罪過
これは、私が死の間際に見ている夢……なのだろうか。
「ユリアンヌ……誕生日、おめでとう」
これが、走馬灯と呼ばれる、過去の記憶の想起現象なのだろうか。
「お誕生日、おめでとうございます。ユリアンヌ様」
それとも。もしかして。
「あ、姉上……。おめでとう、ございます……」
今際の際の願いが、やり直したいという望みが、叶った……現実、なのだろうか。
分からない。何故こうなったのか。
解らない。一体何が起きたのか。
判らない。ここが、夢なのか現なのか。
「…………ユリアンヌ?」
「っ!? は、はいっ!」
咄嗟に顔を上げる。またしても漏出しかけた悲鳴を、ぐっと飲み込んだ。
私の顔色を窺っているのは、ラルエース様。それは、間違いない。間違いない……のだけれど。
心配の色を含んだ翡翠の瞳は、あの時涙を流したものよりもあどけなくて。
「ユリアンヌ様、やはり体調が優れないのでは?」
「お休みに、なられた方が……」
それは、ラルエース様だけではなく。
ラルエース様の背後に控えるクダンも、私の横に立つソガトも、皆一様にして顔立ちは幼く、手足は細く短く、身長も縮み……子供に、なってしまっている。
それは、私も例外ではなくて。
「いいえ、心配には及びませんわ。……中座などしては、私の、十歳の誕生日を祝いに来てくださった皆様に申し訳ないですもの」
目覚めた今日は、目出度く十歳を迎えた日らしい。
私の記憶にある十歳頃の彼らの容姿と、今現在目にしている彼らの容姿は合致している。
薄れる意識の中で、子供の頃は……と思いはした。ここが幻にしろ現実にしろ、そういうこと……なのかしら。
「そうは言うが、しかし……。まだ、顔が青いぞ? 本当に大丈夫なのか?」
確かに、この夜会が始まる前に姿見で確認した私の顔は、お世辞にも血色が良いとは言えない様相を呈していた。今だって、震えだしそうな体を精一杯気を張って制している。
再び目を覚ましたのが、この夜会の直前で。半ば状況に流されるようにここまで来た。
沢山の疑問が頭の中を埋め尽くして、でも一向に答えなんて出なくて。本当は、今すぐにでも頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまいたい。
でも、それは許されない。
私は公爵家の娘であり、今日という日の主役なのだから。
「御気遣い痛み入りますわ、ラルエース様。ですが、本当にお気になさらないで下さい。私は大丈夫ですわ」
寡黙なお父様も、優しいお母様も、とても私の体調を気遣ってくれた。心配してくれた。
でも、それはそれ。これはこれだ。
公爵家主催の夜会を、開催日当日、それも直前に中止などあり得ない。
誕生日を迎えた当の本人、第一王子の婚約者が不在などあり得ない。
故に、努めて自然に微笑む。例え虚勢だと見抜かれていても。
「それより、ラルエース様。先刻は、誠に申し訳ございません。御身の前であのような醜態を晒した上、あまつさえ──」
「それこそ気にしなくてよい事だ」
頭を下げる私に、ラルエース様はそう言って笑った。その御言葉はとても嬉しいけれど、羞恥の気持ちは増すばかり。
目の前で奇声を上げ嘔吐までした挙げ句に気絶したような女に対し、ラルエース様は怒ったりなどはなさらなかったらしい。迅速に我が家の使用人を呼び、お嬢様が再度お目覚めになるまで、とても落ち着かない御様子でしたよ──とは、私付きの侍女、リマの言。
「御温情に感謝いたします」
もう一度、深く頭を下げる。
私の事でラルエース様が気を揉まれたのは、少し不謹慎かもしれないけれど、素直に嬉しかった。以前の私ならば、喜色が全身から醸されていただろう。もしかしたら、今も幾らか表れているかもしれない。
でも、私は知っている。
ラルエース様の私に対する感情と、私の胸中に根付くそれの違いを。
いずれラルエース様の御心を射止める方が現れる事を。
未練がましくも、つきん、と胸が痛んだ。
「では、会に来てくださった皆様方と、改めてお話をさせていただこうと思っておりますので、少し失礼させていただきます。どうぞ、心行くまでお楽しみになってくださいませ」
一礼し、逃げるようにその場から離れる。口にした理由は嘘ではないけれど、それが全てでもなかった。
老若男女の貴族の方々が楽しげに酒杯を傾け、会話に花を咲かせている幾つもの輪の中に入っていく。会の開始直後に代わる代わる祝詞をいただいたのだけれど、ここでも口々に祝いの言葉をいただく事になった。
曰く。ラルエース様とユリアンヌ様の祝言が待ち遠しい、と。
曰く。御二人が手に手を取って治めていけば我が国の未来は安泰だ、と。
「……ありがとう、ございます」
私は、ちゃんと笑えているだろうか。自信がない。
一息つこうと、色とりどりの軽食、菓子、飲料類等が並ぶ卓子に近寄り、そこに控えている使用人に温かな紅茶を用意してもらった。一口、口に含む。じんわりと伝わる温もりと鼻に抜ける香気のおかげで、強張っていた体と心が、ほんの少し弛緩した。
ほうっ、と息を吐いていると、
「……ユリアンヌ、さん」
ぼそりと名を呼ばれたので、振り返る。
「あら、ジンヤールプ様。ようこそおいでくださいました」
「……うん」
ご挨拶をすると、第二王子ジンヤールプ様は頬を少しばかり朱に染めつつも、八歳という年相応の屈託のない笑顔を見せてくださった。
「ユリアンヌさん……お誕生日、おめでとう」
「ありがとうございます。……ジンヤールプ様、ユリアンヌと呼んでいただいていいのですよ?」
王子なのですから、と伝えたが、ジンヤールプ様はぶんぶんと首を振った。
「兄上……の婚約者を呼び捨てで呼ぶのは、ちょっと」
そう言って、暗い顔をなさるジンヤールプ様。
私は、ジンヤールプ様に元気になっていただこうと、卓子へと視線を這わせる。幾つかの菓子を通り過ぎ、王子のお好きな焼き菓子を見つけた。
「ジンヤールプ様、こちらの菓子などは──」
「来ていたのか、ジン」
不意の声に、びくり、と私とジンヤールプ様の肩が跳ねた。
人垣からラルエース様が現れ、私の横に立つ。
「ラルエース様……どうかなさいましたか?」
「ジンの姿が目に入ったからな。少し、話でもと思って来たんだ」
「あ、う……」
ぱくぱくと口を動かした後、ジンヤールプ様はくるりと踵を返すや走り去ってしまった。
「あ……」
「おい、ジン! ……嫌われているな、私は。ユリアンヌ、無作法な弟ですまない」
ラルエース様が何事か仰っていたが、私の耳には届かなかった。
強烈な既視感。
今の背中に似た光景を、私は知っている。
──見ていて。今日こそ、兄上に勝つ。勝ってみせる……!
あの惨劇の少し前。
私は、今と同じように走っていくジンヤールプ様の背を見ていた。決意を耳にしていた。
彼が向かったのは闘技場。つまり。
「あぁ……」
力無く床に崩れ落ち、両の掌で顔を覆う。もう、体裁を繕うための力は空になってしまった。
僅かばかりの癒しを与えてくれた紅茶の香りも味も、いつの間にか幻だったように消え失せていて。
脳裏には、大量の瓦礫に姿を変えた闘技場。
そうだ。
私は。
クダンの、ソガトの命を奪い、ラルエース様の未来を曇らせた私は。
ジンヤールプ様の命も、未来も、奪っていたのだ。
改めて、自分がどんな罪を犯したのかを突き付けられた。
自身の罪過が。
人々の怨嗟が。
心と体に、重く、重く、のしかかる。
「大丈夫か、ユリアンヌ!? ……立てるか?」
ラルエース様が、手を差し伸べてくださったけれど。
私は。
立ち上がれなかった。