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 英雄の選んだ場所は、長テーブルの学生食堂の出入り口から向かって手前側の左端の席だった。顔は正面の大きなガラス窓に向き、背中は出入口、調理場、券売機のある側に向けられていた。それが英雄にとっては絶好の位置だった。食事をするときの顔を誰かに見られる心配がほとんどなかったからである。英雄は何より食べ物を口に入れる瞬間を人に見られることを避けたかった。それは動物的な欲望を無防備にむき出しにする瞬間にも思え、そのときの自分の表情は、どんなにあさましく間抜けに映るだろうかと憂慮されたからだ。

 椅子に腰かけると、英雄は思わず大きく息をついた。両脇が冷や汗でじっとりとしていることを不快に意識した。未だ手の震えも動悸も収まっていないことにも気づき、もう一度深く深呼吸をし、きょろきょろ周囲を伺い、誰も自分を見ていないことを用心深く確認してから、ようやく食べ始めた。

 英雄は食事の際、真っ先にメインのおかずに手をつけるということをしなかった。それはいかにもがっついているようで意地汚く思えたからである。なるべく上品でスマートな食べ方で食事をしたいと考えていた。

 英雄はまず背筋を伸ばし、姿勢を正した。それから、サラダに手をつけ、次に味噌汁を少し啜り、ご飯を少量口に運んだ。その一連の流れを三回ほどゆっくり繰り返した後、ようやくチキンカツに手をつけるのである。その後は、小学生の頃に学校で教わった三角食べを忠実に実行した。チキンカツはその都度切り分けて口に運んだが、その際ナイフで切り分けたかのように箸できれいに小さく切り分けるのが英雄のこだわりだった。小さく切り分けるのは、食物を口に入れる際に大口を開けずに済むようにするためでもあった。

「おいしい……」

 英雄は思わずそう声に出し、独り顔を赤らめた。英雄にとって、学生食堂で独り食事をする時間は、数少ない心落ち着けるささやかな至福の一時と言えた。英雄はそんな時間をいつまでも味わっていたいとばかりにゆっくりと食事を進めていったが、そんな時間も長くは続かなかった。

 英雄は自分の着いていた長テーブルの向かい側の右端に、女子学生が一人やってきたのを横目で意識した。視線をそっと右にずらし、よくよくその姿を確認すると、白いカジュアルシャツと水色のタイトスカートを纏った背の高い女子学生で、彼女はサークル棟から学生食堂に向かってきていた途中ですれ違った、あの背の高くすらりとした女子学生だった。

 英雄と彼女の視線が一瞬合わさった。彼女はすぐに視線を逸らし、一度右手で軽く黒のセミロングの後ろ髪を撫でるような仕草をしてから、肩にかけていた白のトートバッグを椅子に置き、券売機の方に歩いて行った。にわかに英雄の身体に緊張が走った。そして、こういう考えがふと英雄の頭をよぎった。

『あの人は僕に惚れているのだろうか? もしや、その気持ちを示しに学生食堂まで僕を追ってきたのだろうか?』

 英雄は胸を激しく高鳴らせた。

『いや、待て。そう思うのは単なる自惚れなのか?』

 一応そのように自問もしてみたが、少なくとも自分のことを忌み嫌っている様子が無いことは確実であると考えた。もし、自分のことを忌み嫌っているのなら、何としても自分を避けるはずで、同じテーブルには着かないように思えたのだ。学生食堂を見回してみても、誰も着いていないテーブルは二三あり、どうしても自分と同じテーブルに着かなければならない必然性は無いように思われた。彼女が椅子にカバンを置いて行ったことも、自分のことを警戒していない無防備さの表れに思えた。彼女と目が合った際に彼女が後ろ髪を撫でる仕草をしたことも思い出し、英雄の考えは確信へと変わっていった。サークル棟から学生食堂に向かっていた途中で彼女とすれ違った際に、彼女が自分の視線を遮るように胸元を隠す仕草をしたことも思い出した。英雄はそれを自分のいやらしい視線に対しての警戒だと思っていたのだが、実際は好きな異性から受ける眼差しに対しての乙女の可憐な恥じらいであったのだと解釈を新たにした。自分には何かしら精神の高潔さを感じさせる貴族的な雰囲気が漂っており、例え欲情に飢えた目つきをしていても、醜悪さを彼女に全く感じさせなかったのかもしれないとも考えた。英雄は懺悔したい気持ちに駆られた。

『さっき僕はなんて酷いことを考えたのだろうか。ああ、君に卑しい淫らな欲望を抱いたことを許してくれ! その美しさを呪ったことを許してくれ! やはり生とは素晴らしいものだ。自然の摂理万歳万歳!』

 英雄がそのように嬉々として思いを巡らせているうちに、彼女がトレーを手にして戻って来た。英雄は彼女の食べようとしているメニューをちらっと横目で覗いて確認した。メニューはチキンカツ定食だった。英雄は彼女が自分と同じメニューを選んだのは、自分への同調行動であり、自分に気のある証に思えた。

『やはり、あの人は僕に惚れている! 決定的だ!』

 英雄はそう確信し、もはや笑みを押し殺せなくなっていた。

『もしかすると、僕がチキンカツ定食を食べている所を見て、あの人も食べる勇気が持てたのだろうか?』

 英雄はそんなことも考えた。さらに、英雄は彼女が同じメニューを選んだということに対し、運命的な意味も見出そうとしていた。彼女が自分と同じメニューを選んだことが仮に偶然だとしても、それはただの偶然ではなく、共時性のような意味ある偶然であると考えたのだ。彼女を見かけるとき、いつも彼女が独りで歩いていることも思い出した。そして、彼女も自分と同じ孤独な境遇にあるのだと考え、彼女と自分とは同じ気高さゆえの孤独感を共有しているようにも思われた。英雄は、もはや彼女が赤の他人ではなく赤い糸で結ばれた運命の相手のようにすら思われた。彼女の仕草や選択の一つ一つが全てそれを仄めかしていたように感じられた。英雄は胸の内で歓喜の叫びをあげた。

『これは運命だ! あの人こそ僕のアリアドネだ!』

 しかし、こうした英雄の歓喜は長く続かなかった。英雄は彼女が自分に惚れていると確信した瞬間から、自爆していくように激しいプレッシャーと緊張で自らを苛んでいったのである。英雄は彼女に良いところを見せなければならず、ここで自分の上品でスマートな食べ様をなんとしても彼女に誇示する必要があった。英雄にとってそれは絶対に失敗が許されなかった。もし、失敗をすれば、永遠に彼女の愛を失い、さらには愛するものに見限られた惨めな敗残者という屈辱的な烙印を押されることになることを意味したのだ。それは死よりも恐ろしい事態に感じられた。

 かくして、英雄の自意識は極限まで鋭敏で不安定になっていった。呼吸の一回一回、微妙な手の位置、体の角度、瞬きの一つ一つでさえ、自らの運命と生死を決定するように思われた。英雄の身体はさらにこわばり、箸をつかむ手の動作もおぼつかなくなっていき、腕を少し動かすだけでもやっとの思いになった。顔もすっかり青ざめ、英雄は手を小刻みに震わせながら、ほとんどスローモーションのようなぎこちない鈍重な動作で、何とか食事を進めていった。ご飯を口に運んだり味噌汁を啜ったりする動作は辛うじて出来たが、チキンカツを箸で切り分ける作業は恐ろしく困難を極めていた。彼女の手前、出来る限り口を小さく開けなければならないと思い、チキンカツをさらに細かく綺麗に切り分けなければと焦っていたことも困難に拍車をかけていた。英雄はそれでも必死で手の動きを制御し、箸を動かした。

 ふと、英雄の動きが止まった。チキンカツが石のように硬く感じられ、なかなか切り分けられなくなったのである。英雄は鶏肉の硬い筋の部分に当たってしまったのだと思った。英雄の手の震えはさらに激しくなり、動悸も激しさを増し、身体は石のように硬直し、身体中から大量の冷や汗が吹き出ていた。

『ああ、なんでこんなときに限って……。これは意地悪なのか? これまでの僕の悪行の報いなのか? それとも鶏の呪いか? 畜生! いつもそうなのだ。この現実ってやつはいつだってこんな意地悪を僕にするのだ!』

 英雄は自分を追い詰める「現実」を呪いながらも、執拗にチキンカツを箸で切り分けようと苦心していた。すでに残りのチキンカツは一口でも食べられる程の大きさになっていたし、柔らかい部分から切り分けていくことも出来たはずだった。しかし、英雄の頭はほとんどパニック状態で、そういうことまで頭が回らなくなっていた。

『頼む! 切れてくれ!』

 英雄は祈るように胸の内でそう叫び、一瞬目を大きく見開かせながら口をわずかに横に歪め、懇親の力を箸に込めた。

 次の瞬間、箸が折れた。バキッっという鋭く硬質な音が小気味よく響いた。直後、その弾みで皿に英雄の右手が打ちつけられて、ゴンという鈍い音が続けざまに地味に鳴り響いた。その際、皿の上に残っていたキャベツやチキンカツがわずかに飛び上がり、キャベツは少しトレーの上にも散らばった。

 英雄は箸が折れた瞬間は何が起きたか分からずに目を白黒させていたが、すぐに事態を飲み込むと、自分の顔から血の気が引いていくことがはっきりと感じられ、全世界が上下に反転しながら遠のいて行くような錯覚を意識した。英雄は瞼を閉じてそのまま固まっていた。


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