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 英雄は一度全身を激しくビクッと揺らし、我に返った。そして、しきりに目を瞬きさせながらきょろきょろと周囲を見渡した。学生食堂の中は学生の姿がすっかり疎らになっていた。学生食堂の有線放送で流されていたポップミュージックの哀愁あるメロディが、やけに英雄の耳についた。全身汗でぐっしょり濡れており、額からも汗がにじんでいた。両頬には左右二三滴ずつ涙が伝っており、英雄は急いで両頬の涙を何度も両手で同時に拭った。

 英雄と同じテーブルに着いていた女子学生はまだいた。彼女はすでに食事を終えて、食器の乗ったトレーも返却口に戻していたようだった。後ろ髪は一本に束ねられ、テーブルの上に文献やノートを広げ、黙々と文献に目を通していた。

 英雄は徐に首を捻じ曲げ、自分の背中の方に眼をやり、また前にゆっくり向き直した。それから、手元に視線をやると、先ほど自分で折ってしまった箸が目に入った。箸はトレーの上の皿の手前にきっちり横にそろえて置いてあった。英雄は苦笑いを浮かべてげんなりため息をつき、胸の内で呟いた。

『……このクソみたいな人生はまだまだ続くんだな……』

 その後、英雄はしばらくぼんやりと正面のガラス窓を眺めていた。時折何度も思い出したかのように苦笑を浮かべながらため息をついた。そんな風にしばらくやり過ごしていたが、英雄は徐に折れた箸を持ってすっと立ち上がり、調理場と食堂の間に設けられていた食器の返却口まで歩いて行った。

 食器の返却口に辿り着くと、英雄は調理場の中を恐々と覗き込んだ。英雄の目にスタッフの中年女性二人が落ち着いた表情で談笑している姿が映った。二人のうち一人は、先ほど英雄に対応した人の良さそうな小太りの中年女性のスタッフだった。二人とも英雄に気づかないようだったので、英雄は幾らか躊躇した後覚悟を決め、目を大きく見開きながら声を張り上げた。

「あのー! すみませーん!」

「あ、はいはーい」

 先ほど英雄に対応した小太りの女性のスタッフが、愛想良く返事し、英雄の方にいそいそと駆け寄るように近づいてきた。英雄は顔を真っ赤に染め、しきりに首の後ろを掻きながら、彼女に箸を折ってしまったことを報告した。

「……あ、あのー。すみません。……こ、これ、折れちゃいまして……」

 英雄はそろそろと折れた箸を差し出した。

「あらー、折れちゃったの! 珍しいことがあるのねえ」

 彼女は少々驚いた様子ながらも笑顔で応じた。英雄は相変わらず首の後ろを掻きながら謝罪した。

「すみませんでした。……あの、もし必要なら、お箸は弁償いたします」

 彼女は英雄の「弁償」という言葉に幾らか意表を突かれたようだった。 

「え、弁償? ……いい、いい、そんなの」と、少々驚きの面持ちで言った。

「……そうですか。……本当に、すみませんでした」

 英雄は大いに恐縮してそう言うと、ほっと胸をなで下ろしながら深々と頭を下げた。それから、折れた箸を彼女に渡し、調理場と食堂の間のカウンター近くに設けられていた箸入れから、箸を手に取ってテーブルに戻った。

 英雄はテーブルに戻るって椅子に座ると、すっかり冷めた残りのご飯、味噌汁、サラダをゆっくり平らげた。それから、いったん周囲をきょろきょろ見渡してから、最後に同じテーブルに着いていた女子学生の方も一瞥し、急いで残りのチキンカツも一口で平らげた。英雄を散々悩ませたチキンカツの鶏肉の筋っぽい部分は、目を瞑りながらそのまま我慢して一気にお茶で流し込みながら飲み込んだ。それを終えると、トレーの上に少し散らばっていたキャベツを一つ一つ指でつまみながら皿の上に集めた。

 そうしている間、英雄は同じテーブルに着いていた女子学生の方をちらちら見てみるのだが、彼女は口を少しすぼませ、澄ました表情でひたすら黙々と文献を読んでいる様子だった。英雄は彼女の読んでいる文献の内容が気になったが、それを確認するには距離があり過ぎるように思われた。彼女の方は英雄のことを気にするような素振りを寸分も見せなかった。英雄にとってそのような彼女の様子は、自分とはほとんど何の接点も無いあかの他人であることをありあり物語っていることのように感じられた。箸を折るまでもなく、最初からなんの見込みもなく、彼女が到底自分の手には届かない高嶺の花に思われた。英雄には、それが到底動かしようのない確固たる現実として岩山のごとく目前に聳え立っているように感じられ、自分独りだけが世の中から完全に置き去りにされているような気にもなってきて、きりきり胸を締め付けられるようなほろ苦い息苦しさを覚えた。英雄はもう一度深くため息をつきながら胸の内で呟いた。

『やっぱりそうだよな……』

 そうしているうちに、午後に受ける予定だった四限目の熱力学の講義の時間が近づいてきていた。英雄そろそろと立ち上がり、食器を返却口に戻すべく調理場の方向へ向かった。返却口にトレーを食器ごと戻すと、調理場を見渡したが、英雄とやり取りした中年女性のスタッフの姿は見えなかった。

 英雄は食器を返却口に戻すと、テーブルに荷物のショルダーバッグを取りに引き返した。英雄はショルダーバッグを手に取って肩にかけると、ゆっくり学生食堂の出入口へと向かった。券売機の傍を通る時、食券を買う際にその下に百円玉を落としたことを思い出し、拾いに行こうかと一瞬迷ったが、結局未練げに券売機の下の方を眺めるだけでそのまま通り過ぎた。出入り口付近まで行くと、英雄は同じテーブルに着いていた女子学生の方をもう一度振り返り、さらにもう一度深くため息をついて、苦笑を浮かべながら胸の内で自嘲気味に呟いた。

『さよなら、僕のアリアドネ……か』

 英雄は教室へ行くと、教室の後ろの方の席に陣取り、講義の時間が来るのを待っていた。しかし、講義の時間が近づいてきても誰一人来る気配が無かった。英雄は教室を出て、教務課の出入り口付近の設けられていた掲示板まで確認しに行った。すると、掲示板には熱力学の講義は休講になったという知らせが張り出されていた。

 英雄は家路につくべく、のろのろとした足取りで裏門の方に向かっていた。キャンパス内は学生の姿がすっかり疎らになっていた。

 英雄は少し歩くと、前方のサークル棟の方から、赤いカジュアルシャツを羽織った金髪頭の男子学生がずんずん向かって来る姿に気づいた。彼は英雄が昼休みにサークル室で一緒になった後輩達の中の一人で、英雄が参加していたサークルの部長を務めていた三年生の男子学生だった。英雄にはその彼が自分に対してひどく憤慨しているように思われた。英雄はぎこちなく顔を斜めにうつむかせながら歩き、いかにも決まり悪そうに視線を逸らしていた。英雄はそのまま気づかない振りを決め込むつもりだったが、すれ違いざまに後輩の男子学生方が英雄に挨拶をしてきた。

「おつかれーっす」

「あっ、お、おつかれ……」と、英雄も慌てて右手を少し上げて笑顔を作って会釈しながら挨拶を返し、ほっと胸を撫で下ろした。

「あっ、合田さん」

 突然英雄の後ろから声がした。英雄は肩をビクッと揺らし、立ち止まって振り返った。彼は英雄に近づいてきて訊ねた。

「さっき聞き忘れたんですけど、来週の土曜の新歓コンパに合田さん参加します?」

「……ああ、いやあ、どうだかねえ……」

 英雄は口ごもりながら曖昧な返事をしたが、彼はそのことを完全に見越していた様子で、英雄の曖昧な回答をさらりと受け流すようにして続けた。

「伝言ノートに詳しい場所と時間書いてありますから、もし参加出来る時はそこで確認してください。合田さん、一応数には入れときましたから」

「分かった。ありがとう」

「たまには飲み会にも顔出してくださいよ」

「……そうだね」

「じゃ、おつかれさまでーす」

「おつかれ」

 後輩の男子学生は爽やかな笑顔を残して去っていった。英雄はしばしその後ろ姿を見送ってから、再びのろのろと歩きだした。

 英雄は歩きながら、その日のアパートを出てからの自分の行動を振り返り、苦笑を浮かべながら何度も力なくため息をついて、胸の内で呟いた。

『……まったくお粗末だ。僕はこの先こんな調子で大丈夫なのだろうか? ああ、どうしてこんな風になってしまったのだろう。子どもの頃はもっと機敏で溌剌としていたはずなのに。……いつからこんなに愚鈍な人間になってしまったのだろう?』

 英雄はぽかぽかとした淡い午後の日差しが気だるく自分の身体を包む気配を感じていた。英雄が空を見上げると、飛行機雲が目に入った。飛行機雲は西から東の方に少し薄まりながら拡がって長く伸びていた。西の空を見ると白いベールのような薄雲が西の空を覆い始めていた。英雄はもう一度ため息をついてうつむいた。

『夢は終わった……』

 ふとそんな言葉が英雄の胸の内に過った。それから、英雄は自分の行く末を考え、表情を曇らせ、さらに言葉を巡らせた。

『……一体僕はこの先どうしたら良いのだろう? もう何もかも分からなくなってしまった。でも、いつまでもこのままでいられないことだけは確かだな。なんだかこの先とてつもなく辛く苦しいことばかり待ち受けている気がする。……一体僕はどうなるんだ……』

 英雄は住んでいる学生アパートの傍まで来ると、道路を挟んでアパートの向かい側にある一軒家の二階のベランダに目をやった。ベランダでは、大学に向かうときに挨拶を交わした顔見知りの女性が、乾いた洗濯物を取り込んでいた。彼女は英雄の存在に気づかないようだった。英雄は歩きながらその光景を静かに見送った。

 英雄は玄関で靴を脱いでから部屋に入るなり、ショルダーバッグを投げ捨てるようにして部屋の隅に置き、そのまま畳の上にだらりと身体を横たえた。

「疲れた」

 英雄はすぐ真上に見える丸形の蛍光灯を眺めながら囁くようにそう呟いた。それから、一分と経たぬうちに英雄は静かに寝息を立てた。

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