表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

英雄夢騙り

作者: 機乃 遙

本作は2016年5月1日に刊行した同人誌『黒い火星』に収録されたデヴィッド・ボウイトリビュート作品です。


 僕にはかつて、愛する女性がいた。今も彼女は僕が愛する唯一の女性だが、もはや彼女との愛は切り裂かれてしまった。それもこれも、あの忌まわしき壁のせいだ。壁が出来てしまってから、僕と彼女の間には、壁と言うよりも巨大な亀裂が生じてしまい、もはやそれを飛び越えて彼女の側に向かうことすら出来なくなってしまったのだ。

 もしも人間に対して線引きをするのなら、壁というのは実に有効な手段だと僕は思う。現に体験している人間が言うのだから、間違いない。

 人間は時間に拘束された生物だけれど、しかし空間は自由に行き来することが出来る。だから僕らは、他人と自分との距離を推し量りながら、自分と他者との最良の距離を構築する。友達の距離、恋人の距離、知人の距離、他人の距離、イヤなヤツの距離……。その距離を使って、お互いにお互いのことをわかりあうのだ。そして徐々に距離を縮めたり、離れたりして、お互いのことを表現しあう。人間はそういう行動をとるようにプログラムされている。

 だからそこに大きな壁が出来てしまったら、お互いの距離というものが完全に無《﹅》となってしまう。距離にゼロというものはあるが、無は存在しない。ゼロとはゼロであって、無ではないのだ。

 僕と彼女との距離は、そのような壁によって無へと帰されたのである。それは僕の意志でも、彼女の意志でもなく、第三者による実に横暴なものだった。

 かつて僕と彼女とが住んでいた街は、おなじ一つの名前を持つ街だった。しかし、突然そこに二人の男が現れて、『ここから先は俺のもの。向こう側はお前のもの』とお互いに線引きをし始めたのだ。

 それが壁の始まりだった。

 はじめは壁なんて無かったのだけれど、そのうち線引きの向こうを行き来したがる人が現れた。元々は同じ一つの街だったのだから、行き来したくなっても当然だ。僕が彼女の家に遊びに行ったように。

 しかしそのうち、僕らの街を統治していた側が向こう側への通行を完全に禁止した。元々街を分断した連中は敵同士だったから、そうやってせき止めた血流が混じり合うのがイヤだったのだろう。

 むろん、街の向こうとこっちでは、目に見えて何かが違うというわけではない。同じ人種で、今まで同じように暮らしてきた仲だ。外見上にはなんら変わりはない。

 たとえば肌の色が違ったとしたなら、目の色が違ったのなら、髪の毛の色が違ったのならわかりやすかったかもしれない。色毎に街を分けて、壁を作ったりしたら。なぜなら違う色の血がこちらに混じってくるのは避けたいから。汚い混色は作りたくないから……なんて理由を作ることができる。

 しかし、壁が作られたのはそういう理由に近かった。向こうとこっちでは、街の住民に押しつけられたイデオロギーというやつが一八〇度も違う。全く正反対の思想を植え付けられて、街を壁と思想とで分断しようとしたわけだ。

 そしてもう壁が出来てから二十六年近く経っていた。

 いまだ壁を越えて向こう側に行きたがる人は、あとを絶えない。この僕が向こうに行って、彼女に会いたいように。街に住む誰もが、向こう側に未練を持ったまま生きている。未練を持ったまま、押しつけられた都市構造にひれ伏して生活しているのだ。


 ある朝のことだった。

 僕は母と住んでいる小さなアパートを出て、いつも通り仕事に出かけるところだった。仕事と言っても大したことではなくて、新聞社の郵便係だ。届けられた大量の郵便物を仕分けて、会社内の担当部署の人に届けるだけ。そういう仕事だ。

 しかし郵便物というのも、ここ十数年で大きく変わってしまった。街の中での郵便物ならまだしも、国際郵便――つまり壁の向こうからくる郵便物――に関しては、必ず軍の検閲が入ることになった。もしもそこで不具合が見つけられると、その場で即刻燃やされてしまう。没収どころの騒ぎではない。愛しい人からの手紙は永遠に戻ってくることはないのだ。

 僕も彼女との文通を続けているが、彼女からの手紙が届かないこともしばしばである。もし彼女、または僕が、街での生活や思想について少しでも触れようものなら、検閲にかかって焼き捨てられる。だから僕らは、いつも空想に耽った詩ばかりを送り合うことにした。オーウェルやバージェス、バロウズなんかを引用して。それで現実からは乖離したような手紙を書き続けたのだ。そうすると脳足りんの検閲官は目を白黒させて、「まあいいだろう」と受け流すからである。

 新聞社に届く手紙は、往々にしてつまらないものばかりだった。街で起きる不祥事は、だいたい軍によってもみ消される。マスコミなんてものはお飾りで、この新聞社も所詮は軍のプロパガンダを垂れ流す、体の良いスポークスマンだ。

 昔は新聞社も街の中に三つか四つぐらいはあった。どこも毎日おもしろい記事を書いて住民の感情をかき立てるもので、○○新聞社派がいたり、××出版派、△△報道派などとさまざまな会社のファンがいた。だから勤めの商人に新聞の話をさせると、だいたい何の話題に強いかでどの会社の新聞を購読しているのかわかった。しかし、それももう昔の話だ。

 いまは、もうみんな決まりきったステロータイプな話しかしない。そういう情報しか入ってこないから、話そうにも話しようがないのだ。また、少しでも『向こう側』の話でも持ちだそうものなら、そこかしこにいるお巡りが飛んできて、棍棒ブラックジャックでめった打ちにしにくる。

 そういうわけで、もう誰もが平凡な話しか持ち出さないようになってしまった。思えばここ最近、僕も気の利いたジョークを聞いた覚えがない。

 その日も郵便受けには大量の手紙が待っていた。その七割ぐらいは行政府か軍からの手紙で、だいたい「これこれこういう記事を書け。何日の記事みたいなのはやめろ」みたいな文書ばかりだ。残りの三割は、特派員の記者から送付された写真だとか、これが原稿だとかになる。

 僕はその大量の手紙を仕分けして、各所に送り届ける準備をした。

 そうだ、僕はしょせん雑用係だ。


 一日の雑用を終えると、僕はスーパーマーケットで今日の夕飯の食材を買って家に帰った。食材といっても大したものではなくて、牛乳と卵とベーコン、それからジャガイモだ。だいたい夕飯といえば、蒸かした芋にベーコンが一切れ、卵が少しといったようになる。

 その日もまた、そういう質素な食事になる予定だった。

 だが、そうはならなかったのだ。

 僕と母が暮らすアパートは、旧市街地の奥まった場所にある。僕はいつもここから会社まで自転車で通っている。帰りは登りでつらいが、行きは下りなのでこいでいく必要もないぐらいだ。

 帰り道、自転車を押してやっと家につくと、僕は合い鍵を手に玄関へ急いだ。しかし、ドアの前につくと、何故か鍵が開いていることに気づいたのだ。

 母はいつも用心深く鍵を閉める。それは、もう母が足腰の立たない老婆になってしまったからという理由もあるが、それ以上に父のことが原因にある。

 父は、かつて壁が出来始めたころの暴動に巻き込まれ、命を落とした。その当時、父は単身『向こう側』へ仕事に出かけていたのだけれど、その日とつぜん国境が閉鎖されると聞いて一気に人が集まったのだ。そうして国境付近で暴動が起きて、その混乱に乗じて強盗に巻き込まれた。身ぐるみ剥がされた父は、そのまま押し合いへし合い潰されて、死んだ。

 以来、母はどんな相手だろうと外にいる人間は信じられなくなった。母が信用している人間は、それこそもう僕しかいない。だから母が扉の鍵を開けていたのは、実に奇妙なことだったのだ。

 僕は胸騒ぎがした。イヤなことが起きているのでは、と直感が告げていた。

 そして、そのイヤな直感は、不運にも的中していたのである。

 キッチンのすぐそば、安楽椅子に腰掛ける母。彼女の胸元からは、赤い液体がこぼれ落ちていた。すうすうと息を立てる音も聞こえず、曲がった腰は力なく椅子の中に落ちていた。部屋は散乱し、あらゆるものがなくなっていた。母は、不運にも父と同じ最期を遂げたのである。


 警察は通報から十五分ほどしてやってきた。行政府の悪口を言えば、そこかしこに耳でもついているのかとでも言わんばかりに飛んでくるくせに、通報してやるとまったく遅い。結局、母が殺されたと言っても、やる気のないお巡りが数人やってきただけだった。

 救急車は三十分してやってきた。その五分後には警察の応援がやってきて、捜査が始まった。しかし捜査と言っても、彼らは一口に「これは強盗ですね」と勝手に決めつけただけで、それ以降犯人に関しては、まったくの黙りを決め込んだ。彼らの給料は固定だ。殺人が起きたからと言って、殺人犯を捕まえたからといって、何か良いことがあるわけでもない。むしろ殺人犯と対峙するリスクを負うだけだ。

 彼らの言い分は十分にわかったが、それでも遺族としての気持ちは堪えきれないものがあった。

 二時間かけて現場検証が終わると、母の遺体は検死解剖をすると言って運ばれていった。刑事たちもそれに合わせ、現場からそそくさと帰って行った。結局、血に濡れたアパートには僕だけが残された。

 これからどうすればいいのだろう、と僕はそのときぼんやりと考えた。

 生活の最後の支えだった母もいなくなってしまった。彼女は壁の向こう側であるし、父ももうこの世にはいない。僕には、もう生きている意味がないのでは、とさえ思えるようになった。

 空虚な気持ちを満たそうと、僕はキッチンの下で長いこと眠らせていたウィスキーを手に取った。アルコールを飲むのは久しぶりで、いつか彼女と再会したときに祝杯をあげようと思っていたのだが、もはやそれは叶わないように思われた。

 だから僕はびんを開けると、グラスに注ぐことなく、そのまま煽った。どんなに喉が焼け付きそうでも、母の受けた痛みよりはマシだろうと、そう思った。

 そうして壜に入っていたうちの四分の一ほどを飲み干したところで、ブザーの音が聞こえてきた。はじめは市内放送のブザー音だと思い、聞き流していたが、ずいぶんとしつこく鳴っているので、どうにも放送ではないと気づいた。家のドアベルが鳴らされているのだ。

 僕は酔いどれの千鳥足のまま、玄関に出た。もしここで強盗がまた現れたら、僕はきっと「僕も母と同じように殺してくれ」と哀願したに違いない。

 ――むしろそうなれば良かったのに。

 玄関の前に立っていたのは、一人の女だった。それも喪服のようなワンピースに上着を着た、黒髪の女。

 女は切れ長の美しい目をして、その碧眼で僕を見つめていた。三〇代ぐらいの彼女は、ちょうど僕と同い年か、年下のように見える。

「失礼、ダーフィット・ヨネス[David Jones]さんでしょうか?」

 彼女は、流ちょうだが少し癖のある言葉で言った。

「ええ、そうですけど……」

「私はジル・シュナイダー。あなたに頼みごとがあってきました」


 酔っていたのだろう。僕は彼女しか心を許した女性がいないというのに、ジル・シュナイダーを家にあげてしまった。母が死んだばかりの、僕らの家に。

 彼女は僕に話があると言って聞かなかった。だから僕はとりあえずダイニングテーブルに座らせて、コーヒーを淹れることにした。

 まずい大量生産品のコーヒーを淹れると、僕は彼女に対するように座って話を聞くことにした。

「単刀直入に申し上げます。私に、あなたのお母様の身分を貸しては頂けないでしょうか」

「身分ですって?」

「はい。あなたのお母様、マグダレーネ・ヨネスさんの身分証明書を貸して頂きたいのです」

「ちょっと待ってください。あなた、何を言ってるんですか? 僕は母を失ったばかりですよ。それが急に……母の身分証明書を貸して欲しいですって?」

「はい」

「はい、って……いったい何の為にですか?」

「壁の向こう側へ渡るためです。あなたもご存じでしょう、ダーフィットさん。満六十五歳以上ならば、行政府に申請することで無条件に『向こう側』に行くことが出来る。こちら側の行政は逼迫ひっぱくしていますからね。税金を納めず、ただ年金を喰らうだけの老人は必要ない。いわゆる棄民ということです。……ですが、いまの私にはその身分が必要だ」

 向こう側。

 僕の頭の中に、母がぼつぼつと口にしていたことがリフレインした。

 ジルの言うことは正しかった。この街では、満六十五歳以上になると、壁の向こう側へ行くことが出来る。つまり、街から捨てられるのだ。しかしそれは、こちら側の民衆にとっては好都合だった。理由は簡単で、秘密警察と検閲とが目をギラつかせるこちら側よりは、向こう側に逃げ出した方が楽に決まっているからだ。

 しかし、六十五歳の老人になるまで、それは認められない。

 母は、六十五になるのを夢見ていた。そうすれば、死んだ父の墓参りが出来ると、そう夢見ていた。

 父はこちら側にたどり着くことが出来ず、壁の向こう側で死亡した。そして、死後も壁の向こう側に埋葬された。名の知れない者が眠る共同墓地へ。母がこの二十六年間、行政府に怒りの炎を燃やし続けていたのは、そういう理由もある。向こう側で死んだ人間を、こちらの墓には埋葬できない。そう言われたのだ。

 ――せめて死後ぐらいは、一緒になりたかった。

 いつしかそれは母の口癖となり、ことあるごとに母は父を思うようになっていた。

「……つまりあなたは、身分を詐称して『向こう側』に行く、と。そう言ってるんですか?」

 僕はジルに聞いた。

「そのつもりです。変装の用意は整えてありますし、証明書の顔写真などは、最悪貼り替えれば問題ありません」

「そんなことが出来るんですか? あなたはどうみたって六十五歳には……」

「実を言うと私の仕事は、そうやって人を欺くことなのです。今までにも何度も老婆や青年のフリをしてきたことがあります。あなたはただ黙って協力してくれればいい。そうすれば、私もあなたに協力しましょう」

「僕に協力ですって?」

「ええ。向こう側の恋人に会いたいんでしょう。二十六年も文通だけでは心配だ。もしお母様の身分を渡してくださるのなら、あなたを向こう側に逃がすことを約束しましょう」

 言って、ジルはコーヒーを飲んだ。

 彼女の静かな口振りには、自信と虚構とが入り乱れているようだった。

 だが、僕が彼女の言うことを信じるにせよ、信じないにせよ、興味をそそられたことは言うまでもない。

 いまの僕には失うものが無かった。むしろ、失ってはならない彼女との関係がいま千切れようとしていて、そしてそれを繋ぐ手だてが目の前にあったのだ。ならば、使わない手だてはないだろう。

 突飛でもない相談が来たが、しかし僕には、それに応じるしか無かった。なぜならジルは恐ろしい女性だったから。彼女の穏やかな微笑の中に、僕は凍えるような寒さを覚えた。彼女の手に銃が握られていて、それが机の下から僕を狙っていること。僕は、それに気づいたからだ。

 ジルは笑った。

「もっとも、あなたに選択権はありませんがね」


 ジル・シュナイダーの立案により、僕らは五日後の日曜日、壁を越えて向こう側に行くことになった。

 彼女の計画は、突然現れたように思えて、実はとても綿密だった。

 現在こちら側の行政府は、壁を渡ろうとする者の規制に追われて、死傷者の処理などやっていられたものではない。街庁舎は常にパンク状態だ。しかも不審死の老婆となれば、逐一その事件性について確認し、書類を全部そろえなければ、確実な死亡申請を行うことは出来ない。ゆえに今、僕の母であるマグダレーネ・ヨネスは、生きているのに生きていないという、奇妙な状態に陥るのである。

 母は用意周到な性分であったから、六十五歳以上の渡航申請はすでに済ませてあった。あとは病状が穏やかになるのを待って、密かに壁の向こうへと渡るのを待つだけだったのだろう。それも、泡沫の夢となってしまったのだけれど。

 身分を証明する書類はそこで揃った。あとは、変装である。

 しかし、それはもはや僕が危惧することでも無かった。ジルの変装は、まさしく完璧であったからだ。

 彼女の計画では、『マグダレーネ・ヨネスは、ボケた病人とする』とのことだった。右手には松葉杖をついて、左手には絆創膏をいくつも巻き付けて、顔にもマスクを付け、さらには眼帯まで。メイクで皺や染みを肌に描くと、さらに白髪のカツラを被って、その上からつばの広い帽子を乗せた。衣服は黒いゆったりとしたドレスで、腰を曲げて見ると、まさしく老婆という印象を受けた。

 僕は彼女の変装に正直、驚きを隠せなかった。そこにいたのは僕の母では無かったけれど、少なくとも同年代の女性では無かったからだ。

 口にマウスピースを入れ、さらに喉を枯らしたような声色にする。すると彼女は口振りさえも、歯をなくした怒りっぽい老婆のようになって、どこからどうみても若い女ではなくなってしまった。まったく彼女の変装は完璧だったのだ。

 あまりにすごい変装だったので、僕は「どこでそんな技術を覚えたんだい?」と問うた。

 だが彼女は、

「それは知らない方がいい」

 と、冷めた口調で返すだけだった。

 僕は他にも「どうして彼女は向こう側にいきたいのだろう」などとも思ったが、おそらくそれを聞いても同じ答えが返って来たに違いない。

 壁を突破する日にちを五日後の日曜としたのにも、彼女なりの理由があった。というのも、その日、世界的なロックスターのライブが向こう側であるからだそうだ。

 その最中ともなれば、壁のこっちも向こうも大騒ぎとなるに違いない。ジルは、その騒ぎが起きる少し前に壁の検問に入って脱出。混乱に乗じて身を隠すという寸法だった。

 僕は、「僕はどうやって脱出するんだ?」と問うたが、

 彼女は、

「私の付き添い人にします。計画はありますから、その状況に応じて命令しますので、従ってください」

 と言うだけだった。

 とりあえずわかったのは、僕に出来るのは老婆を手伝うフリをすることだけ、ということ。

 しかし僕は、このときになってようやく計画に恐れを抱き始めた。壁の向こう側に行きたいのは山々だが、失敗すれば銃殺は免れない。

 彼女は、「私に任せれば問題ありません」と言ったけども、僕にはそれだけでは不十分なぐらいの心配があった。

 そして、どうすることも出来ないまま、Xデーが来たのである。


 僕に出来たことと言えば、彼女に手紙を送ることだけだった。ボードレールの詩を引用した文面は、相変わらず検閲官にはさっぱりのようで、問題なく壁を渡って向こうへと届けられた。その文面の真意とは、つまり僕は壁を破って君に会いに行こう、という意味だったのだが、しかしそれに彼女が気づくかどうかもわからない。

 僕はそんな不安と、また壁を抜けられるかもわからない不安とに苛まれるがまま、Xデーを迎えた。

 朝から街は喧噪の中にあった。日曜だから、ではない。例のロックスターが壁のすぐ向こう側でライブをするからだ。まだライブが始まるまで二時間以上もあるというのに、壁の周囲には人だかりが出来て、よく見れば秘密警察らしき人影もちらほらと見えた。

 僕はそんな喧噪の中を、老婆のフリをしたジルと共に歩いた。彼女に肩を貸して、ゆっくりと壁の検問へ。

 ジルは誰の目から見てもわかるように、息のあがったフリをしていた。

 検問までたどり着くと、軍人がイヤそうな顔をして立っていた。

「壁の向こうに行きたいんだ」

 ジルは、ふごふごと息をもらしながら言った。どこからどう聞いても、完全に老婆の声だった。

「書類は?」

「これでいいんですよね?」

 と、僕はジルに肩を貸したまま、ズボンのポケットから例の書類を取り出した。六十五歳以上の渡航申請書である。それと、マグダレーネ・ヨネス名義の身分証明書も。

 軍人は舐めるような目つきでそれを見てから、渋々と「行ってよし」と言った。

 しかし、ジルに肩を貸したまま僕も進もうとすると、彼の顔色は一気に赤く染まった。

「おい、お前は別だ!」

 と、語気を荒げ、軍人は叫んだ。

 僕はぎょっとしたが、しかしジルは冷静だった。

「なんだい、軍人さん。あたしゃ息子の助けなしじゃ歩けないんだい。それともなにかい? あんたたちは、私みたいな年金で食っていくような、今にも死んじまいそうな老人を、いつまでもこの窮屈な街に押し込めておくかい? ええ? なんとか言ってみたらどうなんだい?」

「肩を貸すぐらいなら、私の部下にやらせる。その男の同伴は認められない」

「軍人に肩を貸してもらうって? あたしゃね、あんたら軍人のせいで旦那を亡くしてるんだ。あんたらのことなんか信じられないだよ!」

「なんだと! ここで銃殺してやってもいいんだぞ、クソババア!」

 検問官が拳銃を抜いた。

 一触即発の状態。僕は、額に嫌な汗が流れているのに気づいた。体は恐怖に怯え、氷ついて、動きそうにない。

 なのにそのとき、僕の口は独りでにまくし立てたのだ。

「す、すみません! うちの母、ご覧の通りボケ始めていまして。妙に頑固なところがあるんです。私もすっかり困ってまして。私としても向こう側にやってしまいたい気持ちは山々なんです。どうにか母の最後のワガママを聞いてもらえないでしょうか?」

 僕がそこまで言い終えたところで、壁の向こうへと続く通用門が開いた。その先は地雷原で、安易に進むことは出来ない。

 しかし、いまのこの状況もまた地雷のようなものだった。後ろに控える二人の軍人と、目の前に立ちすくむ検問官。その間に挟み込まれた、僕とジル。

 沈黙はしかし、風が吹きすさぶと共に打ち破られた。

「……仕方あるまい。監視役を付ける。その老婆を向こう側にやったら、早急にこちらへ戻ってこい。少しでも怪しいマネをしたら射殺する。良いな」

「は、はい! ありがとうございます!」

 僕は思わず感謝の言葉を漏らした。

 そのとき、僕には壁の門が開け放たれたように思えた。


 ライブ開始を今か今かと待つ観衆を背に、僕とジルは壁の合間を渡った。車に乗って、ゆっくりとだ。車の後方に乗せられた僕らには、二人の兵士が監視についていた。一人は運転手で、もう一人は助手席に座っている。

 車は壁の間の通用門を通り、地雷原の脇を抜けて『向こう側』へ。

 向こうに近づく度、観衆の声はさらに大きなものへと変わっていった。どこの誰だか知らないが、偉大なアーティストを称えようと、街の各地から人が集結しているのだ。

 そして車は、壁の向こう側へとたどり着いた。門が開いて、車がトンネルに差し掛かる。向こう側の外壁部には、全く兵士など存在していなかった。こちら側の厳重さとは何だろうか、とさえ思わせる。

 そうして車両は、『向こう側』の外壁通用門の目の前で停車した。通用門の目の前はすぐライブ会場で、すでに喧噪の中にあった。それどころか、開場を早めるとかで、もうひどい騒ぎになっている。あたりのスピーカーからは音がガンガン響いていて、自分の声でさえ大声を出さなければ聞こえたものではない。

 運転手の男がエンジンを切ると、兵士二人は車を降りた。そして、ジルが座っていた右側のドアを開け、彼女を無理矢理出させた。僕のほうは開けられず、ただ兵士が見ているだけだった。僕は壁の外へは行かせない。監視、というわけだ。

 しかし、ジルがそうさせるはずが無かった。

 運転手の男がジルを抱え上げ、何とか歩かせようとした。だがその瞬間、男は急に嗚咽のような声を上げて、その場に倒れたのである。一瞬の出来事だった。

「おい、どうした!」

 僕を見張っていた兵士が、倒れた兵士の方をみた。しかし次の瞬間、ジルが持っていた松葉杖が彼の方を向いて、火を噴いたのである。

 それはただの松葉杖などでは無かった。中に消音拳銃を格納した仕込み杖であったのだ。

 見張りは二人ともその場に倒れる。壁の上に立つ見張りが警戒していたが、しかしちょうど外壁通用門の死角になって見えないようだった。それになにより、彼らは壁のそばの若者たちの対処に大忙しだ。老婆など、取るに足らないものだと考えていたのだろう。

 ジルは腰をまっすぐにし、立ち上がった。もうそこに老婆はいなかった。

「行きましょう」

 僕と彼女は駆け足で人混みの中に紛れていった。こちら側の兵士が、死んだ二人を発見する前に。

 ジルは人混みに紛れながら変装を解き、雑踏の中に消えていく。僕は彼女に一言お礼を言いたかったけれど、「ありがとう」と喉から言葉が上がってくる前に、彼女は消えていた。

 そしてそれ以降、彼女が僕の前に現れることは無かった。

 このとき僕がただ一つ言えたのは、僕にとっての『こちら側』は、もう『向こう側』になってしまった、ということだ。

 壁のすぐそばのステージに一人の男が上った。男は恋人の歌を歌っている。壁を境にして愛し合う男女の歌を。

 僕も愛する人が、きっとここで待っている。

 僕も人混みに紛れていった。壁を境に愛し合う男女から、ふつうの男女へと戻るために。頭上を銃弾がかすめたあの瞬間から、日常へと戻るために。

 僕にとって、この日は他の一日とは違う大切な一日になったと思う。ふつうの男女になったのかもしれないけれど、このときだけ僕は、この世界でたった一人だけの”英雄ヒーローズ”になれた気がしていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ