夏のト音記号
これは、とても、とても、とても、遠い昔のお話かもしれませんし、つい最近のお話かもしれません。
そして、とても、とても、とても、遠い街でのお話かもしれませんし、すぐ近くの街でのお話かもしれません。
なんども、なんども、たくさんの雨が降ると、森や街がうるおってきます。雨水は川へと流れこみ、やがて、海へたどりつきます。その、川と海の水がぶつかるときの水しぶきから、夏の妖精は生まれてくるのです。
夏の妖精は生まれてくると、体についた水滴を払おうと、空中をくるくるっとまわります。そして、お日さまの光を浴びながら体をのばします。
「さあ! ここから大いそがしだぞ!」
あわてんぼうのラファルが言いました。
「なに分かりきってることを、いばっているんだよ」
口のわるいルネートが、いじわるを言います。二人はいつも張りあいたがるのです。
「ねえねえ、どうしてお月さまは、昼間は白いのかなぁ」
思ったことを、すぐにおしゃべりしたくなるエトマが言いました。
「今話すことか? それ」
おこりんぼのシャルウが言いました。
「うわぁ、きれいな貝がらだねぇ。あっちにもありそう!」
いつも、すぐにどこかへ行こうとする、ニュージュが飛び上がろうとします。
「まって! ニュージュ!!」
シェノエレはのんびりやなのですが、急いでニュージュを止めました。
シェノエレとニュージュの二人が、皆の方をむくと、ラファルとルネートは今にもケンカしそうに、頬をふくらませています。おしゃべりエトマは泣きそうな顔をしていて、シャルウは怒り顔をしています。
「ぼくたちは、海のおくまで飛ばなきゃいけないんだから、ケンカはやめようよ」
と、シェノエレが言うと、「そうだよ、こんなときは海をみるのさ」と、エトマがのんびりと、調子外れなことを言いました。
けれどこれは、良いアイディアでした。皆で海をながめて、何度もおこる波しぶきを見て深呼吸をすると、いらいらした気持ちがおちついてきたのでした。
シェノエレは、『みんな、これからやらなくちゃいけないことを考えて、気持ちがソワソワしたり、心配したりしているのかもしれないな』、と思いました。
「いつまで海をながめていればいい?」
深呼吸を十回ほどくり返すと、ラファルが言いました。
「とりあえず行こうよ」
ニュージュも言います。二人とも、じっとしているのがイヤなのです。
「そうだな。回遊魚をさがしに、海のおくへ行くんだから、もう行こうぜ」
ルネートも言いました。
それで、海のおくへ行くために、皆は砂浜から飛び上がりました。
お日さまは、まだ午前中だというのにぎらぎら光って、妖精たちの背中をジリジリとあつくさせます。これには妖精たちも参ってしまいました。
「ねえ! ちょっと海につかって、体をひやそうよ!」
しばらく飛んでいると、ニュージュがさわぎました。
「うんうん。それか、カモメさんたちの足に、つかまらせてもらおうよ」
エトマも泣き言を言います。
「なさけないなぁ、オレたちは夏の妖精だぞ! あつさにつよいんだぞ。そんなの、かっこわるいじゃないか」
ルネートはそう言いつつも、汗びっしょりです。シャルウはだまっていますが、なんだか機嫌がわるそうに見えます。
背中のあつさにくわえて、お腹の下の海面のてり返しがあるので、かなりなあつさです。シェノエレは、『エトマやニュージュのきもちも分かるなあ』と思いました。
と、そこへ、だまったままのシャルウが、ニュージュとエトマの間に行き、二人の手をとって力強く翅をうごかしました。
「しょうがないなあ」
それを見たルネートはニュージュと手をつなぎ、「だれか、そっち」と、ぶっきらぼうに言いました。
シャルウとルネートは、少し顔を赤くしています。
だれかに親切にすると、なんだかむずがゆく、はずかしいような、それでいてうれしいような気がします。二人は怒っているわけではなく、そんな顔をしていたのでした。二人の気持ちが皆にも分かったので、のこりの皆も手をつなぎました。
「ありがとう」ニュージュとエトマが、うれしそうに声をそろえて言いました。
それからは手をつないだまま、横並びになって飛んで行きました。そんな妖精たちを飛び魚たちは、おもしろそうに追いかけてくるのでした。
さて、しばらく飛んでいると、波が渦をまいているところに着きました。
いよいよ、妖精たちの仕事です。海を泳いでいる、回遊魚をさがさなくてはなりません。
回遊魚とは、さむい冬のあいだ、南のあたたかい海に行っていた魚たちのことです。季節がうつり、あたたかくなると、生まれ育った海へと帰ってくるのです。
魚たちの体はあたたまっていますから、その魚たちを街へ近づけることで、街は夏になっていくのです。
けれどそのためには、もう一つ、大切なことがありました。
妖精たちが回遊魚を街へ近づけるには、魔法の杖がひつようです。その魔法の杖は、クジラの潮吹きの、水しぶきから作り出すのです。
でもこれは、それほどたいへんではありません。回遊魚がいるところには、クジラも近くにいるものなのです。
「クジラはどこかなあ」
ラファルがさわぎます。
「シッ! 大きな声をだすなよ、魚たちがびっくりして逃げちゃうよ」
シャルウが小さな声で言いました。いつもならシャルウこそ、すぐに大きな声でさわぐのに、この旅でシャルウも何かを感じたようでした。
「大丈夫。魚たちは、ぼくたちのことがめずらしいのか、おとなしくしてくれているよ」
いつもはいじわるなルネートも、やさしく言いました。
皆、がんばってあつい中を飛んできたので、それぞれ、みとめあう気持ちになっていたのでした。
そのときでした。
とつぜん回遊魚がいっせいに、あちらこちらへ、逃げるかのように泳ぎ出しました。
そして、妖精たちの真下の海に、くらい影の塊ができた、と思ったら、それがみるみるうちに海面へ、もり上がって来たのです。
「うわぁー!」
「なんだ、なんだ!!」
「これって、ひょっとして?」
妖精たちは口々(くちぐち)にさわぎます。
海の中からクジラが顔を出したのでした。
「やった! クジラだ!」
「良かった。これで、魔法の杖を作れるね」
「まって! なんだか様子が変だよ」
クジラはくるしそうに、体をよじっています。
「みんな、あそこを見て!」
エトマがさけびました。
皆でエトマが指さしたところを見ると、クジラが潮吹きをする孔に、なにかがはまっています。
「あれ、なんだろう?」
「たいへんだ! きっとくるしいんだよ」
「とってあげなくちゃ……」
そこで皆はクジラに、少しじっとしててくれるようにお願いしました。そうっとクジラの背中におり、何がはまっているのか見てみることにしました。そこには大きな真珠がありました。
「クジラくーん、ぼくたちが真珠をひっぱってみるから、せーので、潮吹きをしてみてくれない?」
シェノエレはクジラに聞こえるように、大きな声でゆっくりと言いました。クジラはかすれた声で、「わかったよ」とこたえました。
「せーのっ」
大きな真珠は海水でぬれていて、つるつるとしていて、つかみようがありません。それにどうやら、孔にがっちりとおさまっているようで、びくともしませんでした。
「だめだよ。これは逆に押したほうがいいよ」
エトマが言いました。
「じゃあ、何人かで押して、何人かでくすぐってみたらどうかな?」
ルネートがいたずらっぽく言いました。
「よし、そうしよう! じゃあ、体が大きいシャルウとラファルは真珠に体当たりして。のこりの皆で、クジラくんをくすぐってみよう」
シェノエレがそう言うと、シャルウとラファルは顔を見あわせ、うなずき、空たかく飛び上がりました。
「じゃ、行くよ!」
その声に合わせ、のこりの皆もクジラがくすぐったがりそうなところへと飛んでいきました。
「せーの!」
シャルウとラファルはかけ声が聞こえると、はなたれた矢のように一直線に、真珠目がけて飛んで行きました。
クジラをくすぐっていたシェノエレたちのところに、『どーん』という振動がひびいてきました。そしてすぐに「ダメだー」という、ラファルの声も聞こえました。
皆、真珠のところへ集まりました。どうやら真珠はびくともしなかったようです。
「これ、とれるのかなぁ」
シェノエレのつぶやきに、ルネートが言いました。
「弱気なことを言うなよ。僕たちの杖はともかく、クジラくんが苦しそうじゃないか。がんばろうよ」
「……そうだな。よし、もう一度やってみよう!」
ラファルが元気よく言いました。
「ねえ! ほかの生き物たちにも手伝ってもらおうよ。おーーい、だれかぁ、クジラくんをくすぐるのを手伝ってくれないかぁ?」
エトマの声に、波がまるでくすくす笑いをするかのように、さざめきました。
「わっ、見て!」
海の中からイワシやアジ、タコにイカ、それからエビやカニなどの、たくさんの生き物が、クジラを囲むように顔をのぞかせたのです。
それだけではありません。空にはカモメやウミネコといった、海鳥たちも来てくれました。
妖精たちは海と空の生き物たちにも、さっきの作戦を伝えました。そして、くすぐったり、真珠にぶつかったりするために、じゅんびをしました。
「せーの!!」
かけ声が空たかくひびくと、シャルウとラファルと海鳥たちは、真珠めがけてもうスピードで突っこんでいきました。
シェノエレたちと魚たち、そしてタコ・イカ・カニたちは、クジラのあちらこちらをくすぐりまくりました。
「ふわあっはっはっはーーーーっ」
クジラの大きな笑い声がひびきわたると、つづけて、さっきのような振動が伝わってきました。
そしてついに、すぽーーーーんっと、小気味いい音がひびきわたったのです。
「やったーー!」
「クジラくん、取れたよ、取れたよ!」
海鳥たちと妖精たちは大喜びで、空に向かってジャンプしました。魚たちも楽しそうに、クジラのまわりをくるくると回っています。
クジラの口から飛び出した真珠は、一瞬だけ波間に顔を出すと、日の光をうけてきらめき、それから、ゆっくりと海のそこへしずんでいきました。
それを、皆でながめました。
「夏の妖精さんたち、どうもありがとう。おかげですっきりしたよ。……さて、お礼に、潮吹きをしよう。さ、皆あぶないからはなれて」
クジラはそう言うと、ゆっくりと海にもぐります。そうして体の中にたっぷりと、海水を吸いこみました。
妖精たちは空に飛び上がり、そのときを待ちます。
クジラはゆっくりと海面に背中を出すと、「そうれっ」と、潮吹きをしました。それは、とても大きな水しぶきで、上の方には虹ができました。
「よし、行こう!」
妖精たちは虹に飛びこむと、くるりと回転しながら、魔法の杖を作りました。
「さあ! 夏のト音記号の魔法の時間だよ! シャルウが夏のト音記号を書いて!」エトマが言いました。皆も、「それがいい」と言いました。
おこりんぼのシャルウは本当はやさしくて、イヤかもしれないことも、何も言わずにがんばってくれていたのです。それが分かったので、夏のはじめの魔法をやってもらいたい、と皆は思ったのでした。
シャルウは緊張するような、うれしいような気持ちで、それでいて泣きたいような気持ちになりました。
なので、黙ったままうなづいて、それから杖をかまえ、腕を大きく振りながら空たかく飛び上がりました。それから大きく体を動かしながら、大きな大きなト音記号をかきました。
ラファルたちもシャルウの側へ飛び上がり、五線譜をかきます。
そこへ、カモメやウミネコたちが集まって、五線譜に気ままにとまりました。
するとそこから、ゆったりとして楽しげな、夏の音楽がながれてきました。音楽は日の光にてらされて、キラキラと光りながら、海へ降っていきました。
海の水にひびいた音楽は、まるで『さあ、街へ夏をとどけに行きましょう』、と言ってるように、魚たちには聞こえました。
魚たちは顔を見あわせると、バカンスへいくかのように、陽気に街へ向かって泳いでいきました。
海のそこでは色とりどりの海草が、魚たちに「行っておいで」とでも言うかのように、やさしくゆらめいていました。
おしまい