果水
相変わらず駅前ロータリーにはタクシーが並んでいた。
急行列車の到着時刻になるとその外周を時計廻りに車がやってきては次々に帰省した家族や観光客らを乗せ走り去っていく。バスの運転手らが、控え室でテレビの高校野球に見入っていた。列車が駅をはなれると、またあたりは静寂につつまれ、棕櫚の葉が天空の葉をふり、シャラシャラとたてる音だけがあたりを支配した。
ひとりのタクシー運転手が余りの暇と暑さのせいなのか車から降り、他のタクシーに歩み寄り仲間の運転手に声をかけていた。太り、首はめり込み、丸い力石のような頭に小学生の運動帽の様に変形してしまったグレイのタクシー会社の制帽を載せたその男の声はしゃがれていて異常に高い。その、コミカルな動作に『猿人みたいじゃ』と達男は1人呟いた。達夫は改札口の正面に突き出した、メロングリーン色の日除けのシェードの下にいた。親戚の迎えを待っていた。ロータリーの向いに白い一軒屋があったはずだと達男は追憶した。
蛇の目のミシン看板を取り払い、小さな男が住み着いた。男は洋物の服や古いマンボのレコード等をショウウインドーに飾り立て、
天空の葉を振る棕櫚に合わせるように奇声をあげ木の床をきしませステップを踏んだ。
男の行動は達男の記憶に、
まるで遠い異国の映像のように輪郭のぼやけた水槽の風景のようにあり、その後、都会で見たどんなLIVEやショウよりも衝撃的で卑猥だった。
◆暫くすると国道から続く道から一台のダンプがロータリーに入ってきた。
窓を開けて運転席から右手を立て拝むポウズをする。『遅れてしもてすまんな~道エライ混んだる。』達男は助手席側のダンプのドアを開けて久しぶりに逢った紀幸を見た。日に灼けて皺が刻まれた紀幸の顔はおない歳の達夫よりも上に見えた。『猿人見たら帰ってきた気になる。』達男はひとり呟いた。
紀幸はダンプのギアに手をかけアクセルを吹かし、『えんじん?エンジンがなんじゃい?』と達男に空返事をし、すぐに『優介おったやろ、雲町の、あれ死んでしもたよ。』と眩しい陽に目を細め塩辛声で言った。『なんで、なんで死んだんよ?いつな?』達男が紀幸の横顔を見た。『あいつ、酒呑んでヤクザに絡んで殺されたん。先に帰ったヤクザに待ち伏せされて刃物でグサリやと。』トラックに吹き込む暑い風は川向こうのパルプ工場から吹き出る硫黄のような臭いと、町の製材所で加工される杉の香りとが混じった匂いがした。達夫はその風の中で混乱した。
「達、優」と呼びあい、中学まで同区で育った優介が死んだ。三年前の夏、家出同然でこの街を出た達夫に頼りをよこす仲間などおらず、帰る10日前に久しぶりに紀幸にかけた電話でも紀幸はふんふんとただ頷き、迎えにゆくからと応えただけで優介の死の事など一言もしゃべらなかった。
『どうするん?このまま墓参るんやったら奥谷に行くど。優の墓も奥谷じゃ。』
奥谷とはこの土地にある共同墓地のことで
小高い丘に石の墓標がへばりつくように立ち並んでいる。
その中腹に達男の父親の墓もあった。
『行かん。先に寄るとこある。浜の道で降ろしてくれんこ?』
『死んだ土中の骨よりも熱い熱いの太ももの肉カョ?』
紀幸は左手で達男の太ももをピシャリと叩き、
たばこの煙を鼻から吐きながら笑う。
ラジオからはアナウンサーがサヨナラ勝ちした聞いた事もない高校の名前を何度も連呼していた。
◆海岸に沿った道から少し入った小さな松林丘にせり出した、地元の古老達が「巽さん」と呼んでいる小さな神社の脇の古い喫茶店に達男は入った。剥げて割れた黒皮のシート、赤紫色のアクリルドア越しに、浜通りを行き交う車が透けて見える。達男はその店の空気が好きだった。懐かしかった。
『久しぶりやの、洋子ネェ、元気にしとったんかい。』達男はプラスチック製のタバコケースからタバコを一本取り出して火を付けた。
『久しぶりゆうて、あんた、どこへ行っとったん?』カウンターの向こうから声が聞こえてくる。
『そこのおばちゃんみたいに都会でイヤらしい事しとったんじゃ』
達男は一回りほど歳上の洋子をからかった。洋子も達男くらいの歳の頃に家出していた。
『何ゆうの、ホンマこの子は』達男の注文したアイス珈琲を持ち、カウンターから洋子は達男の座るシートに身をよこし、貞男の両耳に両手をかけた。冷たい感触がした。
『お父さんに似てきて。どれ、ねぇちゃんが抱っこしたる。』無理やりに胸の谷間に顔を寄せつけようとする洋子の赤く塗った唇から酒の匂いがした。達男が突き放そうとするとなおもしつこく抱きついてくる洋子の笑い声の上に午後1時を告げる柱時計の音がボゥ~ンと重なった。
じゃれついてくる洋子の姿に達男は疑心を抱いた。『洋子ネェょ、お前、クスリやっとんと違うか?』
表を黄色い帽子をかぶった小学生の小さな列が通り過ぎてゆく。洋子はシートに身を沈めたまま赤いドアに歪んで映るその行列に白い指先でおいでおいでと手招きをする。
『あたしになあ、狐さんが憑いとるん。巽さんの狐さんが降りてきてあたしのからだに入ったん』
急に寝起きの子供のような、どうにもならないような甘えた声で囁いた洋子に達男は鳥肌がたった。と同時にこのまま赤い唇を吸い犯してしまいたい欲望に駆られた。
達男はテーブルの、甘い冷えた珈琲グラスからズレた丸いコースターを見つめ『また来るし』と店を出た。
外気の暑さに晒されて、眩暈がした。
堤防に遮られた浜に波がうちよせ、浜石を洗う音だけが達男の耳に届く。
のろのろと歩を進め、アリの行列のように不規則に進んでゆく子を見つめ
達男は一瞬後を追うように歩み、身を翻し立ち止まった。目を空に向けた。
ポケットの中に突っ込んだ指先に汗ばんだ小銭の感触がうっとうしく、手をジーンズのわきに這わせ拭いた。
この町の、空に渦巻き降り落ちてくるものから身を解き放ちたい、
自分をがんじがらめにするこの町の、
誰のものでもない視線から逃れたいその一心で
他の土地に出た。
遠く離れ、見知らぬ人、違う喧騒の中に身を隠すようにすればするほど
達男の心は荒んで行きそのうち自分の血に溶け込んだこの地の霊なるものが
おぞましい姿で現れそれが夢に出、うなされた。
たちどまる達男の肺に風に乗った潮のニオイが籠もる。
陽がまぶしい。見上げたその陽に目がかすみ、眩むような眩暈がおこった。この陽こそ、沈殿したようなこの町をより際立たせているのを達夫は確信したように歩き出した。
通りにいくつもある製材所の木を鋸で引く音がうるさく、そう感じることが他の町に染まった事のように達男は安堵した。
製材所の出す喧騒に混じり、女が店先に立って鳥のなくような声で客を募っていた。
腰を曲げ、ときおり思いついたように青いプラスチック製のバケツの水を捨て、ホースで水を足しながらも良く通るその声で同じ台詞を道ゆくひとに浴びせていた。その太った、時代遅れのチリチリパーマを茶色に染めた女にニヤついた笑いをうかべながら達男は無言のまま近づいた。
「おまえ、何なっ・・」
普段でも驚いたような眼で人を見るその母の顔はみるみるうちに紅色に変り、頬がひきつり震えていた。
鴉の鳴く声が河口の森のほうからきこえた。
「もうええ。どこぞのあほが店のぞいとんのかと思たよ。」
母の踵を返すようなその声にまた森のからすの鳴き声が重なり達夫はその母の声は自分にさしむけられたのではなく、むしろ異様な姿の巨人が白昼の道端を塞ぐ様に立ち、己の背後から店をのぞきこんでると想い、可笑しかった。
「ニヤいてんと、一応中入れ。おかあちゃんが笑われる。」目をバケツの中の商品の蟹に向け、蟹を手ですくい、また放す。
「ミヤゲ、渡しに来た。」
「はよおう、中入れ。」
「商売の邪魔かん。そんなに俺が邪魔かい。」
その言葉に言葉を詰め,手で顔を覆い弱々しく何かを言いかけた母の言葉を断ち切るように
達夫は怒鳴った。「命令すんな」
「ほたら、とっとと消えさらせ。昼間に店の前立つなぁぁ。」
水がこぼれた。奥からラジオなのかテレビなのか急に歌謡曲が鳴り出した。
さっきまでのこもった司会らしい男のの声や笑声から一点して鮮明に聞こえてくる 変な癖を尾鰭につけ歌う女性歌手の声のトーンは達夫の萎んでゆく心をさらに不安にさせた。
暑さでセピア色にゆがんで見えるような夏の街を達夫は歩き出し、高鳴る心臓の音を感じながら土産袋を道に叩き付けた。
「勝手に消えて勝手に来たったんだけじゃ。」
市の広報車がスピーカーから公報を流しゆっくりと近ずいてくる。そのゆったりとした口調とはウラハラな音量のでかさに達夫は苛立った。苛立ちを覆い隠したようなこの街そのもののようなその広報車に達夫は爆発した。
「じゃかぁっしいんじゃ!なんでのろいんじゃい!」
その時、ノロノロとした速度で達夫を通り過ぎようとしていた公報の車が停止した。
だらだらとその公報を読み上げていた助手席の老いた男の首がつんのめる。
運転していた男がシートベルトを慌てて外し飛び降りてきた。
「だれがノロいんじ、あれぇ、達夫おっ。」
町中に12時を告げるサイレンが鳴った。空襲警報のような大音量のサイレンが半島の先に広がったこの町に響き渡る。
その音は達男の体を空中に持ち上げるような不思議な音としてたつおの中に入り込んで来た。
◆男は春彦、達夫の不良仲間の一人だった。
春彦に案内され、奥谷の優介の墓に登った。獣道のような険しい細道を登った窪んだ優介の身内が眠る場所があった。そのまだ新しい優介の墓石に映る自分の陰影を呆けたように見つめ、石に刻まれた名前を声にしてみた。「優介..」か細く力無い自らの声は供えられた赤い花と線香からあがる柔らかい煙と符号し達夫の器官を伝い体内に響く。身体が一瞬ふっと浮かんだ感じがした。
「こいつ、死んだんじゃわ。」
そんな達夫など意に介さないように春彦は墓の囲いに足をかけ、墓石に刻んである達夫の名前を指でなじりながら、爪楊枝を加えたままつぶやいた。
しゃがんだまま、眩しい陽に目を細め見上げた春彦の姿、その後ろに蒼い空が満ちていた。
死んだ者は死んだ者の世界にゆく・・。もうどこにもおらん。
達夫は春彦がそう言い放ったような気がした。
春彦の姿をさっき見た陽の幻人のように感じ達夫はなおも目を細め手をかざし、その陰影を見あげた。
不思議だった。
谷に重なり合う蝉の声がいっそう大きくなったような気がして達夫はしゃがんだまま両手で耳を塞いだ。
◆一人の女が街に向かう列車の窓に流れる景色を見つめていた。腕を組み、もう片方の足に足を絡めるようにして座席に身を鎮め眩しい陽をシェードで妨げる事もなく、口を半開きにして列車の揺れに身を任せている。
大して目立った装いではないのにその女の容姿は人の目を奪った。男だけにとどまらず、女子供まで無意識のうちにその女を見つめていた。
見られていてものが自分では無いような、そんな雰囲気を見つめる相手に醸し出す女だった。
気性の激しさを現すような、エキゾチックに映る女の眼と短くカットした柔らかい髪は都会にいるときも人の目を惹きつけていた。
父親の顔も知らぬこの女の母親は売春婦であり、とうの昔に街を捨て、子を捨て、この娘の記憶に微かにあるのは布団に潜り込んだ冷たい耳に響いてくる、壁の向こうで酔う母の、怒鳴るような声にかぶさるトンネルをぬけてくる列車の音だった。
線路を軋ませる列車はやがて喚起したように汽笛を上げた。その音は声になり、幼いおんなの心を握りつぶすようにもの悲しく、冷たい闇のなかでひびきわたったのだった。
流れ行く車窓の景色に女の心は無かった。
ほぼ故郷の街に渡る大橋の鉄橋が近づいてきた時にユカは声に出して駅名を呟いた
立ち上がり小さなスーツケースを棚から降ろす鼻歌代わりにCMの節をつけ澄んだ声で歌った。
後ろの座席に座った男がその膨らんだ尻を
犯すようにみつめていてもユカはただ、先を急ぐ旅人のように列車の乗降口に向かった。
列車が川にかかる橋に入る。緑が生い茂った磐の河辺と鉄橋を渡る列車音とが心地よく重なり
途端に車内は光陽に包み込まれ明るくなり、
その異変に最終駅の温泉街へ向かう老婆たちが歓喜の声を上げた。女をみつめていた男はその声に導かれるように一瞬視線を車窓に移したが、すぐ読みかけの週刊誌の記事に目を落とした。クリスタル色の、時代遅れのサングラスをしていた。
列車は短いトンネルを抜け、プラットホームに滑り込んだ。女は駅に降り立った。街の匂いがした。パルプ工場の煙と材木が入り混じった、なつかしい香りがした。
◆「うち、この街出てわかったんやけど、結局うちらはうちらやね。あのねぇちゃんもこの街はなれて結局もどってきて喫茶店やっとるし。
気性が荒いゆうんか、合う子少なかったもん。」
海にひろがる街の背に隆起した山で流れを大きくかえその街を横目でみるようにして海にそそぐ川、その大橋をわたった国道ぞいの喫茶APPOLOでユカは貞夫と春彦に向かい合って
窓辺のシートにすわっていた。
「強いんかん?おまえ、特別荒いからと違うんかい?」春彦が腕を組んで真面目な顔で訪ねた。
横に座る貞夫はおもわず声をたてて笑う。
「昔のむかし、海から流れ着いたヤカラと山の女狐が腹かさねおうて出来たんがワシらじゃがい」達夫のことばにユカはアイス珈琲のストローを口にしたまま、「ンン」と小さな呻きをあげ、「そーやんょ。荒いんで。女は特に、そう。
あそこの宮で巫女のバイトやっとる由美知ったある?夜は男とやりまくって昼間はスマしてあれやもん。神さん、天からなんもゆうてきゃへんのやろか?」
「そおやんで、アリガタラレとるんちゃうんかん?俺はなぁ、女陰の熱い女のほうが
まだ男しらん女より神々しい感じするけど。」
真剣に答う春夫の顔を見て達夫は笑い声をあげながらも不思議な心地がしていた。
店内の南洋植物が窓から入る陽をうけゆれていた。国道のむこうに、海と空がひとつになってひろがっている。金色の、いったいどこが境かわからぬ風景に区切りをつけるように、黒い縁取りの鳥が羽をはばたかせ岬のほうへ飛んでゆく。3匹の鳥が伊勢の方から飛んで来たような気がして、やがて窓枠から消えてゆく鳥をなおも両手を蛙のようにして目で追う
達男の姿にユカが声をあげて笑い出す。カウンターで新聞を広げていた初老の男が会計を済まし女主人に「がんばっておいでよぅ。」と声をかけられ小さく呻くように応答しAPPOLOのガラスドアを押して出ていった。カランというドアベルの音が響き、クーラーの効いた店内に
夕暮れの雨上がりの濃い蒸れたつ外気のが店内に入り込む。
「うなぎ釣りやと。あのひと場所絶対教えてくれやんよ。」おんな主人はコーヒーカップと水の残ったグラスを片付けながらカウンターの常連に話かける。まだ海のうえに残る鼠色の雲に対し、街の方向には筆でつけたような朱色の雲が幾つも夕闇の黄金色の空に浮かんでいた。
ユカが乗ってきた車で送ってもらいたつおは一人、トタンで覆われた家の前に立った。今日1日の出来事すべてが濃く甘い光に包まれているのをたつおは不思議に想った。
内垣もない、爺が一人で住んでいるその小屋の昔、畑だった場所に茶赤に錆び付いたビール瓶のような形をした鉄塊が建っている。
それはたつおが幼く、まだ手をひかれて歩いていた頃の記憶にもある鉄塊だった。潮風に晒され風化し、土の上に引いた薄いコンクリートはその重みに耐えかね既に割れ、傾斜したままそこにあった。
この土地の灼熱陽に今日も焼かれたその炉からウォーンと唸り声のような音、幻聴をたつおは感じた。鉄塊は大昔、爺が一人でチェーンと滑車だけで5階建の温泉ホテルに備え付けたボイラーだった。一夜のうちに誰の手も借りず力とテコの応用だけで高所に設置してしまったそのボイラーを下から見上げ、枠組みだけの状態とはいえ、皆一様に驚きの声をあげた。
その後時代は変わり、電車の開通とともに賑華を極めたこの温泉街も没落し、ホテルも取り壊された。
その後どういう経過を経てこの場所に朽ちるまで放置されたのか、たつおは知る由もなく、直接爺に確かめることも無かった。ただ、たつおにはその錆び付いたボイラーが爺の生きてきた証の塔のような気がしていた。
今は訪ねてくる他人もいなくなった爺の小屋のドアに立ち、「じぃ、じぃ」と呼びかけた。
握りこぶしで視線を下にしていると油蝉の羽の残殻が絡みつく朽ち割れたトタン切れが風にはらはらと揺れ、後ろのボイラーの陰影が突然動いた気がしてたつおは目を後ろに向けた。
黒く変色した小さなドアノブがキュルと音をたてやがて咳の音と共に木製ドアが開いた。
「たつおじゃ」爺は警戒するでもなく呆けたように口を開けた表情でたつおを見る。
ホォーウという甲高い声をあげ皺の顔をくしゃくしゃにし元さんがたつおだと気づき中に入れと片腕を何度も何度も水平に振る。
たつおはその滑稽な仕草に思わず吹き出し
「ちゃんと飯食うとるんかい」と聴く。
部屋の中は近所の老人達に好きなようにいじくられ、タイガースのカレンダーや興行でやってきた漫才シヨウのポスター、それに小型ガスボンベにつないだままの焼肉コンロがそのまま放置してある。たつおはコンロにこびりついた野菜や肉の炭化した黒い塊を見つめ、
「好きなように使われとるのぅ」とつぶやくと
元爺はまた「ホオウ」とヒュルヒュルと吹き込む風のような返答を返した。
この小屋に吹き込む海風に重なるように聞こえるその声にたつおは得も言えぬ寂しさが
肩のあたりにのりかかるのを感じ身震いした。 「爺よ、もう仕事せんのんかん?」
「せん。出来んことないけどもうせんよ。一人では辛い。病気したさか。」
お茶を沸かす手は微かに震えている。その震える手で湯呑に茶を入れる弱々しい小さな後ろ姿をたつおは見つめていた。と、爺の隣に人の姿があるのを感じた。元爺を見つめる盛り上がった筋肉の青年。手を流しの縁におき、口を尖らせ、まるで親方の手つき、作業をじっと凝視する若い衆のように元爺を見つめる青年の幻は
紛れもないあの一人でボイラーを縄で括りつけ釣り上げた元の姿だった。
海鳴りが聴こえる。
風が音をたてて吹き込む。すべては幻だと悟るように爺に問いかけた。・・・爺ょ。
突然割れた窓ガラスと誰もいない廃屋の腐り落ちた床に座る自分に気がつき,次の瞬きの後、
収監されている鉄格子の、狭い天井の目をみた。
すべては遠い記憶をつぎ合わせたばねた夢だった。熱く勃起していた。涙が溢れた。
たつおは今、確かにこの土地にいた。
完