絶望
誰だ、私とラルエース様の会話に割り込んできた不届き者は。即刻八つ裂きにしてしまいたい。四肢を引き千切り、臓物を引き抜いてやりたくなる。左の拳に、知らず知らず力が入る。
そこで、はたと気付く。
「……は?」
今の、声。
一音耳にするだけで、私の胃の府から、止めどない吐き気と怒りを呼び起こす、耳障りな声は。
「まさか」
「この声は、まさかッ!」
ぽつりと漏れた私の言葉に、ラルエース様の歓喜と驚きが入り交じった言葉が覆い被さる。吐き気が増した。
私は、のろのろと。ラルエース様は、弾かれたように。動作の機敏さに差はあれど、私とラルエース様が、声のした方向を向いたのは、ほとんど同時だった。
「ラルエース様ぁっ!」
「サレナッ!」
あの忌々しい平民の娘が、醜い桃色の頭髪を揺らしながら、五体満足の状態で此方に駆け寄ってくる。それも、闘技場とは違う方向から。
ずきずきと、頭が痛む。思わずこめかみを押さえようとしたけれど、利き手が既に無いのを忘れていた。
「何故……?」
何故。何故何故何故!
確かに、私は、確かに消し飛ばしたはずなのに。闘技場に入ったのだって、しかとこの目で確認したはずなのに!
私が唖然としている間に、ラルエース様は、勢いよく走ってきた売女をしっかと受け止め、力の限りに抱き締めていた。女の方も、ラルエース様の背中へ両の腕を回している。
ばきり。口内で、噛み締めた奥歯が砕けた音がした。
「ラルエース様、御無事ですかっ……!」
「ああ。サレナこそ……サレナこそ。本当に、よかった……!」
なんだ、これは。
足がふらつく。胃酸が逆流してくる。破片と化した奥歯と一緒に吐き出してしまった。吐き出したそれらが、足下に流れていた血液と混ざりあい、視界に入れるのも忌避したくなるようなものに成り果てる。
けれど、目の前で行われている絶望よりは遥かにマシだと思えた。
こんな、こんな、こんな光景なんて、見たくなかったのに。だから、手を尽くしたのに!
「……それにしても、よく無事だったな」
「私も、助けていただかなければ死んでいたでしょう。ですが……」
「……姉上」
私を呼ぶ、聞き慣れた、ような、声。
血と胃液にまみれた歯片に注がれていた目線を、ゆっくり持ち上げる。目を背けたくなるような現実を再び視認してしまい、嗚咽が漏れそうになった。ぐっと堪え、下賤な女の、更に後方から、覚束ない足取りで歩み寄ってくる……そう、愚弟を見据える。
「なる、ほど。そういうこと……。実姉の邪魔をするだなんて、愚かしさも極まったわね?」
恨みを込めて睨め付けてやると、弟は僅かに身動いだ。
この場にラルエース様がいらっしゃらなければ、有らん限りの罵詈雑言をぶつけてやるのに。
「ソガト。お前が、サレナを救ってくれたのか?」
ソガト。そう、そういう名前だったわね。どうでもいいけれど。
ラルエース様に問われ、弟が口を開く。
「はい。かねてよりサレナさんに対して非道な振る舞いをしていた姉ですが、昨夜は特に……その、様子がおかしかったので」
そうだった、だろうか。頭を捻るが、前日の事など覚えていない。
「闘技祭で、サレナさんに何らかの危害を加えるのでは……と思い、彼女の身辺を警護していた次第です。もっとも、まさかここまでやるなどとは、思いもしませんでしたが」
「そうか、お前の魔法は瞬間移動、だったな……」
得心がいった、という様子でラルエース様が呟いた。
瞬間移動。
たしか、一度に膨大な魔力を消費する上、かなり使い勝手の悪い魔法……だった気がする。愚弟の顔を見るまで忘却していたのだ。おそらく、大した魔法だとは思ってなかったのだろう。
……だが、しかし。
「……ふふ」
その、大したことのない魔法のせいで怨敵を仕留め損なったなんて、なんて愚かなのだろう。自嘲の笑いが込み上げてくる。
愚弟の様子を注視してみれば、真っ青な顔をしており、呼吸も荒い。足も、産まれたばかりの小鹿のように震えている。何故立っていられるのか不思議なほどだ。なるほど、魔力切れの典型的な症状だ。
「あらあら……身辺警護。身辺警護、ねぇ。ふふふ」
あのような状態になるまで魔力を消費した弟を……というか、誰かのために尽力した弟を見るのは、初めてな気がする。気がするだけで、実際どうだったかは覚えていないが。
それにしても、ラルエース様に続いて弟までとは。全く恐れ入る。
「驚きだわ。いったいどのような手法で、ラルエース様や愚弟に取り入ったのかしら。卑しい醜女だこと。……今すぐ縊り殺してやりたいわ」
絶望に負けまいと、ありったけの殺意を込めて睨んでやる。
「ラルエース様、その悪女から離れてくださいな。このユリアンヌ・ナ・ユージー、今一度、全霊でもって、その雌猫を抹殺して御覧にいれます」
そう進言したのだけれど、ラルエース様は、ひっ、と怯えたような声を出した女を、殊更に強く抱き締めるばかり。
お優しい。流石はラルエース様。下々の者へ、その御心を砕く姿は素晴らしい。素晴らしいけれど。今回ばかりは、その者に限っては、その心配は無用ですわ。
「ラルエース様、何卒お聞き届けくださいませ。その毒婦は即刻──」
「ユリアンヌ」
「はい、ラルエース様!」
名を呼ばれ、見据えられる。それだけで、頬が紅潮していくのが自分でも分かった。
聡明にして賢明なるラルエース様だもの、私の訴えを理解していただけたに違いないわ。……そうに違いない筈なのに、何故か、ラルエース様は、悲痛な面持ちで。
「私の心情を伝えるのを躊躇ってしまった、私の責任だ。こんな事になる前に、はっきりとお前に伝えるべきだった」
これが、総毛立つ、という感覚なのだろうか。身震いする。悪感が止まらない。
「……私を慕ってくれているお前に、何より、婚約者であるお前に対して、不誠実なのは重々理解している。申し訳ないとも思っている。だが、私は」
「やめてくださいませッ!」
本能で察する。
この先を聞いてしまうと、私は、きっと、終わる。終わってしまう。
耐えられず、目線を真下に逸らした。足下の血液は、僅かな時間の間に、何故かどす黒くなっていた。
ラルエース様は、止まらなかった。
「私は、サレナを……心から、愛している」