決意
育苗用の小さな鉢に土を入れて、二粒ほど種を蒔き、種が隠れる程度に柔らかく土を被せる。そこに水をかけて土を湿らせる。
同じ行程を経た鉢をもう一つ用意して、これで同様の鉢が二つ。
「……よし」
頷いて、予め自室の窓辺に設置しておいた小さな机……その上に載っている、前以て水を張っておいた浅鉢の中に二つの鉢を置く。発芽するまでは、土が乾燥するのを防ぐ為にこのまま腰水に浸けておく。
「お嬢様。何故、植物の栽培を?」
作業が終わったのを見て、後ろから私を眺めていたリマが疑問を口にした。
「初心を忘れないために……ね」
作業を始める前に、手伝いますと彼女は申し出てくれたのだけど、それは断った。これは、私の手で行いたかったから。
「初心、ですか?」
「ええ、そうよ」
何の事やら、といった様子のリマから目を離して、窓の外を見やる。
天気は未だに曇り空だけれど、所々から日の光が差し込んでいる。
お父様に励まされてから、四日。
辛くない……と言ったら嘘になるけれど、それでもお父様のおかげで少し立ち直れた。
心が立ち直った分だけ体も復調してきて、食欲も幾らか戻り、眠る事も出来るようになってきて。お父様と話して、部屋から出てもいいと許可をいただいた。
まだ、どう償えばいいかは分からない。でも、悩んでばかりいても何も始まらない。
思い立ったのが、植物──ゼラニウムの栽培だった。
幸い、室内でも育てられる花だ。
世話をする度、私はお父様の言葉を思い出せる。視界に入る度、罪の重さに心が折れてしまわないように頑張れる。匂いを嗅ぐ度、贖罪の意志に芯が通る。
そう考えて、庭師に道具や土、種を用意してもらって今に至る。
「しかし、桃色の品種でよかったのですか?」
私の好みを把握しているリマは、不思議がって首を傾げている。
確かに、以前の私なら違う色を選んだだろう。それこそ、お母様に合わせて赤色のゼラニウムを選んだかもしれない。私自身、赤は好きな色だ。
でも。
「ええ、いいのよ」
桃色を選んだのは、自身への戒めの為。
桃色は私ではなく、サレナさんの色だから。
あの惨劇のそもそもの原因は、私がサレナさんに醜い嫉妬の感情を抱いた事にある。結果、自分でも信じられないような凶行に走ったのだ。
私は、あんな非道、無道を行った私自身を信用できない。
だから、桃色にした。
この色の花を目にする事で、自戒の念を胸の内に焼き付けられるように。
「……さて、お嬢様。そろそろラルエース様がいらっしゃいます。御支度を」
「分かったわ」
私の魔力量減少が判明してすぐ、お父様は王に宛てて事の次第、自身が登城し相談したい旨を記した手紙を認めて王城へ送った。
王からの返書を読んだお父様が王城へ向かったのが、私を励ましてくれた日の翌日。
お父様から報告を受けた王様や王妃様が話し合いを行い、昨日、その結果をラルエース様ご自身が伝えにいらっしゃるとの書簡が我が家に届いたのだ。
結果なんて、決まりきっている。
しかし、他ならぬラルエース様の口から告げられる、というのがどうにも気が重くて、遅々として身支度が捗らなかった。
「ユリアンヌ……」
応接室の扉を開けた瞬間、ラルエース様の暗いお顔が目に入った。その表情は、これから何を告げるかを雄弁に物語っていて。ラルエース様の背後に立つ、護衛兼側仕えのクダンの無表情が、それを更に際立たせていた。
「ラルエース様。此度の事態、偏に我が身の不徳のいたす所。誠に申し訳ありません」
「頭を上げてくれ、ユリアンヌ。謝らなければならないのは私の方だ」
「……はい」
下げていた頭を戻して、ラルエース様の御言葉を待つ。
言い難そうに口をもごもごと動かした後、ラルエース様は意を決したように拳に力を入れて、
「……すまない。君と結んでいた婚約だが……解消、という事に決まった」
「…………はい」
分かっていた。
「物心が付いた頃から交わしていた婚約だというのに……こんな事になって、本当にすまない」
「……いいえ、ラルエース様に非はありませんわ。私が悪いのです」
分かってはいた。
「そして、もう一つ。この証書にユリアンヌの署名をしてほしい……と父上から言付かっている」
「……はい」
けれど、やはり心は痛みを訴えて。目の前が真っ暗になったような気がして。
頭が、目線が、下を向きそうになる──けれど。
お父様の言葉を思い出す。先程植えたゼラニウムを想起する。それが、私に力をくれる。
すんでの所で持ち堪えて、ラルエースから書類を受け取った。書かれている文字に目を落とす。
その内容は、ハイダスタン王家とユージー公爵家の両家、及び婚約の当人であるラルエース様と私が、婚約解消に同意する……という物だった。後々揉めたりしない為に、両者合意の上だと明記しておく証明書だろう。
ハイダスタン王とラルエース様の記名は、既にされていた。
ラルエース様は逡巡してくれたのだろうか、それとも……なんて考えてしまう気持ちを何とか振り払って、震える手で私の名を書き記した。
「……うむ。確かに」
証書を返すと、ラルエース様は書に目を通して確認をした。
そして伏し目がちに此方を見ると、
「……ユリアンヌ。婚約者という関係は今日で終わる。だがしかし、我儘だとは思うが、これからも友として親睦を深めたい。……構わない、だろうか?」
なんて事を言って。
「王子、それはユリアンヌ様に失礼かと存じますが。第一、これから選定される王子の婚約者がそれを許すかどうか」
この言葉に呆れたような声を上げたのは、クダンだった。
「む……。そうか?」
「そうです。王子はもう少し、女心というものを学ばれた方がよろしいかと」
表情を変えずに放たれた慇懃無礼な言葉に、しかしラルエース様は、
「ふむ……」
怒ることもなく、顎に手を当てて考え込んでしまって。
こんな状況でも、このやり取りが楽しく思えてしまう。
昔から、そうだった。
私が何かしらをラルエース様に話し、ラルエース様がそれに反応を返して、たまにクダンが無礼とも取られかねない言葉をラルエース様に投げる。
込み上げてきた懐旧の気持ちを振り払って、言葉を紡ぐ。
「そう、ですわね……ラルエース様のお相手が許してくだされば、その時は是非に」
「……ありがとう、ユリアンヌ。お前と共にあった間、楽しかった」
「……私もですわ」
束の間、見つめ合う。
ラルエース様は微笑んでらっしゃるけれど、私は上手に笑えているか分からない。
「では、ユージー公爵を呼んできてもらえるだろうか」
「承知しました」
踵を返して、退室しようと扉の把手を握った時、
「……ちょっと待ってくれ」
ラルエース様が待ったをかけた。振り返る。
「はい?」
「婚約が無くなった今言うことでもないかもしれないが……約束を守れなくて、すまなかった」
頭が疑問符で埋まる。
「約束、ですか?」
そのまま言葉にすると、ラルエース様は首肯した。
「ああ。誕生日の贈り物は何がよいかとお前に尋ねたら、物よりも、一緒に景観の良い場所に出掛けたいと言っただろう?」
記憶の引き出しを開ける。確かに、そんな事を言った覚えがあった。
でも、それを発言したのはこの私じゃなくて。
私が此処で目覚める前の、十歳の誕生日を近々に控えていた無垢な私。
「本当なら昨日にでも誘おうと思っていたのだが、な……。結局、実現できなかった」
そう、憶えている。
この私の記憶では本来なら昨日、ラルエース様と一緒に王都の程近くにあるリューリ湖の畔へ出掛けた筈。
道中、とても浮かれていたのをありありと思い出せる。けれど、楽しい思い出ばかりではなかった、ような……。
湖畔に着いて、歩きながら話をして、そして──、
「……あ」
おそるおそる、ラルエース様の右腕を注視する。衣服の上からでは判断出来ないけれど、振る舞いを見る限りでは不自然さは認められない。
震える声で質問する。
「ラルエース様……つかぬ事をお伺いします。近頃、右腕をお怪我なされたり……しましたか?」
「ん? いや、怪我など体の何処にも負ってはいないが。それがどうした?」
がつん、と頭を殴られたようだった。
記憶通りなら、私に似合いの花があったと言って草むらに分け入ったラルエース様は、鋭い枝に右腕を引っ掛けてしまい、負傷されてしまうのだ。必死に手当てをした記憶が、確かにある。
しかし、目の前のラルエース様は、怪我一つ無いと言う。
「……い、いえ。何でもありませんわ。その件でしたら、どうかお気になさらないでください。根本の原因は私ですから。では、お父様を呼んで参りますので、暫しお待ちください」
早口で言いきり、応接室を退出する。
後ろ手に扉の把手を握り締めたまま、暫く立ち尽くす。心臓が早鐘を打つ音が耳に響く。
ラルエース様がお怪我なさらなかったのは当然だ。そもそもリューリ湖に行ってないのだから。
少し頭を働かせてみれば、私が目覚めてから起きた出来事や会話は、私の記憶の中に存在しないものばかり。
本当ならお母様は寝込んだりしなかった。お父様との先日の会話はなかった。ラルエース様との婚約が白紙になったりなんてしなかった。
導き出される結論は、一つ。
今いる場所が現実か夢かは未だ定かではないけれど、
「未来を……変えられる?」
呟いた言葉に鳥肌が立つ。
何故今まで気付かなかったのだろう。……いや、理由は明白だ。悲しみと苦しみとで目が曇り、罪の重さに屈して前を向いていなかったからだ。
これが事実なら。
私が力を尽くせば。
あの凄惨な未来を、回避できる。
これは、私が死の間際に見ている走馬灯、もしく神が私の罪の重さを痛感させる為に見せている罰なのだと、ずっと思っていた。
でも、もしかしたら。
やり直す為の、贖罪の為の機会を、神に与えて頂いたのかもしれない。
「なら……私のすべき事は」
あの惨劇の回避するべく全力を尽くす。
私が不幸にした人達の為に身を粉にする。
それが、私が全霊を傾けて取り組むべき目的。
「……よし」
決意の種が、心に蒔かれた。