帰タラー 足早(4章)
四章
「きりーつ……礼っ!」
女子の委員長の号令によって五時限目の授業が終わる。
クラスには、あと一時限あると憂鬱になっている奴もいれば、反対に一時限で終わると喜んでいる奴らがいた。
普段の俺ならば、後者の立場で作成した帰宅ルートのイメージトレーニングを今頃繰り返している所だけど、それよりも優先することがある……。
そう、今だに俺のスピードメーターを取った犯人が見つかってない!
正確には、計測器自体は取られていないから画面だけになるが。
俺はここんとこ三日ほど、情報収集を続けている。
クラスの連中の会話に耳を傾けたり、仮眠を取らず授業を聞いていたり、教頭の様子をちょくちょく見に行って容体を確かめたりした。
けど、スピードメーターや自転車の話どころか、俺に纏わる話一つ上がってこない。
ここまで来ると、俺の存在自体を学校全体でスル―しているような気がして悲しくなってきた。何かしらの情報くらいは引っかかるってもいいだろ……。
「おーっ、足早どこいくんだー? またすぐ授業始ま――」
「うるせぇぞロリ。病気がうつるわ」
立ち上がると後ろの野郎が話しかけてきたから、即座に蹴散らしてやった。
「うっわ、ひでぇーよ。足早は頼れる男だと思って相談したのにー。ねぇ天ノ上さん、聞いてた? 今の。俺が帰りに幼稚園に寄ってるからって、足早の奴ロリコンって言うんだってー」
最近はずっとこのやり取り。
俺に無視されるのを学習したのか、韋駄は隣で本を読む天ノ上に話しかけはじめた。
「……それはさすがにロリじゃないかな?」
本を閉じた天ノ上は、額に怒りマークが見えそうなピリっとした雰囲気を醸し応えた。
否定しずにそのまま肯定したのを見るに、そうとう目障りだと感じてるに違いない。
「うっそーん。天ノ上さんまで言うー? てかロリって略されるとなんか俺がロリみたいじゃん。あれ、待てよ……てことは俺がまほちゃんってこと? そーじゃん。そーゆーことだよな。俺がまほちゃんってことは、自分を愛すればまほちゃんを愛してることになる。何? この幸せスパイラル。やべーよ、これ」
でも韋駄は、完璧に自分の世界へ入ってしまっていて、天ノ上の些細な態度の変化には気づくことはなかった。
「足早くん。韋駄くんどうにかしてよ……。いつの間にかおかしくなっちゃったんだけど」
「気にするな。韋駄は元からおかしいから」
ため息を吐いて再び本を開く天ノ上と、自分の世界に入っていった韋駄を残し、俺は一番後ろの席にいる不良の元へ向かう。
ここまで来たら情報が流れるを待っていても無駄。自ら集めに行かないとな。
俺が轍先輩の元へ近づいていくのをクラスの連中が、やめておけとでも言いたげな視線を送っているようにも見える。でも俺は特段気にせず声を掛ける。
下手にビビってると付け入られる。こういうのは逆に堂々としておいた方がいい。
「轍先輩、起きてます?」
ぐちゃぐちゃに髪を乱して、机中にはノートやらなにやらを展開させて寝ているようなイメージがあった。でもそれとは真逆。長い髪を大きなピンで後ろで止め、肘をついて何やら考え事をするような体勢で寝ていた。
「うっ、ううん。…………ふぅん」
見た目からは全く想像のつかない甘い声で、ファンシーな寝息をたてている。
目の前に手をかざしたり、机を叩いたり、カーテンを開け閉めしたりするが、ピクリとも動かない。
うーん、どうすれば……。体ゆすって起こすってのは女子には少しやりずらい。それに轍先輩は制服着崩してるせいか余計に……。
ラッキースケベとか起こしていいってならするけど?
そんな命を張るハメになりそうな冗談はさておき、クラスのことすらほとんど知らないこの人に聞いたって、どうせ大した情報は得られんな。
起こして機嫌悪くなって、帰りに付き合えとか言われても困る。もちろん断るけど。
俺だって全くの心当たりもなしに、手当たり次第探そうとしてるわけじゃない。
見ず知らずの奴の出来心の悪戯だとしたら、探すのには相当苦労しそうだ。
だからまずは知った顔の連中で絞ってみたけど、韋駄は全く興味なさそうだし、轍先輩もいくら不良だといってもそんなことはしないだろう。言いたいことがあるなら黙って腹でも殴ってくるはず……。そうなったら残る奴はあのアマくらいしか居ない。
あいつのことを信じているわけではないけど、あいつこそ言いたいことがあるなら口で言ってくるはずだ。それに自分の方が弱み握っていて有利な立場にあるのに、更に追い打ちをかけてきたのだったら、もうただの下種ノ上だ。
結果、誰一人として犯人候補の心当たりが無くなってるわけだが……あれ? そういえば一人怪しい奴が居たような。なんて名前だっだっけ?
さ、佐々……笹? ……笹木部さんだっ!
なんだよこの名前だけで感じる違和感。絶対おかしいだろ、これは。
よくよく考えても、あの勝手に俺の自転車に跨ってた女子はモロ怪しい。
確か韋駄が言ってた話だと、同じクラスだったような……。
それに毎回、一番最初に教室を出るとかも言ってたな。それはあいつの勘違いだろうけど。でもそうなるとやっぱり同じクラスじゃないのかもしれないし……。
悩んでても仕方がない。俺のことを良く思ってないこいつ等に聞くのは癪に障るけど、帰宅のためだ。昔の人が残してる言葉通り、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥。
おそらく今みたいに帰タラーがプライドを捨てようか迷った時のために、昔存在していただろう偉い帰タラーの誰かが残した言葉に違いない。ありがたいありがたい。
相変わらず轍先輩は起きる気はないらしくピクリともしない。
呆れてため息が出そうになりつつも、俺はその隣の席にいる生徒に話しかける。
「あーっと。なんか勉強してるとこ悪いんだけどさ。笹木部って女の子知らない? このクラスに――いや同じ二年生に居るはず……なのかな? もしかしたら一年か三年生かもしれないけど、わかるかな?」
「うん、知らない」
勉強をしていると思ったらノートに何か地図のようなものを書いてる女の子は、手を止めることなく少しも気にとめた素振りも見せず、あっさりと答える。
「少しくらい考えてくれても……」
自分から話しかけて知ったクラスの俺に対しての温度差は、思っていたよりも低かった。
一時の恥どころか、今の一回で一生分くらい悲しくなった気がする。
態度はそっけなかったが、一応俺は感謝の言葉だけは述べておくことに。
「忙しそうなとこ、邪魔して悪かったね。ありが……ってあれ?」
座っていてもわかる体の小ささ。肩にかかるかかからないかくらいの髪に、寝癖なのかそういうヘアスタイルなのか、猫の耳のようにぴょいっとはねた頭頂部。
ぐでーっと机に突っ伏しながらも、ペンを走らせる女子には見覚えがあった。
「……おい、お前が佐々ノ浦だろ? 嘘吐くなよ」
「さっきのと違う。笹木部じゃなかったっけ?」
突っ伏したまま、ちらっとやる気のない寝ているような半目で俺を見てくる。
「そ、そうだよ。お前が笹木部だっ!」
「私、笹木部でも佐々浦でもないんだけど。それにそんな苗字の人はこの学校に居ない」
こいつは俺と話す気がないらしい。抑揚のない片言に近い喋り方をしてくる。
あのロリコン野郎っ! 名前違うじゃねーかよ! もしかしてホントに人違いだってことも――いや、そんなはずはない。確かにこいつだったことは覚えてる。
あの時に比べて目に輝きがまるで感じられないのと、喋り方がなんかムカつくのは違うけど。
あからさまに鬱陶しそうに「はぁー」っとため息をついてノートを閉じると、ぽーっとした顔をあげた。
「――き」
「は? なんだって?」
声が小さすぎて聞こえん。もっと腹から声を出せ腹から。ちゃんと呼吸出来てんのか?
「早帰燕。私の名前」
「先? 珍しい苗字だな」
今度はちゃんと聞こえた。
でも不満なことがあるのか、先とやらはムスッとした顔をしている。
「違う。早いの早で、さ。帰るの帰で、き。それで早帰。早帰燕」
名前を間違えられたことにへそを曲げてたらしい。
珍しい苗字だから仕方ないだろ。てか俺、すでに四回ほど間違えてたな……にしても。
「早帰燕って、めちゃくちゃ早く帰れそうな名前だなっ!」
「帰れそう、じゃなくて。早く帰れてるよ? 足早と違ってね」
何回も名前を間違えたことを根に持ってる?
さらっとふてぶてしいことを言ってくる早帰とやら。
でもそれは皮肉を言われてるんじゃなく、喧嘩を売られていることはわかる。
ちょっとばかし名前が早そうなくらいで調子に乗りやがって、俺の何を知ってるってんだ。
「それは聞き捨てならんわ。早帰だか燕だか知らんけど、俺は帰タラーなんだけど? 足早なんだけど?」
俺の帰宅を馬鹿にされて黙っている訳にはいかない。
俺は早帰に、昂然と帰タラー宣言をしてやった。
さすがに驚いたようで早帰はパチッと眠そうな目を見開くと、周りの騒がしい声によって掻き消されそうなほどのか細い声で呟く。
「そう、足早って帰タラーなんだ。――奇遇だね。私も帰タラーなの」
確かに早帰が帰タラーだと宣言したのが聞えた。
「それじゃあ、まさかお前がいつも教室一番に出てくっていう……」
「あれ? 良く知ってるね。偽物の足早じゃ気づかないと思ってたけど、誰かから聞いた?」
「そんなこと誰かに聞かなくたって……偽物ってなんだよ。俺のこと馬鹿にしてるのか?」
「別に馬鹿にはしてないよ。ただ足早はこれからどう足掻いても早くは帰れないって思ってるだけ。ただの道化の偽物だものね」
妙に達観してるかのようで淡々と口を動かす早帰からは、帰ることに対して自信を持っているようにみえる。
それにもう一つわかるのは、俺がこいつに格下に思われてるということ。
「だからなんなんだ。要するに何が言いたいん――」
「も、もうすぐでチャイム鳴るから……みんな席ついてね」
突如声がした方を見ると、教室に入ってきた和気先生がみんなに声を掛けている。
クラスがうるさく和気先生の声が少しばかり小さいのもあってか、席に戻る奴と雑談して戻らないと極端に別れていた。
……和気先生の頼みとあっちゃ聞かない訳にはいかないな。
俺はグツグツと煮え立ち始めていた感情をなんとか押え、自分の席へと戻ることに。
すると、後ら無理な提案が飛んできた。
「話があるから、放課後付き合って」
どうして、どいつもこいつも帰りにばっか……。
「は? いきなり何言って――」
「そしたら、足早が聞きたいだろうことの真相もわかる」
俺の聞きたいことの真相……。
口ぶりからして、やっぱりこいつは俺のスピードメーターのことを知ってるに違いない。でも――。
「それは無理だ。お前だって自分帰タラーだってなら、理由くらいわかるだろ?」
「なら普段、足早が帰るのに掛かる所要時間から、私の帰り方で時間短縮出来た分だけ付き合ってもらう。それでいいでしょ?」
表情一つ変えずに出来るはずもない提案をしてきた早帰は、机の中から教科書を出し終え、俺の方をちらっと見てきた。
その眼からは、まさか逃げないよね? とでも訴え掛けてきてるよう。
自称だろうが、帰タラーと名乗るだけのことはあるな。帰タラー魂に火をつける、なかなかの提案だ。こんなこと言われて断りでもしたら、生粋の帰タラーとしての名折れだ。
「問題ない。けど、基準とするなら俺の最速タイムだ。それでもやれるもんならやってみろ。もし駄目だったときは、締め上げてでも色々と話を聞くからな」
「……わかった。ならまた帰りに」
尻込みして逃げ出すのを期待していたのに、追加した悪条件すらすんなりと受け入れやがった。ここまで俺にデメリットのない条件なら、いくら帰りときても受けて立ってやる。
そんな芸当出来るわけがない。スピードメーターの代金を倍以上ふんだくって、公園にでも捨てて帰ってやる。
俺はチャイムが鳴る前になんとか自分の席へと戻る。
「早帰とはかかわらない方がいい」
席につくと、フラグを立てるように嫌な言葉が聞こえた気がする。
隣の天ノ上を見ると読んでいた本をパタリと閉じ、横に掛かった鞄へと手をかけた。
そこで視線合う。
「……何見てんだ。ぶん殴るぞ」
なんか忠告でもされたような……気のせいだ。このアマが俺の心配をするわけがない。
「それじゃあ、みんな気を付けて帰ってね」
俺の帰宅の女神様。和気先生が挨拶を終えた後にそう言って締めると、クラスの連中はわらわらと動き出した。
さて、まずは早帰と合流してどうするか決めないとな。
右隣の列の一番後ろ。早帰の席を眺める。
奴の身長が低いからか、クラスの連中がふらふらと教室を徘徊してるでせい目視しづらかった。どこにいるんだ? こうしてる間にもだんだんと帰る時間が……。
「足早。今までに帰りのST終えて帰った最速タイムはいくつ?」
ふいに真隣から声が聞えた。
でもそれは右隣にいる忌々しい尼じゃなく、左手の窓側。
カーテンの中には、小さな人影があった。
「……お前いつからそこに居たんだよ」
シュッと横からカーテンを引っ張ってやると、やはり中から出てきたのは早帰だった。
「そんなことはいいよ。それよりタイムを教えて」
出てきた途端にそう迫ってくる早帰だったが、さっきの休み時間のときとは違ってパッチリとひらけた双眸で俺を見ていた。素っ気のない上にふてぶてしい女だとしか思わなかったけど、少し乱れた髪を手櫛で整える姿は、ちっこくて可愛らしい女の子だった。
「二十一分だな。秒単位で測ってたわけじゃないから、完全と言える数値じゃないけど」
普段からこの数値を目標として考えているため、すぐに言葉に出すことが出来た。
俺の家の場所は、学校に一番近い駅から二駅分離れたところにある。
前に学校から車で帰ったときのタイムを計測した結果。
二十八分と出たのに対して、俺は七分近くも早い。ましてや自転車だ。
しかもこれは誰にも絡まれずに真っ先に駐輪場まで行き、なんの障害にも妨害されずに家まで帰れたもの。学校の教室を出るときに最後に見た時間から、家に着いた時にスピードメーターで見た時間だ。まさに最速。俺こそが生粋の帰タラーだという証明っ!
なんの根拠があって自信があるのかは知らんが、早帰はビビってるみたいだ。
全く口を動かす気配がない。
「…………」
「あぁ、ちなみに俺の家は大体ここから二駅戻ったところだからな」
家の場所がわからなければ考えれないと思って、詳しい場所を教え……たとでも?
違うね。具体的な場所を教えて、更なる絶望へと追い込むために決まってる。
俺をコケにした仕返しだ。
早帰は詳しい場所がわかって納得が言ったようだ。
「うん」と遠慮がち? に頷いて口を開く。
「まずまずだね」
やっぱり舐められてた。
あーあ。さっきカーテン捲るときに下からスカートごと捲ってやればよかったわ。
「じゃあ行くよ」
「はいはい。どうぞご自由に。俺は後から着いてくから」
俺の了承を得ると、早帰は歩みを始めた。俺も机にかけた鞄を手に取り肩へとかける。
「あれ? 足早って早帰と仲良かったっけー? めずらしい組み合わせじゃねぇー?」
やっぱり韋駄が話しかけてきやがった。こいつも相変わらず懲りない野郎だな。
俺はいつも道理振り払ってやることに。
「お前には関係ないだろ。言っとくけど今日も幼稚園なんか行かねぇ――」
「おい! この前はふざけたことをしてくれたな。二人して私を置いて帰りやがって。あ、足早。今日こそは一緒に帰るぞ」
かなりお怒りの轍先輩。いつにもまして高圧的な物言い。
こっちに近づいて来て会話に入ってくる。
「いやー、いいですねー。なら今日は三人で行きましょうよ。絶対楽しいからさー」
いつも通り韋駄が話を広げ始めやがる。
「だから勝手に話を進めるな。俺だって今日は――」
「歯医者の予約があるからダメ」
俺の代わりに答えたのは先に歩いて行ったはずの早帰だった。いつの間にか隣にいる。
もっとマシな言い訳があっただろ! そんなもんで振り切れるんだったら俺だってとっくに使ってる。ほら、変な空気になっちゃってるし、「嘘ついてんじゃねーよ」って顔で韋駄も轍先輩も見てるじゃん。余計なことを……。
「歯医者だと?」
轍先輩があからさまに疑った眼差しで俺のことを見てくる。
「歯医者ねぇー」
韋駄ですら微塵も真に受けてないらしく、呆けた顔で明後日の方向を見て呟いた。
俺はイライラを隠しきれずに、隣に置物のようにちょこんと立つ早帰を睨み付ける。
これからどうやって料理してやろうか考えてるのか、韋駄と轍先輩が目配せをしていた。
何かを確認し終えたようで、二人して口を開く。
『歯医者ならしょうがないな』
「――はぁ?」
思いがけぬ回答だった。つい間抜けな声が出てしまう。
「私はこう見えても虫歯は出来たことがないんだぞ? おすすめの歯ブラシでも今度教えてやろう。……ち、治療が終わったら今度一緒に買いに――じゃ、じゃあなっ!」
またしも不良らしからぬ宣言をしていった轍先輩は、放るように手をあげて去って行った。轍先輩が毎日かかさず歯を磨いて……この人ほんと不良?
いまいち不良の定義ってのはわからんけど。
俺が轍先輩の後ろ姿を見送ってると、さっきまで呆けた顔をしていた韋駄が、何故か俺の顔を睨み付けていた。
「足早、お前虫歯だったのかよ……どうして黙ってたんだっ! 子供の歯、乳歯はな! 虫歯になりやすいんだよ! お前の虫歯がまほちゃんにうつってたらどうするんだ! 早く治して来いっ! それまでは絶対あそこには連れてかないからな!」
初めて見る不機嫌な韋駄は俺と話したくないのか、うつ伏せになってこっちを見ない。
口の中の虫歯をどうやったら人にうつるのか色々聞きたいところ。でも今はそんなことをしてる場合じゃない。それに言っておくけど俺に虫歯はないからな。
「行くよ」
早帰がそう言って歩き始めた。俺は後ろをついていくが、一言物申す。
「早帰。余計なことするなよ。あれくらいなら俺一人で十分対処できるっての」
「そう? 前に見たときは、向こうのペースに流されて区切りどころを見誤ってるように感じたけど?」
「そんなことねぇよ。――って、いつそんなところ見てたんだよっ!?」
「いつだかは忘れたけど、一回だけね。たまたま視界に入ってきたから」
「視界って……」
可愛げのない奴だな。素っ気のない言い回しばっかしてきやがって。今のうちに少しくらい媚び売っておけば、許してやらんこともないのによ。
早帰は振り返ることはしずに、独り言のように喋りだす。
「今みたいな場合はどうする? あなたに時間を取られると思い通りに動けないんだけど?」
「それは仕方ないだろ。帰宅にはトラブルはつきものだ」
確かに自分の帰宅プランを他人に崩されるのは腹立たしい。でも帰宅というのは一人でするもの。それに自分以外の人間の動きを全て予測して、予定を進めるのは不可能だ。そこは臨機応変に行くしかないだろ?
さすがは自称帰タラーとやら。
俺の思っていることが解っているようで、早帰は一人頷く
「うん。……なら今日は足早のトラブルも私が全部片付ける。それで短縮できた時間は私の所要時間に換算するってのはどう?」
「好きにしろ。そこら辺はお前に任せるわ」
「了解」
一日にそう何回もトラブルが起こることはないだろ。……油断はできないが。
これくらいの譲歩はしたっていい。さすがに今の条件じゃあ早帰が不利すぎる。あまりにも有利な条件で勝って、あとから難癖つけられちゃたまったもんじゃない。そんなことより――。
俺は早帰の手頸を掴んで引き留める。
「おい、ちょっと待て……自分が何してるか気づいてる? お前、こっちは教室の後ろ側だぞ。ただでさえ人の多い所に突っ込んでいくなんて、ホントに早く帰る気あるのかよ」
「……それなんの冗句? 面白くないよ」
早帰はイラッとしたようで俺を睨み付けてくる。でも身長差のせいか、上目づかいをされているようにしか見えない。ほんとに睨んでるの? それとも媚び売り始めたか?
「そうやって私の邪魔してくるなら話しながら移動するから」
早帰は手首を返し、俺の手を握ってくる。
もう、なんというか。とにかく――痛い。周りの視線や、握る強さじゃなくて……。
早帰は小さな手で俺の手をしっかり掴んでいた。皮膚を突き破るくらいに爪を立てて。
「教室を出るときはね。後方から出ようとすると後ろにロッカーがあるから出にくいの」
そんなわかりきった講釈を垂れる早帰。俺の手を引いて、教室の後方へと歩みを進める。
言う通り、今日もロッカーの前はかなりの混雑具合だった。
「だからって逆をついて教室の前方へ向かうってのはダメ。下手すれば教室にいる全員の視角に入ることになるから。そうなると足早みたいな奴は逆効果かもね」
全く持って意味が解らないのは俺だけ? 俺みたいな奴ってなんだよ。
すると、じとーっとした目で俺を見ていた早帰が、ため息をついた。
「はぁ……気づいてないんだ。別にいいけど」
一人納得した様子。早帰は俺を連れ、ロッカー前の人ごみへと突っ込んでいく。
ロッカーに入れ終わった奴がふいに飛び出して来たり、自分のロッカーの前に人がいなくなるのを待っている奴らがいたりしてかなり身動きがとりずらかった。
でも俺がぶつかりそうになるたんびに早帰が俺の手を引っ張り、うまい具合に接触しないようにコントロールしてくる。どんなトリックを使ってるのか解らないが、早帰は振り返ることをしない。後ろに目でもついてんの?
「――ストップ」
もうすぐで扉を出ようとするところで早帰が足を止めた。
「どうしたんだよ。いきなり止まるなって」
早帰がじっと見据える先。そこには門番のように扉の前に立つ女子がいた。
「足早くん、私言ったよね……。いつの間にか随分と仲がいいみたいだけど?」
俺たちの前に立ちふさがったのは天ノ上だった。
意味深なことを言って俺と早帰を見比べてくる。俺は即座に手を振り離した。
「お、お前には関係ないだろっ!」
「そぅ……」
天ノ上は意外にも素直な反応だった。いつもなら他いる奴の隙を窺って、どういたぶってやろうかとでもいう顔をするはずなのに……。
こりゃあチャンスだな。こんな密集したところじゃ天ノ上も本性は出せないはず。俺の威厳を見せつけがてら、久々に憂さ晴らしでも――。
「どいて」
俺が口撃しようとして意気込んでいると、早帰が俺の前にすっと手を出した。
それは今まで早帰から聞いた中で、一番冷たい声音だった。さっきまでの俺に対しての態度が優しく思えるほどに。
「つばめ……」
普段話さないようなタイプだからか、明らかに天ノ上も動揺していた。
そうか。そういえば今日はそういう約束だったな。
いいぞ早帰。やったれやったれ! 天ノ上をおっぱらってくれ!
でも早帰は追撃をすることはぜずに再び歩みを進めた。強行突破するつもりらしい。
「さ、早帰さん。ちょっと待って――」
天ノ上が慌てて止めに入る。
「天ノ上。あなた、足早くんにも一年前と同じことしてるの?」
「…………」
早帰が止めに入ってきた天ノ上をじろり睨み付け、よくわからないことを呟くと、その場が一気に殺伐としたものに変わってしまった。さすがの天ノ上もこっくりと黙っている。
何この空気? 突発的に起こった両親のマジ喧嘩並に居心地悪いんだけど……。二人は深い因縁のあるライバルかなんかなの? 巻き込むのだけはやめろよ?
「――やっぱり。とんだ偽善者ね。自分がやってることが全て正しいと思ったら大間違い」
去り際に軽く肩がぶつかりあった二人。
扉を開けた早帰が去り際にそう言うと、天ノ上はいつも嫌味を言ってくるときのように、表情が解らなくなるくらい顔をうつむかせた。こ、こいつ仕掛けてくる気かっ!?
「少なくとも私は迷惑だった……。行くよ、足早」
「お、おう」
俺は俯いた天ノ上の横を通る際に嫌味の一つでも言われそうな気がしたが、特に憎まれ口を叩かれることなく、俺と早帰は教室を出た。
「席から離れるときの韋駄と轍に約五分。教室を出るときの天ノ上に約三分。教室を出てから足早に部活勧誘してきた陸上部に約二分。下駄箱で話しかけてきた男に約一分。駐輪場で話しかけてきた教師に約二分。これが私の大体削った無駄な時間。計十三分ね」
早帰が呪文でも唱えるように淡々と結果を報告。
ほぼ俺の家の近くと言うところまで来た俺たちは、家に一番近いところのコンビニに寄っていた。
俺は自転車を降りてサイドスタンドを立て、早帰に物申す。
「ちょっと待て、その計算はおかしいだろ」
「……どこが?」
自分の帰宅は否定されたからか?
早帰はただでさえ無愛想な面をいつに増してしかめている。
「どこって、韋駄と轍先輩のことだよ。お前が手出さなくても俺でなんとか出来たっての。だからそのカウントは無効だ」
「わかった……あのときはまだ明確なルールを決めてなかったから認める」
「まだあるぞ。それと下駄箱で話しかけてきたやつも無効だ」
「我がままだね」
駄々っ子の面倒を見るのに疲れたように、早帰が大きなため息を吐きやがった。
別に俺はいちゃもんをつけてるってわけじゃないからね? 不正をただしてるだけだ。
「我がままじゃないっての。あれは一年の時同じクラスだった奴が軽く挨拶して来ただけだろ。無理やり引っ張りやがって。確実にシカトしたと思われたわ」
早帰の人間回避術は一般的に言えば普通の避け方だけど、やり方に遠慮がないというか無理やりというか……。陸上部の勧誘が鬱陶しかったときなんて、初対面の筈なのにビンタはって黙らせるとか、そこまでやるか? 普通。もうやること不良、轍先輩じゃねーかよ。……あの人だったら腹殴って、臓器を狙ったダメージを与えてくるんだろうけど。さすがは真の不良。意図的な悪質さが見え見えしてるわ。
「じゃあいい。……その二つ除いて、計七分削ったってことで異論はない?」
他にも突っ込みどころがあったけど、そこはいいか。構ってたらキリがないからな。
「あぁ、それでいい。それでここまで着くのにかかった時間が……」
「十五分三十八秒」
俺が正確な時間を思い出せず考えていると、代わりに早帰が答えた。
いくらまだ家に着いていないとはいえ、あり得ないタイムだ。
口で結果を言われただけなら、間違いなく信用に値しない数値だけど。実際に後ろから着いてここまで来たわけだ。この結果が出た以上文句は言えない。
「ややこしくなるから十六分でいいや。ここから二分もあれば十分家につけるでしょ? だから十八分で帰宅できたと仮定して……足早の最速タイム、二十一分よりマイナス三分。それと私の削った七分を足す。――十分間私に付き合ってもらうから」
早帰はわかりやすく指で数字を計算して見せ、持ち時間を提示してきた。
「わかった。好きにしろよ……」
約束は約束だ。俺は文句を言わずに付き合うことに決めた。
すると早帰は、上着のブレザーのポケットから何かを出して手のひらで見つめる。
「もうすでにここについて三分経ってるから、あと七分ね」
時間を確認していたらしい。
「ちょっと行って来る」
そう告げると、一人で青と白のストライプのコンビニへと入っていった。
俺は隣に止まっている早帰の自転車を眺める。
変則すら付いていない女の子らしいオレンジの自転車。
見る限り少しの改造も行われていない、種も仕掛けもない普通の自転車だ。
それでこのタイムをたたき出すとは……。
早帰の帰り方は韋駄のようにがむしゃらに自転車を漕ぐというものではなかった。
緻密に計算された完璧なスケジュール。
早帰曰く、各信号機ごとの変わるパターンに秒数。周辺の小学校、中学校、高校の曜日ごとによっての終わる時間を計算して人通りの少ない道を通るらしく、出来るだけ信号に引っかからないように裏道を通り、常に一定の速度を維持して帰宅するのがもっとうだとか。まるで上空から自分の向かう先を見通しているかのように、校外に出てからは一回たりとも障害となるものに遭遇しない――それはまさしく安全で最高の帰宅。
ここに着いたときに時間を確認したときは、騙されてるんじゃないかと思ったほどだ。
あの走りはまさに本物どころか、一流の帰タラー。早帰はただの自称ではなかった。
ピンポーンというインターホンのような音がなって、コンビニの自動扉が開く。
見てわかるほどに、ガックリと肩を落とした早帰がコンビニから出てきた。
トイレでも行って来たのか? にしては短かったな。……帰タラーだから断られたか?
「何やってたんだよ。時間無くなるぞ。トイレか?」
こんなにも見た目でわかるほど、早帰が感情を出したのは初めてじゃない?
「違うよ。トイレくらいなら帰宅中に行きたくなってもギリギリまで我慢するから」
早帰はのそっと顔をあげてお下品なことを言ってくれる。
うわぁ、女子からそんなこと聞きたくなかった。女子高生見る目変わるわー。
「女の子はトイレには行かないよ?」ってくらい、すっ呆けたことを言ってくれた方がまだマシだった。
不機嫌そうな顔をしてため息をついた早帰は俺に質問をしてくる。
「……ねぇ。コンビニってなんでも売ってるもんじゃないの?」
「なんでもは売ってないだろ。食料以外は、急遽必要になったときのための生活代用品が置いてあるくらいだろ。あとは嗜好品とか」
そう答えてやると残念そうな顔をして再びポケットに手を入れる。
「必要なのに……これ売ってなかった」
俺の方へと差し出した手のひらに載っていたのは、前まで結構な頻度で見覚えのあった小ディスプレイだった。必要っていってもスピードメーターまでは置いてないだろ……。
「いや、さすがにこういうものは売ってないって」
「そっか……。じゃあいいや」
冷静につっこまずに答えてやると、早帰は再びそれをポケットにしまい自転車に跨った。
もしかして今コンビニ入ったのってこれを探しに行ってたのか? うわ、なんか可愛いなコイツ。コンビニに自転車のスピードメーター売ってると思って……。
早帰は自分の用は済んだというように、ぴっと片手をあげてペダルを踏み込む。
「それじゃあ」
「――っておい! 待てや、泥棒っ! まだ話は終わってねーぞ」
もちろん俺の身体がそれを許さない。
反射的に手が、早帰の自転車の荷台を掴んでいる。
そのまま自転車にロックを掛け、鍵を引き抜き、サイドスタンドを立ててやる。
早帰はしぶしぶ自転車から降りると、不機嫌そうな顔で俺を見てきた。
「なんで? もう話は終わったでしょ。足早も早く帰れていいじゃ――」
「とりあえず正座しろ」
「……なに? いきなり」
「正座だよ、正座。わかってんだろ?」
「あぁ星座ね。足早は何座なの?」
「俺は七月の前半が誕生日だからー……ってそっちのせいざじゃねーよ!」
こいつ全く反省の色が見られんな。
これは人としても帰タラーとしても教育してやる必要があるらしい。
「あー、仕方ないなぁ。早帰正座わかんないのかー。ならまた今から学校戻って指導室にでもぶち込んでもらう必要が――」
「せいざって座る方の正座ね。はやく行ってよ。時間を無駄にしたじゃない」
物わかりの悪い早帰さんはやっとわかってくれたらしい。
ぷるぷる震えながらもコンクリートの地面の上で正座をする。
「痛いから早くしてね」
制服でスカートだからか膝のあたりが痛いらしい。
「それはお前次第だ」
俺はそういって早帰があれをしまったブレザーのポケットをまさぐった。
すると案の上、小さな簡易ディスプレイが出てくる。
「変態」
俺を見上げ、早帰が呟いた。
こっちは断じて余計なところを触れたりはしてない。ただなかなか上手くつかめなかっただけだ。だいいち早帰には、まさぐるようなところは…………ないな。
「俺は変態じゃない、帰タラーだ。お前こそ豚箱に行きたいのか? 泥棒猫め」
「私は泥棒じゃない。帰タラーの早帰燕」
「お前が帰タラーだってことは認めてやる。でもそれとこれは別だ。……これはどこ手に入れた?」
俺はこれでもかというくらいに早帰の眼前へと、盗られたものを見せつけてやる。
「わからない。知らない間にポケットに入ってたから」
「嘘吐くなよ。ていうかそれならお前の物じゃないだろっ! 次、正直に言わなかったら豚箱」
「初めて学校の駐輪場でそれを見つけたときは、そんなものがこの世にあるんだって驚いた。それを毎回帰りに見るたびに私はだんだん興味を引かれるようになったの。そしたら無意識のうちに私の手が動いた。いつの間にか私のポケットに入ってたの。でもこれだけじゃ使い物にならないってわかったときには、呪いが掛かっていたのか返すとこが出来なかった。呪われた装備は外せないものでしょ?」
「わかった。よーくわかったぞ。お前がなんの罪悪感も感じず盗っていったことだけな」
どうやっていたぶってやろうか。コンビニの駐車場で女子高生に正座をさせるというなんとも奇異なシュチュエーションなせいか、さっきからお客さんからの視線が痛いが。
そろそろ本気で足が辛くなってきたのか、早帰は膝小僧をもぞもぞむず痒そうに動かし、顔を見上げる。
「悪かったとは思ってるよ? でも足早学校で話しかけても無視するから……これくらいしないとゆっくり話せる機会が作れなかったの」
「無視? 早帰が今まで俺に話しかけてきたことなんてあったか?」
早帰とはおそらく一年生では同じクラスじゃなかった。
二年に入ってから早帰に話しかけられたことなんか……存在すら知らなかったのに覚えてる訳ないか。
早帰も自分の中で思考しているらしく指で数えている。
「うーんと……三回くらい。寝てたり、ぼーっとしてたりして気づいてくれなかったけど」
「それはタイミングが悪いんだよ」
確かに一、ニ時間目はずっと帰りのために仮眠しているし、三、四時間目から昼休みにかけては帰宅ルートの作成をしてる。五、六時間目や七時間目があるときは、いつもその帰宅プランのイメージトレーニングだ。何かしてるときに話しかけれてれも……確かに話しかける隙はない。話したいくて喋りかけてくる奴がいても、いつもみたいに邪魔してくるのかって勘違いしそうだな。
「足早いつもそんな感じだけど?」
「ま、まぁ、そうかもな……」
自分の学校生活を振り返って、自虐気味の笑みがこぼれる。
でも話しかけてくる奴の中に、ほんとに話したいと思ってる奴がいるとは意外だったな……。どうせこれも嘘だろうけどな。
「もうダメ。耐えられない」
そう言って早帰は正座している足を崩し始めた。赤くなったひざ下あたりを擦っている。
すぐに崩しやがると思ったけどよく耐えた方か。これで無かったことにしてやってもいいか。あとは金だ、金。金さえ払ってくれればいい。
足のしびれと膝の痛みの両方で辛そうにしつつも、早帰は俺に指をさし尋ねてくる。
「……そういえば。それって、結局どこで売ってるの?」
どうやら早帰は、そうとうスピードメーターに関心があるらしい。
また狙われるハメになっても困るからな。早帰の帰宅の仕方を見せてもらった礼とまではいかないが、帰タラー同士の情報交換として教えてやろう。
「ホームセンター。学校の近くにあるだろ? あそこの中にある自転車コーナーの所にあった。確か千八百円だったかな」
「ふーん、案外安直なところね」
安直ってお前な。この画面だけで測定できると思って盗ってったんだろ? そんな奴が馬鹿にしてんじゃねーよ。それにコンビニに売ってると思ってたのはどこの誰だ。
また掘り返していびってやろうかと思ったが、早帰は恨めしそう俺を見ていた。
「なんだよ? 自分の自転車にも付けたいのか?」
そう一声かけてやると、早帰はパッと表情を明るくした。
「うん! あ、でもつけ方よくわからない……」
「買えば説明書がついてくるから、それでわかるだろ」
照明の明るさを五段階くらい落としたかのように、早帰の目の輝きが無くなる。
「――あぁもうしょうがねーな。教えてやるから買ったら自分でつけるんだぞ」
自分でもどうしてこんなことを言ってしまったのかよくわからない。
いつもの俺なら時間を気にして、もう用は済んだから帰るとでも言い出しそうなんだけど……。もしかしたら俺の中で、前に早帰を無視してしまっていたかもしれないことを気にしているのか?
俺は手に持った簡易ディスプレイを、自分の自転車の固定台へと取り付ける。
「まず、ここから――」
一から教えてやるため、初めにつける部分から教えてやろうとすると、ふいに早帰がそれを静止してくる。
「ダメ。足早の自転車でやられても解らない。試しに私の自転車でつけてみてよ」
「はいはい。それじゃあひとまずパーツ外すから、つけるときちゃんと見てろよ?」
「りょうかい」
早帰はこういう機械的な類に弱いの? 意外と女の子らしいとこありじゃないか。
俺はこなれた手つきで測定器や固定台などをぱっぱと外しにかかる。何回か取り外しはしてるから、これくらいのことは造作もない。工具いらずで出来るタイプだしな。
痺れや痛みは引いたらしく、早帰は自分の膝を一払いするとこっちに寄ってきた。
覗き込むように外す作業を観察してくる。
「そういえば、足早ってどうして早く帰ろうとするの?」
どうしてってそんなこと言わずとも知れてるだろ。
「別に特に理由なんてないな。帰タラーに早く帰りたい理由なんているのか?」
「ふーん、それね。問題は」
「なんだ問題って。引っかかる言い方しやがって」
「別に。ただ理由があった方がいいってのも頭に置いておいた方がいいよ」
安物でパーツも三種類しかないおかげか、すぐに一通りパーツを取り外し終えた。
向きを変え、早帰の自転車へと取り付けを始める。
興味深い話に耳を傾けつつ早帰を一瞥すると、わかってるといったふうに俺の隣に来て作業を見届ける。
「例を挙げるとしたら……韋駄がピッタリね」
「は? 韋駄が?」
思わざる名前が出てきたせいでか、手を止めて早帰を見てしまう。
「――って近っ!」
横にはくりっとした丸い目があった。
「ん? どうしたの? 顔赤くして」
「いや、ごめん。……続けてくれ」
そりゃあ、こんなに頬がつきそうなくらい女子に近づかれたら、年頃の男ならみんな――ちょっと待て。早帰ってこんな小動物っぽくて、保護欲そそられるような可愛い顔だったか? もっと目に生気がなくて、人生をつまらないもんと考えてるような無頓着な表情だったような気が……。
「うん。詳しい目的はわからないけど、理由があって早く帰ってるみたいだから」
「――確かにな」
その理由が幼稚園に寄って幼女を観察することだなんて言ったら、こいつはどんな顔するだろうな。別に教えてやってもいいけど、どうせこいつも俺の言葉は信じないだろ。
止めていた手を動かし始める。
「帰タラーじゃないけど、韋駄はここら辺じゃ一番早いから。一緒に帰ると落胆するよ?」
「う、うそだろ! あいつがっ!?」
動かし始めた手をすぐに止めてしまう。
ロリコンが一番だとかあり得んだろ。……いや、逆にロリコンの底力恐るべしとでも言ったところだろうか。納得できるような、納得したら負けなような気も……。
「俺だってあいつに着いてくことは出来たぞ。……一回目は置いてかれたけど」
「へぇー、すでに一緒に帰ったことあるんだ……。意外」
少し驚いたようにぽかんと口をあけた早帰だったが、すぐに次の言葉を吐き出してくる。。
「でもそれは旧道での話でしょ? 韋駄が本気を見せるのは道が広い所よ。国道みたいな」
俺がちっとも手を進めないのを見て、早帰が早くしてよと言いたげに見てきた。
はいはい、すぐやるって。――ってなんで俺が若干尻にひかれてるの? こっちは仕方なくつけてやってるってのによ。もっと可愛らしく媚び売ったりできんのか、お前は。そこそこ可愛い癖に……。
俺が手を動かし始めたのを確認した早帰は、満足そうに「うん」と頷いた。
「韋駄は通常時の一、五倍近く早くなると見積もっていい。足早が相手するにはまだ早いと思うけど?」
「あれの一、五倍とかマジかよ……」
あのときでも俺は、あんなに汗だくになって着いて行ったんだぞ? それよりも更に上があるって、どんなスピードだよ。ロリコン強すぎんだろ。ちょっと俺もなろうか揺れるわ。
「足早ってスピードメーターに頼ってない? 目先の数値ばかり気にするのはよくないよ。もっと全体的に見ないと。私が取り除いたお蔭で良くわかったでしょ?」
「お蔭ってな。お前……」
犯罪を肯定するんじゃないよ、この小娘が。
でも確かに俺は、速度を第一に意識して周りの状況によって合わせてる。
どうしてそれを早帰が知ってるんだ……?
最後に早帰の自転車のハンドル部分にディスプレイをスライド式に装着して完成。
「よしっ、終わったぞ」
「意外と早くついたね」
だからなんでちょっと偉そうなんだよ。教室のときほどは生意気じゃないけどさ。
「まぁこれくらいな。パーツも少ないし。自分でも出来そうか?」
さっき抜いた早帰の自転車の鍵をさす。
前輪のスポークという部分につけた観測装置と、その近くにつけた速度測定器との感度もバッチリ。前輪を浮かして手で回すと画面に数値が刻まれていた。
「大丈夫、見てるだけでも良くわかったから。これなら私でもつけれそうだよ」
目を輝かして自転車に跨る早帰は、何度も確認するように頷いていた。
「そういえばさ。さっき俺に早く帰る理由を聞いてきたけど、お前はなんで早く帰るん――」
「はい、これ」
俺の質問を遮った早帰は、右手の握り拳を押し付け何かを渡してくる。
おいおい、ちょっと手ぇべたべたしてるんですけどっ!? ねちゃねちゃしてたり、異臭がしたり、もしくは鋭利なもので俺を傷物にする気じゃ……。恩を仇で返すつもり?
警戒しながらも手のひらで受けると、冷たいものが手に触れた。
九百円。
五百円玉一枚、百円玉四枚の九百円だった。……九百円?
どうして金なんか――あ。示談金? 金で解決しようとは来たねぇ奴め。
「中古だから半額ね」
中古? 半額? それが九百円ってどういう……。
「つけてくれてありがと」
そう言って早帰は自転車を漕ぎだしていった。
九百円が半額……千八百円。それが中古。
それにつけてくれてありがとうって…………おいっ!
「早帰待てっ! 誰もやるなんて言ってないだろっ! 払うならせめて工賃込みにしてやるから千八百円払ってけぇーーっ!」
もう人の目なんてはばからずに思いっきり叫んでやった。
周りに居る人や通行人たちが俺のことは奇異な目で見てきやがる。もちろん、俺が見据えている先に相手の早帰へだって向いている。
止まってきょろきょろ挙動不審にあたりを見回す早帰は、これは不味いという顔をしてしぶしぶ戻ってきた。
ふぅ、やっと大人しく払う気になったか。勝手に値下げしやがって。
俺の目の前で早帰が、キキッとブレーキ音をたてる。
「明日は足早の帰り方をみせてね」
嬉しそうに笑って言うと、早帰はまた自転車を漕ぎだしてしまった。
いやいや、待て待て。明日ってなんだよ。また明日も一緒に帰るのか? 勝手にそんなこと決めやがって……。それにどうして俺の帰り方をお前に見せる必要が……あ。
「ちょっとぉっ! あと九百円はっ!?」
気づいたときには早帰の姿はどこにもなかった。
「足早、帰る気ないの?」
ぱたんと静かに扉を閉めた早帰は、教室を出るや否や俺を睨み付けてきた。
小さいせいか相変わらずの上目づかいだけど……。
ほんと狙ってやってるのか? そんなに媚び売っても金は払ってもらうからな。
「ちょっと待て。それはさすがに心外だ。俺なんて常に帰宅することしか考えてない。あんまり舐めるなよ?」
俺も負けじと早帰を睨み付けてやる。
今日はゆっくり自分の帰宅を見つめ直して帰るつもりだったのに。昨日こいつが帰ろうって誘ってきたせいでこうやって帰る羽目に……。あんな帰り方見せられた後に俺の帰宅を見せなかったら、しっぽを巻いて逃げたように思われるからな。
それは俺の生粋の帰タラーとしてのプライドが許さない。
俺の実力見せてやるっ! せいぜいお洋服――制服が汚れないように気を付けるんだな。
早帰は俺に根負けしたようだ。上目使いををやめて、ふーっと息をついていた。
「なら、どうして後ろから出ようとしたの? 今日は昨日と違って、後ろで話してる人たちが多かったのに……前から出ればよかったでしょ?」
どうやら俺が出る方向を後ろに選択したことに怒ってるらしい。
確かに後ろに行ったから、轍先輩にも捕まって歯ブラシの話を目いっぱい聞かされた。
そりゃあ、不良があんな真剣に毛並やら繊維やらの話してくるんだもの。反応に困るわ。
「そ、それはあれだ。前の方にいるメガネがやっかいだからな! 避けたんだよ!」
あの固定トラップのことを思い出して、前を選んだ時のデメリットを教えてやった。
すると知っているのか、早帰は頭にビックリマークの見えそうなくらいにビビッと反応する。
「確かに……私も前を行くのは嫌いだから。変なメガネがいつも鬱陶しいの」
「変なメガネって、俺の列に一番前の奴だよなっ!?」
どうやら早帰も知っていたらしい。あのメガネ、相当な障害だと思われてるわけか。
「そう。あの眼鏡、すぐ物落とすの。前に私が校舎を出たときなんか窓から筆箱をとしてきて、持ってきてとかふざけたこと言うもんだから、下から教室まで投げつけてやったわ」
「いや待て待て。四階だぞ? ここ。お前女子なのに結構な腕力だな! 嘘吐くなよ」
「嘘じゃない。神話に出てくるヘラクレスだって帰タラーだって言われてるんだもの。それくらい出せてもおかしくない。火事場のクソ力的なものよ、きっと」
そう言って早帰はボールを投げるように腕を振る。特別風を切るような音すら聞こえてこないけど? でもまさか帰タラーが神話にまで関わってくるとはな。
「マジかよ……。それは初耳だったわ。貴重な知識だ、覚えておこう」
「何言ってるの? そんなわけないでしょ」
この野郎っ! 素知らぬ顔してとぼけやがって。お前が言ったんだろ!
「だろーな! 嘘つきめ。死んでしまえっ!」
文句があるのは俺の方だってのに、早帰は反抗的な目をしてくる。
「足早の方こそ。帰タラーだって宣言するほどだから期待したのに……あなたの帰り方には失望した。もうここからは私のやり方で帰るから」
ったく、今日は俺の帰宅を見してくれとか言ったわりに難癖ばっかつけてきやがって。
俺の本領発揮はこっからだってのに……。
教室を出て左へと俺は行き、早帰は教室を出て右とお互いに違う方向へ歩み出す。
だが二人の足音が鳴りやんだのも同時ですぐのことだった。
「おぉーっ! 足早くんじゃないかー。久しぶりだな。元気にしてたか?」
能天気なことを馬鹿みたいにデカい声で訊ねてくるのは、パンパンに八切りそうなくらいの部活着を着た男。ラグビー部の部長だった。
「またあんたかよ……」
俺は憂鬱になりながらも消え入りそうなくらいの声が自然と漏れた。
背中に小さくあったかいものが触れたと思うと、背後から声が聞こえる。
「足早、こっちも囲まれてる」
「……結局戻ってきてんじゃねーか」
メンソールのようなスッとした香りがする。
後ろを振り向かなくてもわかる。これは早帰の匂いだ。
「こっちに来てもやばいぞ」
俺の眼前に立ちはだかる、部長と三下筋肉に一年の筋肉スライム。
それとその後ろに並んだ数枚にも及ぶであろう筋肉の壁。
格段に前よりも強化された状態でリベンジしに来ていた。
すると、どうしたのか部長が離れたところから俺の後ろを覗くように、背伸びして顔を覗かせる。
「あれ? 君は……燕ちゃんじゃないか?」
名前を呼ばれた早帰は、俺の背中を壁にして振り返るがすぐに隠れてしまった。
「お前、あの部長と知り合いなのか?」
「一応……。何回かしつこく勧誘してくるから」
早帰は露骨に嫌そうな物言い。
最初に教室で話したときよりも、微かだけど色んな表情を見せるようになった……?
にしても、こいつをラグビー部の勧誘って、女子だからマネージャーか?
こんな愛想のない奴をマネージャーとか部長も見る目ないな。
早帰が嫌がってるのを解ってないのか、部長は気持ちの悪い猫なで声で誘って来る。
「おーい、つばめちゃーん。一緒にラグビーやろうよー。楽しいよー?」
「ほら誘われてるぞ? つばめちゃん。絶対楽しいだろ、混ぜてもらえよ」
「嫌っ。だってあの人ちょっと臭いもの。そんなに行きたいなら足早行けば? ラグビー楽しいよ?」
「やるかよ。余計なお世話だ」
早帰もどうやらやる気はないらしい。やっぱり腐っても早帰は帰タラーだ。
……はて、どうしたものか。
完璧に両方の道は塞がれてしまってるようだ。前みたいに教室を伝って抜けるにしても、三組の後ろの扉の前には部長たちが居て逃げ込む隙間もない。このままクラスに戻っても外で待ち伏せされて無駄に時間を潰すことは明白。今回ばかりは絶望的な状況か……。
それに他学年のラグビー部はこのフロアには進入禁止じゃなかったか?
「……部長。いいんですか? またここきちゃって。今度ばれたら謹慎くらいますよ?」
「いいんだよ。これだけの人数を連れてきたんだからな。すぐに捕まえてすぐに撤退だ」
部長と三下筋肉は二人して耳が遠いらしいな。
顔を寄せ合って話してても、俺にまでその内緒話聞こえてきてるんだけど。
もう勧誘じゃなくて捕まえるとか言っちゃってるじゃねーか。
「……足早。どう対処する?」
背中越しに早帰の声が響いてくる。
窓から入り込む風の音で聞き間違えたか? いつもよりも上ずっているように聞こえた早帰の声。俺にはこの状況を楽しんでいるかのように思えた。
「なんだよ。こういうときは俺頼みかよ」
「別に私も対処方法はすでに浮かんでる。でも足早に名誉挽回のチャンスをあげようと思ってね」
「相変わらず偉そうだな、おい」
こんな状況でもすでに対処方法が出来上がってるとはさすが早帰と言ったところか。……悔しいことに俺は未だ何一つとして浮かんでこないんだけど。
このまま黙ってるのも格好がつかない。
前に思いついたことのある答えを、俺は頭の片隅から引っ張り出してきた。
「一つだけ案をあげるとしたら――窓。飛び降りて脱出ってところか?」
「正解」
まさかの正解を頂いてしまった。
冗談なのか本気なのかわからなくなって振り向くと、早帰は親指を立ててニタッと笑いやがる。嫌な予感しかしないんだけど……。
「足早くん。前に勧誘しにきてから少し経ってしまったが、考えてくれたかな?」
俺たちの会話を遮るように野太い声が邪魔をする。
「部長。だから何度も入らないって言ってるじゃないですか」
「はぁ……。そうか。私が前から足早くんが散々嫌がってるのをわかってて勧誘に来るのは何故だかわかるかい?」
相変わらず、演劇のような喋り方をする部長。かなり鬱陶しい。
でもここまで断ってるのに勧誘してくるのは、たいそれた理由でもあるからだろうか?
俺が少し興味を覚えつつ部長の話を聞こうとすると、早帰が横から引っ張ってきた。
「漫画やアニメじゃないんだから、律儀に最後までセリフ言い終わるの待つ必要ない。殺し合いにでもなったら、相手がセリフ言い終わるまで待ってあげるお人好しなの? 私なら不意打ちでもどんな汚い手使ってでも、すぐに息の根を止める」
早帰さんはだいぶイライラしてるご様子。
もの凄いことを当たり前のことにように饒舌に言ってくれる。
「実はお前って帰タラーじゃなくて、もっと禍々しい何かだろ」
「私は帰タラーよ。一瞬の油断が命取りになることがあるんだから、甘い考えは捨てて」
一瞬の油断が命取り……。
それは確かに言えたこと。俺がこの前こいつらと戦ったときだってそうだった。
ちょこちょこ俺の袖を引っ張ってくる早帰。
こうして見ると、恥ずかしがり屋な女の子とでもいった感じで可愛らしいなとか思ったけど、それは完全なる間違いだったらしい。
どこから持ってきたか知らんけど、真っ赤な鉄の塊。消火器を一つ俺へと渡してくる。
「おい! まさかこれを撒くとか言うんじゃなよな!?」
「それはやり過ぎでしょ……。さすがにひくよ」
「お前さ。さっきと言ってること違くないか?」
ネタなのか本気でボケてるのかはわからないが、こんなやり取りをしていられるってことは、まだ俺らには余裕はあるみたいだ。
早帰の肩をトントンと叩き、手で招きよせてくる。
「まず私がこれを部長の下半身に投げつけて膝の皿を割るから、崩れ落ちたときに足早が思いっきり部長の頭をかち割る」
「おい待て待て待て。思いっきり汚れ役俺じゃねーかよ! むしろこっちの作戦のほうがひくわっ!」
ちょっとドキドキしながらも作戦内容を聞くも、やっぱり期待を裏切ってくれる早帰。
前に同じようなことを考えてた俺が言えたもんじゃないが、このどの過ぎた案はさすがにひく……。
「仕方ないでしょ? 命がかかってるもの」
「命の掛かってる奴なんていねーよ! 命狙われてる奴がいるんだよ!」
「大丈夫だよ。……たぶん。あの人鍛えてあるから」
「いや、鍛えてあるのはこういう状況から身を守るために鍛えてるわけじゃ――」
俺がなんとかして止めようとしたのも無駄だった。
鵜も言わせず、早帰は思いっきり部長の膝めがけて消火器を投げやがった。
「――うっ、うおわあああぁぁぁぁぁぁぁぁ」
見事に膝の皿にジャストフィットするや部長がもの凄い叫びをあげる。
こいつほんとにやりやがった……。
「ほら今よ。仕留めて」
これも早く帰るため。前にこいつらに邪魔されたお返し。――えぇいっ!
「あぁぁもう! どうにでもなれっ!」
俺は手首から腕、肘、肩。すべての節々を駆使しつつも体全体を大きく使って思いっきり投げつける。前かがみに倒れてしまうほどに。
「下手くそ」
背後から罵られてしまった。
息絶えずに部長が叫び続けているということは、俺のは当たらなかったらしい。
失敗してよかったような、成功させなければいけなかったような……。
何とも言えぬ思いで顔をあげると、部長たちの後ろに居たラグビー部員たちがそれぞれ体のいたるところを押えて悶絶していた。
「あ……あれーっ?」
「ちょっと飛び過ぎたみたいだけど、結果オーライね。――行くよ。着いて来て」
そう言って早帰は、俺の手を掴み小さな体で引っ張り上げようとする。
俺は後れを取らぬよう、すぐさま立ち上がり早帰についていく。
どうやら俺がさっき聞こえたと思ったのは勘違いじゃなかったな。早帰は背を向けているから顔は見えないけど、後ろから見ても頬が少し盛り上がって――笑ってない?
やっぱり早帰は帰宅する行為自体を楽しんで……。
ふいに手を離された矢先に、早帰は肩にかけていた鞄を背中に背負って跳躍。
「お、おい! 早帰ぃぃぃぃっ!?」
窓の外へと消えて行ってしまった。
マジで飛びやがった! 頭いかれてやがる。――ここ四階だぞっ!
窓から入ってくる風が俺の制服を波打つ。こんな強い風の中を早帰はお構いなしに飛び込んだのか!?
くっ……俺は下を見ることを躊躇っていた。けど、見ない訳にはいかない。俺が見届けないと……。目を背けたくなりつつも、俺は窓から顔を出す。
「おーい。足早はやくーっ」
えっ……無傷? 無事なのか?
俺を呼んで手招きする早帰は、これでもかというほどのドヤ顔だった。
へたり込んで座る早帰の下には、高跳びに使うマットのようなものが三重重ねで敷かれていた。俺はいらない心配をしていたみたいだ。
いつの間にそんなもんを……手際よすぎんだろ。先に言えっての!
それに早くって。飛ぶことすらこえーってのに、丁度そのマットに着地できる自信がないわ!
「あぁ、つばめちゃんは逃げてしまったか……仕方ない。お、お前たちっ! 足早くんだけでも捕まえるんだ!」
部長は大丈夫なようだった。膝を擦りつつ立ち上がると、俺の後ろにいる筋肉どもに指令を下した。なんて野郎だ。あんたならここからマットなしで飛び降りても無事な気がするよ。もうこいつら全員ここから飛び降りてくれるみたいな超展開起きないかな……。
とりあえず俺も、早帰と同じように背中に鞄を背負って両手を自由にする。
鞄を背中に背負うとこんなにも窮屈になる――いや、違うっ!?
「あ、足早確保ぉぉぉっ!」
俺がもたもたしていたせいか、後ろに迫っていたラグビー部の奴に羽交い絞めにされてしまった。さすがは鍛えているせいかどんなにもがいても抜け出せる気がしない。
「さすが我が部のレギュラーっ! 君はこれからは毎回スタメンにしてやろう!」
部長は膝を擦り終えるとゆっくりと俺の元へと近づいてくる。
パキパキと指を鳴らしてこっちに向かってくる姿は、確実に部活勧誘どころかお礼参りでもするのが目的のにしか見えない。
いつにも増して部長の顔がほり深くなったように思えるほどの威圧感。
「こっ、このっ! 離せっ! ――っ! 痛ってなーっ!」
俺は地面に地べたにねじ伏せられた。というより、叩きつけるような強さで床へと押し付けられる。顎が割れたかと思ったわ。これはさすがに頭にきた。
文句を一つでも言ってやろうと痛みに堪えつつ、おそらく全体重を掛けて来ている後ろの奴へと無理に視線を向ける。
「――あれ? 足早じゃんかーっ! こんなところでどーしたよ?」
俺を羽交い絞めにしているラグビー部。
ではなく、立って俺を見下ろしてるのは韋駄だった。
何故か俺の背中の上で、羽交い絞めにしていたラグビー部員はのびていた。
「い、韋駄! どうしてここにっ!?」
「どうって、だってこいつら俺がどいてくれって言ってもちっとも聞かないんだぜー? これじゃあ、まほちゃんが帰る時間に間に合わないっての! ……つい俺も頭に血が上って背後から一撃……なっ?」
「なっ? じゃねーよっ!」
ロリコンの底力恐るべしと言ったことろか。一撃でこの巨漢を倒すとは……。
ちょっと待て。……それなら、さっきの顎思いっきり打ち付けたのって韋駄のせいじゃないか? この野郎! よくもっ! ――って、ここは助かったからチャラにしてやるか。
俺はなんとか背中にのっかかった肉塊から抜け出すと、目の前にまで迫っていたはずの部長の進撃は止められていた。
「おっ! 足早か。もう帰ったんじゃないのか?」
頭を伏せ縮こまる部長を足蹴にした轍先輩が、消火器片手にこっちを見ている。
「……どういう状況?」
さすがは不良。
恐ろしいことに消火器を肩に担ぎ、人を地にねじ伏せた姿がとても似合っていた。
「いやな、先週だったか……。この部活らしきの服を着た奴に、私が帰るところを見られたのを考えてたら、教室を出るとそいつが目の前に居るときた。こりゃあ記憶を飛ばすしかないだろう」
そう言うと、げしげしと部長の背中を踏み始めた。
まさか俺がいつも邪魔に思っている奴らに助けられることとなるとは。
俺が立ち上がるや否や、後ろから韋駄が肩を組んできた。
「時間あるんなら一緒にかえろうぜー。足早―」
「待て韋駄。お前抜け駆けは卑怯だぞっ!」
轍先輩は容赦なく部長を消火器でぶっ叩いて沈めると、韋駄へと詰め寄ってきた。
窓の外からは「チキン早くおりてこーい」と腹立たしい声も聞こえてくる。
「わりぃ。俺、早帰待たせてるし行くわ。――だからまた時間があるときに」
韋駄と轍先輩に別れを告げる。けど、二人は何故かぽーっと俺を見ているだけだった。
普段ならしつこく理由を問ってきて、簡単には帰そうとしないはずなのに……何か俺、おかしなことでも言ったか?
窓枠へと足を掛け、俺は早帰の元へと飛び降りた。
昼休み。今はいつも通り自分の席で昼食をとっている。
俺は最後の一口の焼きそばパンを飲み込み、目の前にペッと放られる同じゴミを数えていた。向かいに座る早帰が、一つ吸い終わったゼリー飲料の容器を追加する。
「巽、昨日は楽しかったね」
「…………楽しいって。お前はやることなすこと無茶苦茶というか、でも道理にかなってると言うか……」
家以外では、ほとんど名前で呼ばれたことのないせいか反応に遅れた。
賛同してもらえないことに不満を感じているのか、早帰はムスッとした顔をする。
「お前じゃない、つばめ」
「あー、はいはい。つばめね、つばめ」
よくわからんが、昨日一緒に帰って以来名前で呼び合うことを強要された。
恋人どうしでもないのに恥ずかしいわ。何? 帰タラー同士はみんな恋人みたいなもんなの? 俺は男友達ですら名前で呼べないようなシャイな男なんだよ。ハードル高いっての。……男友達どころか友達がいないけどさ。
「それにしても、どうして昨日はなかなか飛び降りて来なかったの? 普通に飛べてたじゃん。ふふっ――叫び声はすごかったけど」
「笑うんじゃねぇっ」
更に座高を低くしてやろうか? 俺は眼下にあるつむじへ軽くと手刀を振り下ろす。
よくよく思い出すと早帰が――つばめが教室で笑ったところなんて初めてみた気がする。
帰るときは極まれにニヤついてるけど……。
「ちょ、ちょっとラグビー部の奴らに手間取ってたんだよ」
「ふーん」
間抜けだと思って見下してるのか、含みのありそうな表情でつばめが見てきた。
一つ、一つ、ゼリー飲料のパックの残骸を袋に入れ始めていく。
全てのごみを袋にしまって取っ手を縛ったつばめは、何かしら言いたげに俺を見つめてくる。威厳深めに間を溜めると小さな口を開いた。
「…………巽のこと、帰タラーだって認めてあげる」
「おい――待てよ。まさかとは思うけど、今まで俺を帰タラーだって認めてなかったのか?」
今更そんなことかよ……聞き返すと、つばめは当然と言いたげに頷きやがった。
「心外だな。俺こそが生粋の帰タラーだってのに」
「目的もなく早く帰ろうとしてるだけの巽が、生粋?」
「悪いかよ。そう言うつばめこそ、早く帰る理由なんてあるのか?」
確か前につばめに聞こうとしたときは、上手くかわされて聞けなかったからな。こんなたいそうなことを言ってくるんだ。よっぽどの理由で――まさかとは思うけど、今後ろの席で寝てるロリコンみたいな歪んだものじゃ……。
「私は……早く帰るのが楽しいから」
「またわかりにくい理由だな。理由になってるようでなってないっての」
やっぱりそうだったか。昨日の帰りに感じた表情は間違いじゃなかったらしい。
でもよかった。もしこいつまで幼稚園に通っているとか言いだしたら困った。果てしなく困っていた。それと家庭の複雑な事情……のようなものだったら絶対気まずい雰囲気になってたな。だけどそうなると、特に理由がない俺も同じ。帰ること自体が楽しいってことなんだろうか……。
「巽」
消え入りそうな声で呟いたつばめ。でも俺にはしっかりとその声は聞こえていた。
「……なんだ?」
「これからは私と一緒に帰る?」
めずらしくも少し遠慮しているのか、椅子の上でもじもじしながらも嬉しい誘いをしてきた。
別に俺は断る道理はない。たまには帰タラー同士で帰るのをお互いにも切磋琢磨で来て俺にもプラスになるしな。
「あぁ別に――」
「今日は違う道からの帰り方、教えてあげるから」
俺の言葉を遮って更に好条件を出してくる。
燕が俺のことを認めてくれたというのは本当のことらしい。
まさに至れり尽くせりの待遇。これが仲間ってものなんだろうか。
俺だったら、自分が築いてきたものを簡単に誰かに教えるのは絶対に嫌だ。なのに、つばめはそれを自ら教えようとするなんて、並大抵の覚悟。いや、相手に信頼を置いていないと出来ないもんだよな。仲間じゃなくて、これが友達っていうものなのか……?
どこからか、熱いものが体の奥底からこみ上げてくるような気がした。
燕はそんな俺を一瞥し、再度口を開く。
「でもその代わり、私以外のクラスメイトとは関わらないって約束して?」
「――えっ? 今なんて……」
確かに聞こえていたのに、無意識に聞き返してしまっている俺がいた。
何故だろう……。燕がどうしてそんなことを要求してくるか、俺がそれを聞いて、今どうしたらいいの解らなくなっていることも理解できない。
俺は普段からクラスの連中の接触は断っているんだ。必要なことしか喋っていないつもり。相手からしつこく話しかけられて付き合うことは無きにしも非ずだが、それは俺が望んでしていることではない。
「だからこれからは私と一緒に――」
「ちょっと考えさせてくれ」
俺はつばめの言葉を反射的に遮っていた。
今までしつこく話しかけられていたのを、完璧にシャットアウトしてやればいいだけの話。全部相手にせずに無視してやればいいだけのこと。
不完全だったものが完全なものへと変わる。
帰タラーとしての転機。更なる躍進をする一歩と言ってもいい。
「わかった。……今日の帰りに裏門で待ってる」
テーブルに置いたゴミ袋を持ってつばめは立ち上がる。
ただでさえクラスの連中によく思われていない俺だ。断る道理もないはず………。
いつもだったら二つ返事で承諾していたはずなのに、どうしてか今の俺にはすぐに答えが出せなかった。
「それじゃあ、また帰りに」
そう告げたつばめは一人、自分の席へと帰って行った。
「きりーつ、礼っ!」
『さようならー』
帰りのSTが終わった。教室内がガヤガヤと喧騒に包まれている。
今日が金曜日だからか、クラスの連中は土日の予定などを話し合っていて楽しそうだ。いつもは見ていても、「俺の邪魔をしてくるなよ?」ってくらいにしか思わないんだけど、どうしてか今はもやもやとした気分になっている……。
「みんな一週間おつかれさまー。帰り道は気をつけて帰ってね」
和気先生の締めの一言を聞いて俺は歩みを進めた。
席を離れる際に振りかえると、さっきまで自分の席に居たはずのつばめの姿はない。
「おーい足早ーっ。もう帰るのかー?」
いつものように後ろの席から声が掛かる。
立ち上がって鞄を肩に掛けた韋駄がいた。めずらしくも今日はすでにに帰り支度を終えているらしい。
「あぁ、まぁな……。今日は約束があるから」
普段ならば「授業が終わったから帰る」とでも冷たげに言い放ってやるはずなのに、自然とその言葉は出てこなかった。
「そうかー。それじゃまた今度だなー。んじゃーなー」
韋駄の返事は意外にもあっさりとしたもので、俺の方に軽く手をあげると違う奴の席へと行ってしまった。
俺は再び教室の扉へと向かう。
目の前には誰も邪魔になるような奴らはおらず、すんなりと最前線まで行けた。
警戒して一番前の席の眼鏡へと視線を向けるも、奇跡でも起こったのか何も床には落ちない。
メガネを見ると、おしゃれにでも目覚めたのか? 前のインテリそうな銀縁メガネではなく、青く縁取られた眼鏡をつけていた。眼鏡を変えたお蔭か机の物をしまうのがテキパキと早くなった気がする。……眼鏡でそんな変わるもんなの?
疑問をぶつけてみようかと愚行を考える俺を押し殺して、そのまま右手へと曲がって足を動かす。教卓の前を抜けようとすると、和気先生が声を掛けてきた。
「あっ、足早くん。気を付けて帰ってね」
「はい、和気先生も。さようなら……」
和気先生は相変わらずのきりっとした顔で言うが、物腰は柔らかい。
俺も挨拶を返して教卓から離れる。
「――ちょっと待って! ど、どうしたの? 足早くん」
背後から急に声をはられて引き留められる。
ふいなことに、思わず背筋をびっくと跳ね上がらせ振り返ると、和気先生があたふたしながらも真剣なまなざしを俺に向けていた。
「へ? どうって、何がですか?」
「えっと……私の気のせいかもしれないけど、すっごく悩んでるように見えたから……」
少し遠慮気味に困ったような顔をした和気先生がそう告げる。
俺が悩んでる? いつの間にそんな表情が出て――あれ? こんなようなこと前にも聞かれたような気が……さすがは先生といったところか。和気先生はもしかしたら本当に鋭いのかもしれない。
「いやいや、そんなことないですよー」
「そうかな? ならいいんだけど……うん」
和気先生はそう答えるも、言葉とは裏腹にあからさまに納得のいってない思案顔をしていた。普段から俺の帰宅をサポートしてくれている和気先生に、これ以上心配はかけられない。
俺は心出来る限り自然に口元を緩める。……けど、余計に疑われた?
和気先生がきりっとした顔つきに戻って口を開く。
「――そういえば足早くん。亜矢ちゃんのこと頼むね」
「亜矢ちゃ……あぁ。轍先輩のこと」
誰のことを言ってるのか解らなかったが、前の保健室での出来事が浮かんできて思い出した。
「頼むって何をですか?」
そう質問すると、和気先生は「あれ?」と、不思議そうに首を傾げた。
「足早くんと亜矢ちゃん仲が良いんでしょ? 足早くんとたまに話してるのを見るようになってからは、最近あの子学校に遅刻してないの」
「そうですかね? 確かに最近遅刻はしてないみたいですけど……それは気のせいですよ」
俺と轍先輩の仲がいい? あの若干強引な絡まれ方は不良特有のもので、一種のコミュニケーションだとは思ってすらいなかったけど、そういうものだったのか?
俺は窓際の一番後ろの席。轍先輩の方へと目を向ける。
そこには、ぼーっと肘をついている赤髪の不良ががいた。
窓から外を眺めているように見えるが……あれは確実に寝てる。
これが寝るときのスタイルだとでもいいたげに、髪を綺麗に纏めていやがる。
「いつまで寝てるんですかね、あの人。六時限目始まる前からずっと寝てたようなきがするんですけど……」
「えっ?」
言わない方が正解だった? 和気先生はさっきまで優しそうに微笑んでいたのに、わずかばかりか口端が吊り上ってピクピクしだした。自分の授業を始まってることすら気づかずに寝られてたら、さすがに和気先生でも怒るのか……。
「起こしてくるね」
そう言って教卓から離れて、轍先輩のもとへと行く和気先生。
俺は真っ直ぐ不届き者の方へ向かう和気先生の背中を見送り、逃げるようにして教室から出た。
四階から三階、二階、一階へと順に階段を駆け降りていく。
今日も二年四組が早めに終わったからか、他のクラスはまだ帰りのSTをやっているようで廊下に出ている生徒は未だ見ていない。
そのおかげか教室を出てからは誰にも話し掛けらることはなかった。
階段を降り切って一階へとついた俺は、そのまま真っ直ぐ下駄箱へと向かう。
「……どうしたんだろうな」
俺はさっきの教室でのことを考えていると、独り口走っていた。
今日の韋駄は少しおかしかった。いつものあいつなら、一緒に帰るのを拒否したらしつこく理由を追及してくるはずだろ? それなのに今日は約束があるって言ったくらいですんなり身をひくなんてな。それにまた今度って次があるような言い方をして……。
「どうした? そんな不安そうな顔して。また教頭でも叩き落してきたのか?」
俺が自分の下靴をロッカーから引っ張り出して履き替えていると、あいかわらずの憎たらしい声が俺の耳に入った。もう言われなくても俺に話しかけてることがわかる。
「そんなわけねーだろ! ふざけやがって……」
声の聞こえた昇降口の方へと言い返してやると、太陽の光を背に立ちはだかる天ノ上がいた。
「あれー? 思いのほか元気じゃん。――あぁそういえば、ちょっと前に早帰が通って出て行ったけど、今日は一緒に帰らないんだな」
「お前には関係ない」
俺がそう言い返してやると、天ノ上はこっちへと向かってくる。
逆光で顔はよく見えなかったが、口の端をつり上げて仰ぎ見るように睨み付ける天ノ上の表情は、今までには見せたなかでも最も悪そうな面構えだった。
つばめ、これがホントの睨み付けるってやつだぞ……。
「関係ないねぇ……。早帰にも同じようなこと言われたな」
同じこと? 俺に言ったことをあいつにも聞いたのか?
「そうか。さすがつばめだな。よくわかってる」
「――つばめ、か。二人して知らない間にただならぬ関係になったようで」
そう言って天ノ上はニタァと嫌な笑みを見せ、わざとらしくパチパチと手を叩く。
「お前の考えてるような不埒な関係じゃないわ! ただ同じ志を持ってるってくらいだっての」
なんなんだよこいつは。前の帰りにつばめからあっさり無視されて以来、ほとんどかまってこなくなったと思ったらこれかよ。お前の秘密は誰にもばらしてないぞ? 邪悪すぎるせいか、轍先輩の前で勝手に漏れ出しそうになったけど……あれは俺のせいじゃない。天ノ上から滲み出る汚らしい心の穢れが俺を後押ししてきたからだね。
「足早さ。前に早帰とは関わらない方がいいって言ったの覚えてるか?」
「は? 前っていつだよ」
いつの話か、そんなような忠告を誰かにされたような……。
「あぁ……あれか」
そうだ。つばめと初めて教室で話した後にされた――やっぱりお前だったのな。
俺が思い出したのを確認し、天ノ上は話を続ける。
「注意力散漫なお前でも覚えてたみたいだな。……でもどうしてそんなこと言ったかわかるか?」
「お前がつばめのこと嫌い。とかなんだろ、どうせ。前に話してたときのお前ら、そうとう仲悪そうだったしな」
「こっちはそんな気はさらさらねぇけど、向こうはそう思ってるかもな」
投げやりなその態度、お前はホントになんとも思ってなさそうだな。短い間のことだったから一概には言えないけど、つばめは確かに天ノ上のことを嫌悪していたような……。
どうせなんか怒らせるようなことしたんだろ。例えば――。
「俺にしてるようなこと、あいつにもしてたんじゃないのか? どうせそれで堪忍袋の緒でも切れたんだろ? まぁ俺は耐えてるけどな」
「…………なんだ。気づいてたの」
天ノ上は俯きぼそっと呟いた。
何を言ったのか聞き取れなかったが、触れちゃいけないようなものに触れた気がした。
天ノ上が吹っ切れたようにして顔をあげた。
さっきまでと違って眉間にしわもよってなく目も鋭くさせてない、余所行きの可愛らしい童顔だった。
「ならわかるでしょ? 足早くん」
「……何がだよ?」
急に口調を戻してきたからか警戒をする。誰か俺以外に人が来たのかと周りを見渡しても……特に誰もいない。どうしたんだ? いきなり。
「つばめの普段の学校生活見てたらさ」
「――――っ!?」
ふいのその言葉に少し戸惑ってしまった。あいつの学校生活……。
俺がつばめのことを知ったのは韋駄に言われてからだ。
いくら関わりのないクラスメイトだったって言っても顔すらも知らなかった。
それにつばめが俺以外の奴と普段一緒に居るところなんて見たことが……。
「このままじゃ、同じようになっちゃうよ?」
その天ノ上の言葉が、つばめの誘いの結果を先読みしているようにしか思えなかった。
――それは完全に一人になるということ。
むしろ俺はその一人になること自体を望んでいるはず。
なのに、心にぽっかりと穴が開いたような、物足りないように感じる自分がいた。
わからない。自分自身が。早く帰りたいだけの筈なのに……。
「足早くんにだけ強情な態度とるのだって、私を避けるのを機にもっとみんなと話す機会が増えて仲良くなれればって――でもなんで? 周りに集まってくる人がいるのに、どうしてっ!?」
急にどうしたものか、とにかく天ノ上は必至だった。
こっちの素顔でこんなに感情的になったのは初めて見る。
冷静さを失っているのか、天ノ上の言っていることは支離滅裂で理解できない。まるで俺のために今まで動いていたような、クラスの連中との間を取り持っているかのような。そんなように聞こえるけど……そんなことが、そんなことがあるはずがない。
俺はそれを否定するため強く言い放ってやる。
「寄ってくる連中だって俺の邪魔したいだけだろ? どうせ」
「邪魔って、それはなんの邪魔? 聞いてみたの? どうして邪魔するのか」
「それは――」
帰タラーの俺に対しての妨害行為。そのものでしかない。
でもそれが万が一、天ノ上の言うような俺に対しての好意的なものだとしたら、それは邪魔とは言えない。悪意のこもったものじゃなく、ただ自然にクラスメイトとして――。
「そ、そんなことわざわざ聞かなくたってわかるんだよ!」
自分に言い聞かせるように言葉を返した。
そこまで寛容な精神があるものか。あってたまるか。
今までずっと邪険にしてきたのに、奴らが俺を受け入れてるはずがない。向こうだってそうだ。そうじゃなければ、よっぽどの馬鹿なのか、ただのお人好しなのか……。
「そうかな? 私にはどう見てもそんな意図的なものには見えないけど。――むしろ足早くんの自身が邪魔をしてる」
納得がいって無いようで、天ノ上は簡単には認めようとはしない。
「俺自身が邪魔?」
「足早くんの中で何かが邪魔をして、周りと壁を作ってるようにしか見えない」
帰タラーとしての信念を否定された。けど、他人にそう言われて初めて自分の中のわだかまり、俺がどうして早帰の誘いを迷っているのかを理解できた気がする……。
俺は早く帰ることに執着している。
その為に時間を食うようなクラスでのなれ合いは極力避けてきた。
でも俺の気持ちとは対照的に、悪意を感じるほどにクラスの連中は俺に絡んでくる。
出来るだけ我慢をして、当たり障りのないように避けて過ごしてきたけど、それには限界もあってか多少のなれ合いも必要になってきた。――そう、轍先輩と韋駄だ。
あの二人は俺のように行動はしていなかった。
なのに、俺よりも早く帰ることが出来ていた。
それに気づいてしまったせいで、俺は自分の帰宅に対しての考えに疑問を持ち始めていたんだと思う。――だけど、そこにあいつが、つばめが現われた。
つばめは俺よりも帰宅することを徹底していた。これ以上ないくらいに。
学校生活では誰とも話さない、格好でも帰るときでも一人。それゆえに自分自身を持って行動が出来ていた。普段の生活から帰宅までも。それはまさに、俺の目指していた理想の形態。
それを思うと、いかに自分が中途半端だったかがわかる。紛い物と言われても来んくな言えないな……。でも、もし真っ先につばめと出会っていたら、俺はこうも悩むことはなかったはずだろう。
だけど、こうして二つの異なる面を知ってしまったから俺は……。
「そ、そんなもの――」
なんだか頭の中がスッキリしたときには、すでに俺は声を出していた。
「余計なおせっかいなんだよ! 俺はそんなことしてくれなんて頼んでなんかないっ!」
よくやく答えが出た。
しっかりと天ノ上を見据えて、そう言い放ってやった。
天ノ上は大きなため息をつき、額に手を当て天を仰ぎ見る。
「はぁーっ。また同じこと言われちゃった……やっちゃったな」
そう自虐的に呟いた天ノ上だけど、口元は不思議と微笑んでいるように見えないこともない。
「は? どうしたんだ? 何をやっちゃったんだよ?」
「んだよ、足早。俺がどうしてお前のためにそこまでしてやらないといけないんだっつの」
そう問いに答えた天ノ上は、いつもの俺に接してくる憎たらしいアマだった。
俺の顔つきを見た天ノ上は、へっへっへと笑う。
「からかってやっただけだってのによぉー。勘違いも甚だしいな。ほんとにね……」
「――お、お前っ!」
もう少し距離が近ければ前みたいに一発腹に入れている勢いだ。
どこまでもふざけやがって、俺は本気で悩んでるのに、そこにまで付け入ろうとして来るとは、とことん汚いアマだなっ! 危うく本当はいい奴なんじゃないかって騙されるところだったわっ!
「ぼっちめ。一生一人でいろよ」
天ノ上は俺の方へと寄ってきて、パンッと肩を叩いてくる。
「――あぁ違うか。つばめがいるから二人だな。二人で仲良く巣に帰る練習でもしてな」
そう言って俺の横を通り過ぎると、廊下へと歩いて行き階段の方へと戻っていった。
「そんなことしねぇよ……」
腹の底から絞り出した返事は、誰にも届かずに残ってしまっていた。
俺は履き替えたスリッパを下駄箱のロッカーに放り込む。
昇降口から出ると、俺は足早に駐輪場へと向かった。
この日俺は、いつも通りに正門から旧道へと向かい、一人いつもの帰路へとついた。