七
英雄は目を瞑りながら胸の内で盛んに言葉を巡らせ、箸が折れてしまったことの意味を必死に問うていた。
『……何故こうなるのだろうか? これは全部罰なのか? ろくに勉強もせず怠惰な生活をしている罰なのか? いつも淫らな空想に身を任してばかりいることの罰なのか? 愛する者に淫らな情欲を抱いた罰なのか? 愛する者の美しい姿を呪った罰なのか? 自然の摂理を呪った罰なのか? 豚カツを食べようとした罰なのか? チキンカツ定食を食べた罰なのか? これまでの全ての悪行の報いなのか? ああ、僕はダメだ。一体何がいけないんだろう? 僕の何がいけないんだろう? ……いや、もうたくさんだ。何故いつもこうして自分をダメだと卑下ばかりしなければいけないのだろう。畜生! 冗談じゃない。もうこんな卑屈にはうんざりだ。僕はここではピエロでしかない。ここから逃れたい。今すぐ自分にふさわしい場所へ行きたい。ああ、一体僕にふさわしい場所とはどこなのだろう? それは今僕が生きている場所や時代には無いのだろうか?……そうだ。きっとそうだ。ずいぶん前からずっとそう感じていた気がする。この現代という時代。現代社会。物で溢れ返り、知識と情報が氾濫し、世間という名の愚衆が我が物顔の猥雑極まる社会。気高い理想も思想も持てず幸福という名の憐れむべき快適な生活にしか目のないおしまいの人間どもが地ノミの如く跋扈している社会。現代の日本がまさしくそうではないだろうか。そして、それは僕にふさわしくないものなのだ。だから僕はここでは常に生きづらさを感じなければならないのだ。……僕がこうして勉強もせずに無為な生活を送るのにも、まっとうな理由があるのだ。断じて怠惰からではない。この先、苦心しながら真面目に勉強して大学を卒業したところで何が待っているのだろう? 就職し、会社のため、家庭のため、他人のため、社会のためにあくせく馬車馬のように働くだけの退屈な人生ではないか。それは、おしまいの人間どもが営む、幸福という憐れむべき快適な生活を支えるためだけの蓄群になることでしかないのではないか。実際、そんな快適な生活を支えるためにどれだけの人間が、身を削って働き、奴隷のようにこき使われているのだろう。滑稽なことに、現代人は便利で快適な生活を求めるために、かえって仕事を増やし、時間に追われ、自分で自分の首を締めている状況なのではないか。おまけにそんな便利で快適な生活を支えるために、資源を食い潰し、自然環境まで破壊しているというではないか。そんなことに巻きこまれるのはまっぴら御免こうむる。僕はもっと偉大な事のために生きたいのだ。何もしないのはこの現代社会に馴染み、その愚昧なシステムにきっちり組み込まれることへの抵抗であり、まっとうな抗議なのだ。……畜生! 現代社会め! 僕の精神の気高さをいつも嘲笑いやがって! それが高貴なる者、選ばれし者への現代社会からの報復ってわけか。これまでずっと意に反して己の身を下げ、そんなクソ社会に馴染もうと卑屈に足掻いてきたこともあった。サークルの俗物連中にも、身の丈を下げて何とか馴染もうと媚ばかり売ってきた気がする。ああ、考えただけでも忌々しくなってくる。僕はいつだって自分の思うことや感じることに自信が無かった。まったくどうしてこうも自信が無くて卑屈なのだろう。でも、もうそれも終わりだ。金輪際何者にも媚など売るものか! こんな場所僕の方から見限ってやる。僕は生まれる時代を間違えたのかもしれない。僕にふさわしい場所はもっと偉大な世界にあるのだ。神々や王が世界を統治し、戦士達が山野を駆け巡っているような、神話的で英雄的な世界。ああ、そんなスリルに満ちた愛と冒険とロマンの世界は何処にあるのだろう? 頼む! 僕をそんな偉大な世界に行かせてくれ!』
英雄は頭の中で言葉を必死に巡らせながらも盛んに空想を働かせ、自分の失敗体験をなんとか頭から振り払おうと躍起になっていた。英雄は全く受け入れがたい状況に直面すると、反射的にそういう心理状態に陥った。すでに英雄は完全に白昼夢の世界に入り込んでおり、その世界の中で立ち上がって走りだしていた。英雄は学生食堂を飛び出し、脇目も振らず校門へ向かって走っていた。校門を駆け抜けるとすぐに左に曲がり、歩行者を突き飛ばすようにかき分け、雄叫びを上げながら全速力で駆けていた。
英雄は走りながらも身体の異変を感じていた。足が勝手に動き、走るスピードもどんどん速くなっていくように感じられたのだ。さらに、背中に突っ張るような強い違和感も覚え始め、やがてそれは激痛と感じられるようになり、英雄は呻きながら苦痛に顔を歪めた。
そうしているうちにも、前方に大通りの交差点が迫ってくるのが見えたが、英雄は足を止めることが出来なかった。交差点の正面の信号は赤になっており、車が多数左右に行き来している様子も見えた。英雄はもうおしまいだと目を伏せた。その瞬間、英雄は自分の全身がふわりと宙に浮き上がる感覚を意識した。英雄が恐々と目を見開くと、眼下には大通の交差点に車や人々が行きかっている光景の広がっている様子が見えた。背中の痛みは嘘のようにきれいさっぱり無くなっているように感じられた。それから、さらに白い羽毛のようなものが英雄の視界に入った。英雄は自分の背中から翼が生えているのだと理解した。翼はかなり大きく、全長四メートルくらいはありそうに思われた。
英雄は自分が大空に舞い上がっているのだと認識すると、一切の恐れも不安も憂鬱も忘れ、生き返ったような解放感を覚えた。そのような気分を味わうのはずいぶんと久しぶりに思えた。
『……すごい! 僕は空を飛んでいる。自力で空を飛ぶことは古来究極の人類の夢だったじゃないか。それを僕は今叶えたわけか。やはり僕は選ばれし者、高貴なる者だったのだ。僕は超人にして鳥人になったのだ!』
ただ、身体の挙動はなかなか安定しないように思われた。英雄はビルの壁面、看板、信号機、電柱、ガードレール、車、道行く人々に何度もぶつかりそうになり、行く手に迫るそれら障害物の間を辛うじてすり抜けるようにして飛んだ。バランスを崩し、何度もコンクリートの地面に激突しかけた。それでも、次第に飛行のコツが掴めてきた。首の向きと翼を広げる前後の角度で、上下方向とスピードのコントロールが出来るようだった。翼の左右の微妙な力加減で横方向へのコントロールも上手く出来るようになった。
英雄が飛行に慣れて街中を飛び回っていると、ふとショーウィンドウに映る自分の姿が目に入った。英雄はその間近に降り立ち、正面にガラスに映る自分の姿をまじまじと眺めると、ギリシャ彫刻のような美しく鍛え上げられた雄々しい裸の上半身の姿が目に入った。上半身の後には純白の羽毛の翼が全身を覆うようにして拡がっていた。下半身に目をやると、腰には白いウールの布のようなものが巻かれ、その下からは筋肉で引き締まった脚もすらりと美しく伸びているのが見えた。顔は心なしか目鼻立ちがくっきりと堀が深く精悍な顔つきになったように思われた。その佇まいはギリシャ神話の神々のようだと英雄は思った。
『悪くない』
英雄は満悦の笑みを浮かべながらそう胸の内で呟き、軽やかに飛び立った。眼下の道行く人々の様子が常に目に入っていた。老いも若きも男も女も、空中を旋回している自分を何事かと見上げているようで、英雄はそれが大いに愉快だった。
『ざまーみろ! おしまいの人間どもめ! どこまでも小賢しくて、現代文明の檻に閉じ込められたお前らにこんな芸当はとても無理だろうな』
英雄は胸の内で眼下に見える人々に対してそう嘲るように叫んでから大学の敷地の方へ引き返した。大学のメイン通りにはまだ多くの学生達が闊歩している姿が見え、彼らは皆英雄の姿に目を丸くしているようだった。英雄は、はしゃぐように何度も上下に行ったり来たりしながら旋回した。
英雄は五階建ての本部棟の屋上くらいまでの高さの場所で、ふと街並みのはるか向こうに目を留めた。そこには、赤と白が交互におり重なった模様をした高層タワーが上空に針を突き立てているようにしてそびえ立っている光景が見えた。英雄は今少し高度を上げて、高層タワーの方向に向き、ハヤブサのように一気に風を切って飛んだ。途中、英雄はわざわざ高度を下げたりもし、密集したビルや家々の間をすり抜けながら風のように飛んだ。
英雄は高層タワーの傍まで達すると、下から大きくらせん状に這うようにして高度を上げていった。エレベーターで高層タワーを上っている観光客らしき人々とも目が合った。人々は一様に目を丸くしていたようだったが、それが英雄にはたまらなく愉快で、思わず彼らに対して不敵に手を振ったりした。
英雄は高層タワーの頂にまで達すると、眼下に拡がる一大パノラマによくよく眼をやった。狭くひしめき合って軒をつらねる家々、所々立ち並ぶ灰色の高層ビル群、草木が鮮やかに緑づく公園、網の目のような道路網、線路の上を這うようにして進む電車、等々、四方八方巨大な街並みを一望できた。南東の方角には所々人工的に入り組んだ湾の形も目に入り、はるか西南西の方角には、薄らと山頂に雪をまとった雄大な成層火山の優美な山影も確認した。英雄は素直に感嘆した。
『すごい!』
英雄は視界に映る密集した巨大な街並みの中に隈なく人間が存在して生活を営んでいると考えると、つくづく不思議に思い、分別ありげにこう嘆いてみせたりもした。
『それにしても、ここにどれだけの人が暮らしているのだろうか? ああ、現代社会は人が多すぎる。こう人が多いと一人一人の存在が余りにも希薄だ。もうあと百年もすれば、ここにいる人々の多くは名もなきその他大勢として忘れ去られるだろうに。それでも、皆日々の生活に必死であくせくし、小さなことで思い悩んでいる。何だか現代人が憐れに思えてきた。いや、現代人に限らない。古来ほとんどの人間が、あまりにも多数の者、名もなきその他大勢だったのではないか。人間一人一人はなんて憐れな儚い存在なのだろう……』
英雄はそんなふうに胸の内で嘆きながら、翼を目一杯に広げ、上昇気流に乗って上へ上へと目指していった。ぽっかり浮かぶ白い綿菓子のような小さな雲を通り抜けると、幼い頃の夢を思い出した。英雄は幼い頃に空を見上げながら雲の中に潜ってみたいとよく夢想したものだった。
『夢は思いがけず叶うものだなあ』
英雄はそんな感慨にもしみじみふけりながらも、更に上へ上へと目指した。ふと見下ろすと、もう車の姿も確認できないくらいの高さになっていた。心なしか、気温も幾らか下がってきているような気がし、若干の息苦しささえも感じるようになっていた。しかし、英雄の高揚感は収まらなかった。
『一体どこまで上昇できるのだろう? ここはひとつ、限界まで行ってみるか。もう僕の居場所のない地上に用は無い。ひたすら高みを目指そう。そして、天空の藻屑へと消えるのだ。僕はずっとそのことを望んできたのではないのか。ずっと空を見ていたかった。抜けるような透明な青空。空に浮かぶ様々な姿や表情の雲。壮麗で幻想的な夕焼け。いつもその中に溶け込みたいと思っていた。大空への憧れ。僕はその気持ちや感覚をずっと求めていたのだ。そうだ! 分かったぞ! これが僕の夢だったのか。ああ、なんて素朴なロマンチシズムなんだ』
さらに高度が上がるにつれ、英雄は身体に吹き付けてくる風が容赦なく冷たくなっていくと感じていた。次第に不安を感じ始めていた。そろそろ下に降りようかという考えも過ったが、とにかく上昇が止まらなかった。下からは空気が猛烈に突き上げてきているようで、身体を下に向けようと思っても上手くいかなかったのだ。翼はなかなか思うように動かせず、無理に翼を動かして向きを変えたり、身体を下に向けたりしようとすると、バランスを崩し、一気に急転降下しそうにも思えた。そうしている間にも、身体はいよいよ速度を上げて上昇していき、留まるところを知らないようだった。もうそのままどこまでも上に向かっていく以外ないように思え、英雄は上方から迫ってくる真っ青な空と太陽の光景が不気味に思えてきて、思わず背筋を震わせた。それでも、英雄は自分に言い聞かすように必死で言葉を巡らせていた。
『どうやら上空は容赦ない死の世界らしいな。これが厳しい現実ってやつか。上等じゃないか! もう僕は下へは振り返らない。どこまでも高みを目指すのだ。もはや死など怖れていない。どっちみち僕はもうおしまいなのだ。あの女子学生も幻滅させてしまったし、普通に生きていても何も良いことなんて無い。勉強はさっぱりだし、友達もいないし、恋人もいない。毎日毎日、恥辱、恐怖、不安、苦痛、倦怠ばかり押し寄せてくる。どうせ僕の未来なんてろくなものじゃないだろう。もう地上にいたって何も良いことなんて無いに決まっている』
さらに時間と共に吹き付ける風がいっそう冷たくなっていくように感じられ、英雄はぶるぶると全身を震わせた。息苦しさも確実に増していくように感じられ、幾分疲労も意識し始めていた。そのとき、どこからか響いてくる衝撃音が英雄の耳に入った。英雄は上方に大型旅客機が飛ぶ姿を確認すると、少し安堵しつつも興ざめの思いが湧き上がってくることを意識した。
『……そういえば、今や人類は空を飛べるようになっただけでなく、宇宙へも行けるようになったのだ。よくよく考えてみると想像を絶する話だ。文明がすでにそんなところまで来ているとは……。それは本当に手放しで素晴らしいことなのだろうか? 僕には分からないな。むしろ、僕は段々と虚しくなってきた。地球の外にまで文明の手が及んでいるとはまったく興ざめだ。なんだかこれ以上高みを目指すのはバカらしくなってきた。……ああ、もう到底僕にはついて行けない。もはや文明ですら僕の貧弱な思考、感覚、知識、想像力などは遥か及ばないところに達しているのかもしれない。いつだってそうだった。未知の世界や新しい真理を探し当てたつもりでも、大抵それは既に世間に明るみになっていることなのだ。どこへ行っても、すでに大勢の先客で溢れかえっていて、何もかもすっかり彼らの学術的な解釈やらコマーシャリズムやらの手垢に塗れ、もう全てが無味乾燥で色褪せて、ひどく俗っぽく見えてしまうのだ。そこには全く深遠さも神聖さの欠片も感じられない。今目にしているこの光景も、すでに特別なものじゃなくなっているのだろう。誰もが知っていること。誰もが映像で見られるもの。お金さえあれば誰もが体験出来うるアトラクションでさえある。一般教養にさえなっている。そこには真の冒険のスリルも発見の喜びもない。全く味気ない話だ。もはや、僕の余りに素朴なロマンチシズムは、この現代社会の中では、ごくありふれた子どもっぽい夢想でしかないのだろうか?』
英雄はそんなことを思うと、どっと疲れを覚え、全身が一気に萎れていくような感覚に囚われた。相変わらず身体は上昇し続けているようだったが、英雄はそろそろ限界だと思った。呼吸もぜいぜいと荒く、意識もさらに朦朧としてきているように感じられた。末端の感覚もほとんど失われつつあるようで、翼の羽毛には白い氷の結晶が付着している様子も見えた。そして、英雄はついに音を上げた。
『……もう十分だよ。何もかも分からなくなってきた。降りたい。何が高貴なる者だ。何が選ばれし者だ。何が超人だ。こんな思いまでして高みを目指して一体何になるのだろう? まるで無意味に思えてきた。……そうだ、最初から意味なんて無かったのだ。白状する。僕はただ優越感に浸りたかっただけなのだ。全てをそれで片づけられたくないが、それが大きな動機だったことは否定できない。今はただ温もりが欲しい。僕は炉端の愛好者でも十分だ。頼む、もう僕を元に戻してくれ!』
次の瞬間、英雄は突風に煽られ、身体のコントロールが失われていく感覚を意識した。英雄はこのままでは急転降下は免れないと思い、渾身の力を振り絞り、手足と翼をバタつかせた。そうしているうちに、かろうじて体制を立て直したかに思えたが、英雄は自分の翼が片方折れてしまったことに気づいた。すでに身体は落下を始めているようで、下からの風圧が加速度的に強くなっていく感覚もはっきり感じられた。英雄は最後の力を振り絞るようにして、必死で翼と手足をばたつかせて抵抗した。しかし、翼の折れた部分から羽毛が無残に舞い散る様子が見えるばかりで、その甲斐は全く無いようだった。それどころか、もがけばもがくほどかえって身体の安定性が失われていくようで、ぐるぐると回転して錐もみ状態になった。もうどうにも手の施しようがないように思われたが、英雄は意外にも恐怖心がさほど湧いてこないことに驚いていた。むしろ、いかなる状況でも例外なく働く万有引力の不思議を他人事のように思いつつ、英雄は落ち着きはらって静かに胸の内でこう呟いていた。
『これでやっと終わる……』
今や英雄は手足や翼をばたつかせることを止め、目を瞑り、ただ真っ逆さまに落ちるに身を任せていた。そして、英雄はいよいよ地上が迫ってきたと感じた所で一瞬だけ目を見開いた。すると、海面にキラキラと反射する日光が瞳に射し込んで来た。英雄はそれが天からの恵みのようにも思えた。その瞬間、目前に英雄の過去が鮮やかに蘇った。家族や友人をはじめ、それまで出会った様々な人たちの姿。体験した出来事や目にした光景。瞼からは止めどなく涙が溢れ出てくるのが分かった。最後に、学生食堂で同じテーブルに着いていた女子学生の姿が過った。英雄は胸の内でそっと呟いた。
『さよなら、僕のアリアドネ』