1345時間の、カシ
けたたましく鳴る電話の音。
今まさに退勤打刻を押そうとする俺は、急な電話に嫌な予感がした。この定時後の、残業時間も深けた頃、この部署にかかってくる電話が、面倒でなかったことはない。
慌てて電話に出る後輩を軽く見ながら、申し訳なく思いつつ、さっさと退散するべく、システムにログインする。しかしやけにつながりが遅い。
カードを画面にかざせば、おのずとIDが読み取られ、残業時間が計算され記録される。
はやく、はやく。
そう心で念じていたのに、いつまでたっても処理が終わらない。そして、エラーという赤い文字が浮かび上がり、さらにその画面には良く見知った女の顔が現れた。相変わらず、顔が良い。
「逃げなくったっていいじゃない。」
浮かび上がる女の顔はドットで3D表現されているにもかかわらず、分かりやすい表情をしていた。楽しそうだ。
「帰ります。」
「だめよ。」
「いやです。訴えますよ。」
「どこに?」
「さあ、あなたの、上ですかね?」
「あら、私の上に誰が?」
「さあ、でも兎に角、不当な引き留めはパワハラです。」
「残業ね、正当な理由があるのよ。」
「帰ります。帰らせてください。」
「だめよ、トリップの事案が発生したの。」
「知りません。」
「ちょっと、よく見て、そこに残っているなかでトリップ能力があり、今月の残業時間にまだ余裕があるのは誰?」
俺は半ばあきらめ気味に室内を見渡した。皆、俺達のやりとりを興味深気に見ている。疲れた顔の上司と目が合う。あの人はもう今月は制限時間を超えた。もう1人のトリップ能力者は、今日は休みだが、法定休日。それに彼は、先月までですでに2回の残業上限時間に達している。つまり。
「俺しかいませんね。」
「そうね。あなただけね。」
「明日ではだめなんですか。今からだと確実に深夜割増つきますよ。」
「だめなのよ、明日は私の体があかないの。」
「…忙しくないすか、最近。妙に。」
「向こうでの流行りみたいなのよ…。困ったことに。それでね、あなたは私に何時間の借りがある?」
「…1345時間です。」
「そうね?なら、残業云々で、騒いだりせず、粛々と仕事にあたってくれるわよね。」
「…わかりました…。でも今のはパワハラぎりぎりですよ。…貴方が来るということは、めんどくさい事案なんですよね。」
「そうよ。15分後に、備品倉庫で。」
「わかりました。」
画面がふっと消え、俺は時計を見た。
「先輩、エマさんと仲良いんですか?」
茶目っ気のある後輩が、後ろから声をかけてきた。さっき電話に出た時の死にそうな顔と打って変わって、目が輝いている。
俺は舌打ちをする。
面倒くさいことをしてくれたものだ。
「仕事でよく一緒になるんだ、それだけだ。いいから仕事してさっさと帰れ。」
「えー、うらやましっす、エマさんと二人でトリップの仕事とか、俺がかわりたいくらいです。」
「かわってくれよたのむから、トリップ嫌いなんだよ。はやくトリップ能力試験受かってくれ。」
「えー、なんで嫌っすか?」
「なんでも。もう行く、時間がない。お疲れさん。」
「お疲れしたー。」
後輩の声に続き、ちらほら挨拶の声が聞こえた。皆覇気がない。先程目があった上司が、軽く会釈してきた。礼だろうか。
俺は少しだけいらつきながらも、どこか仕方ないと諦めた気持ちで部屋を出た。廊下に出てすぐ、そこに待機していた透明なカプセルに乗り込むと、空中に浮かぶ備品倉庫の文字を押す。
[お急ぎですか]
とカプセルから声がする、目いっぱい急ぎだと伝えるとカプセルは急激に動き出した。
「ぎりぎりね。」
「あなたが面倒くさいことをしたせいで、後輩に絡まれたんです。」
「他人行儀な話し方しなくていいから。私もしないし。」
彼女は倉庫の中で何やら作業をしていた。
俺が近づくと、いくつか道具を渡された。
「重装備かよ。」
「使えるか確認して。10分以内にトリップする。」
「なんでそんな急ぐんだ。」
「入り口が面倒だから。」
「どこだ。」
そこで彼女は振り返り、妖艶に笑って見せた。
顔もスタイルも申し分ない、彼女を知るものは誰もが彼女のその有能さと容姿に魅力を感じる。だから俺が、その彼女と、ある種の幼馴染のような関係であると知れてしまうのは面倒なのだ。
遠くで汽笛が鳴った。
「あれよ。」
彼女は黒いスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。見た目は、向こうの世界の軍事用の武器に見える備品達を、体中に装着したまま、彼女は前触れなく走り出した。
「ちょ…」
「はやく。」
ヒールで、そんな重装備で、その高そうなオーダースーツで、なぜそんなに機敏に動けるのか。俺は自分の情けない走りに恥ずかしくなりながら、とりあえず安物のジャケットを脱ぎ捨ててみた。
「それで全力?」
「全力。」
「デスクワークやりすぎじゃない?」
「出世頭がそんなバリバリ動けて、外回り慣れてる方が疑問。」
「誰かさん達がトリップ嫌がるからでしょ。」
汽笛が先程より近くで鳴った。
「飛び乗るんだよな…。」
「飛び乗る。」
「乗るだけか。」
「そうよ、乗るだけ。三両目と、四両目の、連結部分にね。」
「は?」
「気合い入れてね。」
「……まだ、ベンチに座る女性の手にもつコーヒーに向かって飛び込めって言われた時の方が、マシだった。」
「私は昨日、全力で他人の家先に置かれたゴミ箱に飛び込んだわよ。」
「……入り口係って…何考えてんだろう。」
「気になるなら出世してなんとかしてきて。あそこは私も入れないのよ。」
「トリップ能力あるやつはそもそも入れないだろ。」
「そうね。」
遠くに煙が見える。
「くるわよ。」
「なんでこんな危険なもの、こっちにつくったんだろう。」
「向こうに憧れてる誰かが作った、それだけ。こっちと向こうは相容れない、ゆえに向こうに憧れるものもこっちにはいる。」
「俺たち管理人のすむハザマの世界って、いったい何なんだろう。」
「……いくわよ。」
エマはほんの少し目を細めて、ただ、一言そう言った。俺たちは助走をつけて走り出した。
トリップするときに一番大切なのは何かと聞かれたら、答えはただ一つ。思い切りの良さ、それだけである。
入り口はあらゆるもの、あらゆるところ、あらゆるタイミングに現れ、それを逃すとトリップはできない。ここからなら流しても問題はないが、トリップ先で帰り道を逃すと…想像したくない事態になる。そして、今日のように、自らの命を危険に晒すトリップの入り口もある。そういうときためらえば、それこそ、命取りになってしまう。
カンッ
小気味よい音がして彼女は消えた。後を追って飛んだ俺は、彼女が車両の間の闇に吸い込まれるのを見ながら自分の視界も暗転するのが分かった。
あぁ、この感覚が嫌いだ。
だから俺は、トリップしたくないんだ。