04
私はつい2、3ヵ月前のことが思い出に変わりつつあることを奇妙に思いながら、話を続けていた。
「てっきり日本人だと思っていました。だから、最初はとても驚いてしまって。でも、かえって、納得した思いでした。SNSでの呟きが、時々舌足らずなところがあったから。単にそういう性格の子なんだって思っていたけれど、あれは、一度英語で書いた文章を、機械翻訳を通して呟いていたからだったんです」
如月というその事務職員は、特に何の感想も持っていなさそうな目で、私の話を聞き続けた。
真面目に話を聞いていれば、「なら、なんで返信は英語だったのか? 」と聞いてきそうなものなのに。
その答えは「この先付き合いを続けるには、慣れない日本語よりも、英語の方がよいと彼女が思ったから」だ。
……本当にこの人が相談相手で大丈夫なのかという思いが強まる一方だったけれど、走り出したものは中々止められない。
「カレンは……その留学生の女の子の名前なんですけど……アメリカのハイスクールを出て、日本に留学しに来た子だったんです。元々、アニメとか、日本の文化が好きだったし、地域について学ぶことは、万国共通で役に立つから、広山大学への進学を選んだそうです」
私達は、同じ不安を抱いていた。
知らない土地、知らない場所で、何も知らないまま閉ざされた時を過ごす不安。
いや、カレンからすれば、そもそもが異国の地にあって、その不安感は何倍にも膨れ上がっていたに違いない。
「最初のメッセージには戸惑いを覚えたけれど、私達はお互い名乗りあって、すぐに仲良くなれました。対面に代わってオンラインでの対話が時流になっていたけれど、元々警戒心が強いこともあって、私はその波には乗り切れていませんでした。でも、カレンと『出会って』からは違った」
人々の価値観は様々な要因により移り変わる。
「それからは、毎日が楽しかったんです。確かにお互いが広山大学の地域貢献学部の学生だと分かってからは、それぞれが講義でつまずいているポイントを整理したり、生活の悩みを話し合ったりして、過ごしていました」
カレンと話すことで、心の重しが軽くなり、解放された気がした。
話し合うことで、心が穏やかになった。
直接悩みを解決することはできないにしても、同じ悩みを抱えているというだけで、人はその負担を軽くできるのだと気が付いた。
「感染症に対する恐怖もあって、直接会うという決断は出来ませんでした。でも、私達はお互いが、確かに心の支えになっていたんです。遠隔授業の孤独を乗り切れたのは、カレンと話せたおかげでした」
灰色だった生活に彩を加えてくれた留学生の友人の存在は、普段の友人関係の絆を越えた。
その思いがあったからこそ、カレンが『いなくなって』、私は戸惑ったのだ。
「今月になって、……職員さんなら当然ご存知だと思いますけど、大学は遠隔授業と並行で、対面授業を行うことを発表しました。大学のeラーニングシステム上でそのことを知って、私はとてもうれしくて、解放された気分になりました。やっと、カレンに……友達に会えるんだって」
オンライン上で出来た、直接話すことがなかった友人。
彼女と会える喜びで、より体が軽くなった気がした。
「服は何を着ていこう。化粧はどうしよう。どんな所に行こう。直接会ったら、二人で何が出来るだろう。どうすれば、彼女に、もっと自分を分かってもらえるだろう」
嬉しさは止まらず、泉のように湧き出してきた。
「もちろん、対面授業が再開されても、感染防止策は取らないといけない。何もかもが自由になったわけじゃない。でも、私は不完全な自由でも、それを共有できる友達がいることが嬉しかったんです」
そして、二人が一諸に履修していた「社会比較論入門」の講義が、オンラインと対面のハイブリッド型で行われることが正式に決まり、私達は実際に会う約束をした。
アプリケーショで交わした言葉と顔文字は、私達の友情を確かに表していたと思う。
でも、対面講義の初日、彼女は大学に来なかった。
「そんなに大勢が履修している授業ではありません。そもそもが、定員の少ない学部ですから。そこに留学生の子の姿があれば、絶対に分かったはずです。でも、彼女はいなかった」
カレンの姿が見えないことに、私は強いショックを受けた。
先生の話もまったく頭に入ってこなかった。
密にならないよう対策が取られ、ほぼ一様なマスク姿が並ぶなかで、ただ、彼女の姿を必死に探していた。
「結局、見つけられませんでした。そこで、私は急いでアプリを開いて、彼女と連絡を取ろうとして」
応答はなかった。
相手がメッセージを見たかどうかはこっちですぐにわかる。
メッセージの受信そのものを拒否されているわけではない。
「でも、私が何を言っても、何も返してくれない。通話機能を立ち上げても拒否されてしまう。どういうことなのか、さっぱり分からなかった」
そして、いつの間にか彼女のアカウントは消されていた。
彼女のオンライン上での足取りは、完全に途絶えてしまった。
「それでも、私は信じて、対面講義に出続けました。1週間、2週間が過ぎて、私はキャンパスを歩きまわりました。‥‥それでも、彼女はどこにもいなかった。どこにも見つからなかった」
この場所に、ああいう建物があって、この木には、こういう由来があって。
いつもならワクワクして仕方がないはずの情報も、今ではむなしい思いを駆り立てるだけ。
どうすればいいのか分からなかった。
考えればすっきりするのではなく、むしろ混乱が深まっていく。
なんで、カレンは大学に来ないの?
どうして、カレンは何も言ってくれないの?
どうして、私との連絡を絶ってしまった?
「私は悩みに悩みました。そして、決意しました」
『この授業を、外国人の留学生の女の子が履修しているはずなんですけど』
‥‥実際に先生に話をするのは、勇気のいる行動だった。
「先生は、最初は私の意図が分からなかったみたいで、学生の個人情報を、同じ学生相手とはいえ漏らすわけにはいかないと、拒否されてしまいました」
でも、私は諦めず、必死で事情を話した。
「先生は、そういうことなら、と理解をしてくれて、その場で、パソコンで学生の情報を調べてくれました」
しかし、返ってきたのは想定していない答えだった。
『そもそも留学生の人は、この講義の履修をしてない』。
「大学の管理システムから、履修している学生の情報が分かるらしいんですけど……そういう答えでした」
私はこの時、眩暈という感覚を真に理解した。
そんなはずはない。
「じゃあ、一諸に講義の難しい部分を語り合って、同じように悩んで、苦しみを分かち合ったカレンは、いったい誰だったの? そんなはずはない!! 」
地面が崩れ落ちるかと思った。
涙が自然とこぼれてきた。
それでも、まだあきらめられなかった。
何かの間違いで、あるはずだった。
「その足で、教務棟の、学籍の管理をしている係に相談に行きました。外国人留学生の、こういう名前の子がいるはずだから、調べてくれないかって」
こちらでも最初は同じく拒否されたが、私の必死の形相を見て、係の職員は考え直してくれたらしい。
こそこそとした所作で、受付の男性職員はカレンについて調べてくれた。
そしてまた、同じ失望を味わうことになった。
「彼女の名前は、そういう留学生は、いないと言われました。そんな学生の情報はない、って」
どういうことなのだろう。
遠隔とはいえ、同じ時間を共有していたはずのあの子は、なら、いったい、何者だったのだろう。
単に嫌われて、連絡を絶たれたというなら、まだ、分かる。
……それでも信じたくはないけれど。
でも、彼女の情報が大学のどこにもないのはおかしい。
そんなの、ありえない!!
「ここまでくると分からなくなって……彼女は、本当に存在していたのかなって? そんな風にまで思いました。本当に、カレンは私と話して、同じ講義を受けていたんだろうかって。本当はそんな子はいなくて、全部私の妄想だったんじゃないかって。……もう、どうすればいいのか分からなくて」
私はそこで、言葉を切った。
もうどうしようもないという思いだけが、話すにつれて強まっていった。
「…………」
目の前の如月という事務職員は、相変わらずやる気のなさそうな顔のままだった。
私が感情に揺られて語気が荒くなったり、体が震えたりしていても、何も言わず、ただ、話を聞いている。
いや、相づちを打つことすらしていないので、そもそもちゃんと話を聞いているのかどうかも分からない。
私がこんなに苦しんでいるのに、この人は、何も考えていないのではないか?
私が半ば怒りのこもった目で彼を見ていると、やがて口を開いて
「……なるほど。事情は大体わかった。消えた留学生ね」
それから、気だるげな様子は変えずに、彼は、ただ背中を少し伸ばして
「ひとつ質問がある」
「……なんですか」
「その留学生とキミとは、何語で会話していたんだ? 」
大して年も違わなさそうなのに、彼は私を「キミ」と呼んで、そう尋ねたのだった。