカ在住なら、日本とは時差が最低でも14時間はあるはずです。私が朝9時にしていた会話を、あっちは前の日の午後19時に受けていたことになる。朝と夜の違和感を、オンラインとは言え互いの顔を見ながらの会話で、見逃すとは思えない」
「決定打ではないな」
「なら、そもそも彼女はSNSのアカウントでも、私が話しかけるまで、広山大学の学生に積極的に関わっている様子もありませんでした。ただ不満をアカウントで呟いていただけ。日本の大学生のふりをするなら、他の大学生と絡むことが目的なわけでしょう?なら、私にコンタクトを取られるより前に、もっと活発に行動しているはずです」
「それはキミが把握していた限りでの話だろう?他にアカウントをいくつも持っていたのかもしれない」
彼は私の反論に乱れる様子もなく言葉を返した。
「っ!?な、なら、講義の進捗具合はどうですか?」
「講義の進捗?」
「私とカレンは同じ科目を履修していて、課題は期末のレポートだけ。毎回何かやらなくていいのは楽だけれど、その分、振り返りが大変だったんです。だから、私とカレンはその日の講義で分からなかったところをお互い共有していました。講義は外部の人間には公開されていません。アメリカにいた人間が、地方の大学の講義の進捗状況を知れたはずがない」
「それこそSNSの他の学生のアカウントの発言から、推測したのかもしれない」
「……そんなこと言いだしたら」
「まあ、何でもありだな」
彼は、今度は苦笑とはっきりわかる笑みを浮かべて
「可能性の問題を突き詰めだしたら切りがない。よし、いいだろう。キミがそこまで言うのなら、アメリカ在住のまま、日本の大学生のふりをしていたという線はなしにしよう」
「あたりまえです!!」
私の憤然とした態度に対して、彼はそのまま薄い笑みを崩さずに
「なら、広山大学生であることは事実だけれど、アメリカ在住のままだった、というのは?」
「……どういうことですか?」
彼は淡々とした、それでもどこか議論を楽しんでいるような口調で
「外国人留学生が広山大学に入学するには、国費外国人留学生の制度を利用して受験するか、学部ごとに実施されている私費外国人留学生の選抜試験を受けるか、あるいは一般選抜を受験するか、その3つだ。制度やその募集時期によって多少は異なるが、どんなに遅くとも広山大学への合格は2月には決まる。その頃には、日本でも最初の感染者が出始めていた」
「それがどういう……」
「つまり、彼女は日本と近い国で起こったとされている最初の感染例に危機感を覚えた。そして、日本で広まるのも時間の問題だと考えた。異国の地にあって、未知の感染症にかかるほど耐え難いことはない。だから、彼女はアメリカでオンライン授業を受ける選択をした」
「……入国していないのに、そんなことが可能なんですか?」
「入国をしなくても、留学生が学籍を取得することは可能だ。一度学籍を入手できれば、大学の情報システムへのアクセスも可能になる。アメリカ在住だろうが、日本の大学生として、講義を受けることは可能だ」
彼は「どうだ?」と言うようにこちらを見やって
「これなら十分あり得る話だろう?」
「……もし本当にそうなら、なんでカレンはそのことを言ってくれなかったんですか」
「せっかくできた日本人の友達に、真実を伝えることに気後れしたのかもしれない。同じ境遇にある身として励まし合いもしたんだろう?なら、なおさら真実は伝えづらい」
「……そんな、ことが」
「これなら、対面授業が始まってからキャンパスに来なかった理由も説明がつく。いくら対面授業が開始されたからといって、アメリカ在住の人間が、感染症の水際対策で入国制限がかかっている状態で、すぐに来日できるはずがない」
そんなことがありうるの?
また頭が混乱してきた。
彼は何も言わず、私の戸惑いをただ見つめている。
黙した時間は、数分にも、何十分にも感じられた。
「……やっぱり、おかしいです」
「ほう、なぜ?」
「そんな事情があるなら、先生や大学の職員が知らないはずがない。アメリカ在住の学生に、何の配慮もなされないなんてことは考えられません。少なくとも先生は授業の関係上、知っていて当然です」
「学生の個人情報に係ることだ。同じ学生相手と言えど、個人情報をうかつに教えるわけにはいかない。そこで、親切心を出して、一応調べるふりをしたんだろう」
「でも、そんな答えをしても、私が混乱することは目に見えているじゃないですか。そんな誤魔化し方をする意味がない。それなら、最初から私の依頼なんて断っていればいい」
「それはそうだな」
意外なほどあっさりと、彼は自説を捨ててしまった。
「言語の違いによるコミュニケーションの齟齬でもない。オンラインで日本の大学生のふりをしていたわけでもない。正式な学生だけれど、来日が出来ていないという状態でもない……なら、他にどういう可能性がある?」
「……それが分からないから」
あんたのところに相談に来たんでしょ?
私が叫びたくなるような思いになる一方で、彼は嗜虐的でも困惑した様子も顔に浮かべず
「あるいは、その留学生の存在は、キミの単なる妄想だったのだろうか?孤独な大学生活に耐え切れず、キミが空想の留学生の友達を生み出してしまったのか?なら、キミが相談するべきは、大学職員ではなく、精神科か心療内科ということになる」
「……そんなこと」
あるはずがない。
……でも、断言はできない。
実際に、彼女は大学に来ていない。
3ケ月、辛苦を共になめたはずの彼女を、私は実際には見ていないんだ。
私の顔面が蒼白になっていたからか、彼は少し和らげた口調で
「あるいは、誰かキミに恨みを持つ人間が、壮大なトリックを用いて、キミが架空の留学生の存在を主張する哀れな女子大学生だと、周囲に思わせようとしているのか?」
「そんな……そんなはずありません。私は、元々、友人がいないから、だから、カレンと……」
「ふむ。……キミの完全なる妄想でもない。こちらに越してきたばかりで、誰の恨みも買うはずがないから、そんな奇妙なトリックを仕掛ける人間がいるはずもない」
彼はなおも冷静に続けて
「……なら、どこかに、やはり誤解があるんだ」
「誤解って、どこに?」
私の言葉に彼はまた、「ふむ」と答えると
「しばらく待つことだ」
「……え?」
「今日はもう帰って、しばらく待ってくれ。簡単な話のはずだから」
そういうと、彼はいきなり立ち上がり、半ば私を追い出すように
「じゃあ、そういうことで」
そして、そのみずぼらしい相談室の扉は閉められてしまった。
「えっ!?……」
あまりに突然のことだった。
「ちょ、ちょっと、どういうことですか!!」
扉を慌てて叩いても、返事はない。
ただ、人気のない廊下に自分の声が反響する。
私は自分の不遇さを呪った。