覚醒
両足の力が抜ける。がくがくと無様に震えた後、膝から崩れ落ちる。次いで、べちゃり、とその場にへたり込んだ。
制服の赤い生地に、地べたにある黒い血液が忽ち染み込んでいく。黒く、黒く、まるで私の心を侵していくように。
目から零れ落ちそうなものを堪えようと天を仰げば、先程までの快晴の青は何処へやら、いつの間にか不気味なまでの黒雲が空を閉ざしていた。
「あっ……あぁ……」
動悸が激しくなる。嗚咽が漏れ出る。
初めに頬を濡らしたそれが、涙だったのか雨粒だったのか、自分には分からなかった。しかし、どちらでも同じことだった。
一滴零れた途端、堪えきれないとばかりに、風と雨が一斉に暴れだした。
一筋溢れた途端、堰を切ったかのように、感情が胸中で荒れ狂いだした。
嗚呼、嗚呼、嗚呼ッ……思い出した。思い出してしまった。思い出してしまったッ!
「あああああああああぁッ!!」
自分の喉から出たものとは思えない絶叫とともに、自身の黒い魔力が波動の如く迸り、周囲の地面に亀裂が走った。
制御を振り切った心と魔力に呼応するように、暴風が吹きすさび、豪雨が地を叩き濡らす。
そうだ。
私は知っていたのだ。
「うううううぅっ……!」
昨日。
放課後。
学園の庭園で。
ラルエース様が。
あの女に。
愛、を。
囁いていたのを。
「わああああああああぁッ!!」
どうして脳内から消去できていたのか不思議なくらい鮮明に甦った記憶に押し潰されて胸が軋み、堪らず叫ぶ。
──一切を消してしまえ。心が誘う。
その言葉に抗する術など持ち合わせておらず、そも抗う気力を無に帰すような甘く蕩ける魅力に誘われるまま、手当たり次第、四方八方へ魔力の弾を撃つ。それらは地面や瓦礫等に着弾し、次々と爆ぜ、破壊をもたらしていく。
「お止めください、姉上!」
何者かが何事かを言っている。……誰、だっただろう。最早名前など忘却の彼方、記憶の埒外だ。
──合切を殺してしまえ。心が囁く。
体内より出でた言葉はとても心地が良く、瞬く間に私の全身に広がっていく。
私は心に身を委ね、男目掛けて魔力弾を放った。
「うわぁあああっ!」
「ソガト様ッ!」
あと少しで爆散、という所で邪魔が入った。凄まじい速度で駆け寄った黒髪の男が、勢いそのままに突き飛ばしたのだ。
男二人が泥濘んだ地面に転がった数瞬後、魔力弾は、一瞬置いて木だか草だかに衝突し爆発。地と胃の腑にびりびりと響く衝撃と音を生んだ。
「きゃあっ!」
「サレナ!」
怯え竦む彼女を守護するように、強く強く抱き締める彼を、私はどんな表情で眺めているのだろう。どうしたいのだろう。
──万物を壊せ。万象を砕け。心が命ずる。
その言葉が、脳を染め上げる。臓腑を埋め尽くす。私を支配する。
考えるのは止めよう。
心に、何もかも任せよう。全て、全て、全て。
瞼を閉じて、ゆっくりと開く──。
「………………」
──たったそれだけの事だが、視界が、世界が、全く違って見えた。まるで自分が自分ではなくなったようだ。
風が猛る。まるで歓喜に打ち震えるように。
天が泣く。まるで欣喜に感涙するように。
「………………はは、ははははっ。ハハハハハハハハハ!」
自然、笑いが漏れる。零れる。溢れ出る。
なんと素晴らしい気分だろうか!
高揚した心そのままに、無様に地べたに這いつくばっている者達をたっぷりと嘲笑しつつ睥睨してやる。
「っ……! 貴様ッ!」
くるりと体を回転させて体勢を直した剣士が、剣を構えて突進してきた。煩わしい奴め。
迎撃すべく魔力弾を撃ち込んでやるが、先刻同様に右へ左へと回避された。両の腕が揃ってさえいればと歯噛みする。敵ながら、我が目を見張る敏捷さだ。
ならば。
「はぁッ!」
手近な所に転がっていた細枝のような右腕を掴み上げ、剣士の面前へ放り投げてやる。
一瞬だけ驚いたように眼を見開き、動きを僅かに鈍らせた剣士の様子に、自身の口角が歪むのを感じながら、空中を進む右腕を魔力弾で狙い撃つ。
「っ!?」
眼前で右腕が爆発し、虚を突かれただろう剣士が脚を止めた。
それを確認するより先に、五発六発と魔力弾を剣士目掛け叩き込む。
「くぅっ……ぐぁああああああああッ!!」
着弾する度に発生する爆炎と爆煙に遮られ視認する事こそ叶わないが、一発目以外は命中しているのは感覚で判った。人間の皮膚を焦がし、肉を削り、腹を穿っているという確信的な手応えがある。
「ハハハッ! ハハハハハハハハ!!」
「クダン!」
「クダン様ぁ!」
奴の名を呼ぶ者達の悲痛な声を背景音楽に、己の気が済むまで魔力弾を放ち続けてやった。
「…………」
最後の魔力弾を撃ってから煙が消えるまでの間、誰も、ただの一言も発する事はなく。ただ一つの身動ぎもなく。
剣士がどうなったか、見るまでもなく奴等も頭が理解してしまっているのだろう。
重い沈黙から、無象達の絶望が雄弁に伝わってきた。愉悦を感じ、思わず身が震える。
「……ハハハッ!」
唸る風雨のおかげで間を置かず煙が晴れ、その光景が露になった。
二つに折れた剣が地面に落ちている事、一発目の手応えが無かった事から察するに、どうやら初弾を剣で受けたらしい。が、奮闘もそこまでだったようだ。
そこに剣士の姿は無く、あるのは体が消し飛ぶより前に流出したであろう血液。そして幾らかの焼け焦げた肉片のみだった。
続けざまに炸裂した魔力弾は、存分にその威力を発揮したらしい。様を見ろ。
「ああっ、クダン様……!」
「……クダン」
女が痛ましげに目を伏せ涙を流し、金髪の男は茫然自失といった風に力なく両膝を地に落下させた。なんと溜飲の下がることか。
そんな状況にあって、
「姉上……なんという事を」
此方に向けて、憐憫やら悲哀やらの色が混在した視線を向ける男が一人。
青白い顔から向けられる哀れみが、我が身を撫で付ける憐れみが、堪らなく、堪らなく不愉快で。
「鬱陶しいぞ」
起き上がる力も皆無らしく、仰向けの状態で地面に転がったままの男に、再度魔力弾を撃ち放つ。
今度は邪魔をする者もなく命中、爆発。胸部の大部分を抉り取り、消し飛ばし、大穴を穿った。
男は盛大に喀血した後、ぴくりともしなくなった。どうやら事切れたらしい。胸のすく思いだ。
「ソガト様ぁっ……!」
「……ソガト」
先程と似たような反応をする両者に若干の物足りなさを覚えたが、雨と涙と絶望とでぐちゃぐちゃになった女の顔を眺めるのは中々どうして痛快だ。
次は、我が身を真似て腕を千切ってやろう。痛みに悶え泣き叫ぶ女の様をたっぷりと見物してやろう。
などと思案していると、
「……ユリアンヌ様」
直前まで身を掻き抱く様にして悲しみの底にいた筈の女が、此方を真っ直ぐに見つめていた。
「貴女は、本当はこんな酷い行いを為さる御方ではない筈です」
何を言うかと思えば、この期に及んで、よくもそんな戯れ言を。この女の頭の中身は花畑か何かか。
「私、ラルエース様に聞きました。昔、ラルエース様がお怪我をされた際には優しく、甲斐甲斐しく手当てを為されたと。共に山に遊びに行った時には、生き物を愛で、命を慈しんでおられたと!」
女の弁舌に段々と力と熱が籠り始める。
事此処に至って尚、昔話とは。一笑に付した後殺してやろうかと考えたところで、
「……ぐっ」
眩暈と頭痛に襲われ、左手で額を押さえる。
次いで心の臓がずきりと痛み、うめきを上げた。
「それに、ユリアンヌ様はお忘れかもしれませんが、私も入学当初、貴女様に助けていただいた事があるのです!」
「……黙れ」
「平民だからと疎まれていた私に、ユリアンヌ様は優しく接してくださいました! 貴女がいなければ、私は心が折れてしまっていたかもしれません!」
「黙れぇッ!」
怒りを込めて睨む。
雨粒が体を叩き、暴風が体を打とうとも、女は変わらず真摯に立っている。負の感情など微塵も滲んでいない毅然とした表情で。
その面持ちを直視すると、なんとも言えぬ不快感が体の奥底から生まれ、それに炙られた心が焦げ付く。
「ふざけるな……はぁ……はぁ……ふざけるなっ」
何故、この女は怒らない。こうまで暴虐の限りを見せつけられたのに、何故こんな瞳を向けてくる。
「貴女のした事は、到底赦される事ではありません。……でも、今のユリアンヌ様は何かが、何処かが違う気がするんです! 私は、本当のユリアンヌ様とお話がしたいんです! ですからっ!」
「うるさい……うるさい!」
「お願いです! 本当のユリアンヌ様に戻ってください!!」
「黙れぇええええええッ!!」
滅多矢鱈に、幾つもの魔力弾を女に向けて撃った。死ね! 死ね! 死ね!
「サレナッ!!」
「えっ!?」
不意に。男が、女を庇うように射線上に飛び出した。
「ラルエース様ぁああああああッ!!」
女の悲痛な絶叫。
そして。
光が、迸った。