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 学生食堂の出入り口のすぐ傍に、学生食堂のメニューのサンプルディスプレイがあった。英雄はそこに視線を向けて立ちつくしていた。英雄の視線の先には、その日の日替わりランチのおかずであった黄金色に輝く大きくて肉厚な豚カツの姿があった。英雄はガラス越しに見えるその光景に激しく惹かれながらも、一旦視線を横に逸らした。

 英雄は学生食堂で食事をする際、大抵は定食メニューの中では最も安価なB定食を選んだ。これは懐事情によるところも大きかった。英雄が親から仕送りしてもらっていた生活費は必要最低限の金額で、決して贅沢は出来なかった。ただ、金銭的な余裕があったとしても、英雄はおそらく同様の選択をしたに違いない。いつからか、英雄は自分の好物や贅沢と思われるものを選んだり求めたりすることを憚ってしまう癖がついており、自分の欲求に臆面無く従うのは罪悪とさえ考えるようになっていたのだ。

 ただ、この時の英雄はいつもと少し状況が違っていた。英雄は朝から何も食べておらず、かなりの空腹状態だったのだ。さらに、今にも号泣してしまいそうな程の惨めな気分を引きずっていたので、そういう気分を何か突拍子もない大胆なことをして紛らわしたいという衝動にも駆られていた。通常であれば、豚カツの姿が目に入っても興味がない振りをしながら素通りすることが出来たのだが、その時の英雄の目には、豚カツの光景がいやに鮮やかで蠱惑的に映り、思わず立ち止まって見入ってしまったのである。やはり、英雄にも人並みに、あるいはそれ以上に、好きなものを食べたいという欲求はあった。

 英雄は再度豚カツに目をやり、唾を飲み込みながらしきりに鳴るお腹を少し手でさすり、こう嘆いていた。 

『ああ、なぜ僕はいつもこうして我慢ばかりしなければいけないのだろう。僕だってたまには豚カツを食べるくらいの逸楽を享受しても良いじゃないか』

 英雄はしばし葛藤で立ちつくしていたが、やはり食欲には勝てなかった。英雄は腹を決めた。

『人は時に罪を犯したり卑俗に塗れたりする勇気も必要なのだ。僕は豚カツを食べる!』

 英雄は胸の内で自らを鼓舞するようにそう言い聞かせると、券売機に誰も来ないタイミングを注意深く見計らってから券売機の傍まで行った。

 英雄は券売機の傍まで行くと小銭を財布から取り出し、それを券売機の投入口まで運ぼうとしたが、英雄はそんな自分の行動がとてつもなく大胆に思えた。背徳的とさえ思われ、まるで犯罪にでも手を染めようとしているかのように恐れおののき、異様に興奮していた。そのせいか手元が狂い、一枚の百円玉が指から滑り落ちてしまった。百円玉は甲高い金属音を響かせて券売機の下に転がり込んでいったが、英雄はそれに気づかない振りを決め込んだ。百円玉は胸が苦しくなるほど惜しかったが、しゃがみこんで券売機の下に手を弄りながら百円玉を取り出すという行為が、ひどく意地汚く屈辱的に思われたのだ。

 英雄は百円玉を一枚失うと、小銭だけでは食券を買えなくなったことに気づき、慌てて財布から千円札を一枚取り出し、紙幣用の投入口に入れようとしたが、券売機はなかなかその千円札を受けつけなかった。英雄は千円札の皺を伸ばしたり向きを変えたりしながら、投入口に入れようと冷汗をかきながら繰り返し試みた。そして、何度目かの試みでようやく千円札が受け入れられ、英雄は手を小刻みに震わせながら日替わりランチのボタンを押したが、今度は食券が出てこなかった。英雄の顔はみるみる青ざめた。自分がバカにされているように思えたのだ。さらには、それが何かの懲罰のようにも思われた。

『畜生! 機械まで僕をバカにしやがって! なぜいつもこうなるのだ! これは勉強もせずに怠惰な生活を送っているからなのか? それとも淫らな空想ばかりしているからなのか? やはり僕には豚カツを食べる資格が無いということなのだろうか?』

 英雄はそう思いながら手荒く何度もボタンを押したが、すぐに「売切」という赤色の電光文字がボタンに表示されていることに気づいた。

「アヘェー」

 英雄は苦しそうなため息に似た声を出し、苦笑しながら独り顔を真っ赤に染めた。

『やはり悪いことは出来ないものだ。これは僕が罪を犯さないための天からの差し金だったのかもしれない』

 英雄はふとそんなことを考え、物事が収まる所に収まったような気がした。

 英雄はもう券売機の傍から早く離れたかった。学生食堂の出入り口の傍で、メニューのサンプルディスプレイを眺めている学生数名のグループが目に入っていたからだ。英雄は券売機で券を買う際に、後ろに並ばれることを極度に嫌った。今にも後ろから早くしろと怒鳴られそうな気がするからである。

 結局、英雄はいつものようにB定食を食べることにして券売機のボタンを押したが、ひどく慌てふためいていたため、ちゃんとボタンの確認もせずに、ほとんど叩きつけるような動作で粗雑に押した。英雄は出てきた食券を取り出し、お釣りも急いで弄り出そうとしたが、これに幾らかてこずった。英雄はお釣りを取り出すと、それをそのまま急いで穿いていたチノパンツの右ポケットに手荒く突っ込み、逃げるようにそこから離れた。そして、調理場と食堂の間に設けられているカウンターの方に向かい、カウンターの手前に積まれていた小豆色の長方形のトレーと、四角い筒状の箸入れの中に立ててセットしてあったこげ茶のプラスチック製の箸を素早く手に取った。

 調理場の中では、割烹着になぞらえたような白い作業着を纏った中年女性のスタッフ数名が、きびきびと動いていた。昼休みの多忙な時間帯は山場を越え、彼女達の顔には少し安堵したような落ち着きの表情が見て取れた。英雄は購入した食券を、カウンター越しに、愛想の良さそうな小太りの中年女性のスタッフに渡した。

「チキンカツ定食ですねー」

 彼女はそう笑顔で応じたが、英雄は固まった。自分が渡した食券はB定食のものであったはずだからである。

「……あ、あ、あの……ビ、ビ、B定食……」

 英雄はそう言ったつもりで口をもごもご動かしたが、ほとんど声になっていなかった。彼女はそれに気づかずに、せっせとチキンカツ定食の準備を始めていた。再び英雄の顔は青ざめた。

 こういうとき、英雄は人に間違いを指摘するということが出来なかった。そのことで相手の気分を害させてしまうことを極度に恐れていたからである。英雄は自分の渡した食券がB定食のものであることを改めて言い出すことが出来ず、いっそしらばくれてそのままチキンカツ定食を食べてしまおうかとも考えた。だが、そういうわけには行かないとすぐに思い直した。チキンカツ定食はB定食より五十円高かったのだが、ここで間違いを訂正しないまま実際に自分が払った金額より五十円高いチキンカツ定食を食べるようなことでもすれば、自分が完全に盗人になるように思えたのだ。さらに、そのことを後々学生食堂のスタッフに気づかれでもしたら、とんでもない事態になるように思えた。それこそ、どれだけ軽蔑されても罵倒されても仕方なくなると思えたし、しらばくれた廉で実際に警察に逮捕される事態になるかもしれないとさえ思えたのである。

 英雄がそうしてぐずぐずしている間にも、チキンカツ定食の用意は手際よく進められ、すでにご飯とみそ汁の盛り付けが済んでいた。英雄は一刻も早く間違いを訂正しなければならないと焦っていた。チキンカツ定食の用意が整ってから間違いを指摘しても遅いように思えたのだ。そうなれば、今度はぐずぐずして間違いをすぐに指摘しなかったことを、調理場のスタッフたちからこっぴどく怒られる事態になるような気がしたのだ。英雄はそういう事態だけはなんとしても避けたかった。

 かくして英雄は覚悟を決め、拳を握りながら目をかっと大きく見開き、カウンターから身を乗り出すような恰好になって叫んだ。

「ビ、……ビーテーショク!」

 甲高く響いた英雄の声に、調理場の中で作業をしていたスタッフ達は、皆驚いてしばし手を止め、英雄の方を見た。

「え? B定食?」

 英雄から食券を受け取ったスタッフの女性が、英雄の方を見ながらそう口にし、改めてもう一度確認するように英雄に訊ねた。

「B定食でした?」

 英雄は無言で小刻みに何度もうなずいた。彼女は少し慌てて英雄の差し出した食券をもう一度確認した。それから、彼女は

「チキンカツ定食ですよ……」と、少々訝るように言い、英雄にその食券を見せた。そこにはっきりと「チキンカツ定食」という文字が表示されており、英雄はそれを確認すると、ただ呆然と目を丸くした。

 事の次第はこうだった。英雄はB定食のボタンを押したつもりで誤ってその隣にあったチキンカツ定食のボタンを押していたのだが、英雄はその事態をすぐには把握できなかったのである。狐につまされたような顔をしたままの英雄に、スタッフの女性は今一度英雄に確認した。

「B定食でしたか?」

「……あ、はい。そ、そのはずなんですが……」

 英雄は何度も小刻みにうなずきながらそう答えた。

「おかしいわねえ……」

 彼女はそう言いながら首を傾げ、少し考え込むようにしてから食券を手にしながら再度英雄の顔を見て訊ねた。

「確かに渡してもらったのはこれだと思うんですけどねえ……」

「……はあ」

 相変わらず腑に落ちない表情のままの英雄に、彼女は考え込むように首を傾げ、しばし沈黙を挟んでこう言った。

「……B定食のところにこれが紛れちゃってたのかなあ。……それか、あなたがボタンを押し間違えたとか。……それしか考えられないですね……」

 英雄はそこまで言われると、ようやくのことで事態を飲み込んだ。券売機のボタンを押そうとする際にひどく慌てていたことを思い出すと、途端にB定食のボタンを押したという確信が持てなくなった。それまでも英雄はこういう失敗をよくやらかしており、ボタンを押し間違えることは慌てている時の自分ならいかにやってしまいそうなヘマに思えたのだ。ここで、英雄は食券を買った際にお釣りをそのまま右ポケットにしまい込んでいたことも思い出して、「あっ!」と、目を大きく見開きながら声をあげ、急いで一旦ズボンの右ポケットにしまっていたお釣りを弄り出した。そして、そのお釣りを手のひらの上に乗せて金額を確認したところ、何度数えなおしても、券売機に投入した千円からチキンカツ定食の値段を差し引いた額だった。

「アヘェー……」

 英雄は再び苦しそうなため息に似た声を出し、苦笑を浮かべながら顔を真っ赤に染めてから、

「す、すみません。どうやら押し間違えたようです」と言い、頭を下げた。その一部始終を見守っていたスタッフの女性は、少し呆れつつも安堵したような微笑を浮かべて、

「多分、そうだと思うんですけどね」と言ってから、

「このままチキンカツ定食でも大丈夫ですか? それともB定食に変えます?」と、英雄に確認した。

「……あっ、いや、こ、このままで大丈夫です。本当にすみませんでした」

 英雄はそれ以上彼女の手を煩わせることはとても出来なかった。すでに英雄の後から学生食堂に入って来た学生数名が、続々と食券の購入を済ませ、英雄に続いて調理場と食堂の間のカウンターに並びだしており、他のスタッフがそれに忙しげに対応し始めていたところだったのだ。

 英雄は自分のそそっかしさにつくづく嫌気がさしていた。しかし、思わぬ幸運も転がり込んできていた。英雄にとって、豚カツほどではないがチキンカツもかなりの大好物で、チキンカツ定食は長らく高嶺の花のメニューだった。一度は食べてみたいものだと常日頃から思いつつ、これもまたなかなか食べる勇気が持てなかったのである。

 英雄の目の前で、キャベツ、レタス、そして胸肉を使った大きなチキンカツがお皿の上に手際良く盛りつけられ、チキンカツに少し透明がかった照り焼き風味の特製のソースがかけられてから、仕上げにレモンが一切れチキンカツの傍に添えられた。英雄は未だ手を震わせながらも手にしていたお釣りの小銭を財布にしまいつつ、その過程を眺めていた。香ばしく黄金色に輝くチキンカツは、英雄の唾液腺を大いに刺激した。

 英雄は思わず込み上げてくる笑みを懸命に押し殺していた。憧れのチキンカツ定食を口にする機会が思いがけず到来したのだ。ただ、英雄はそのことに対して幾らかの後ろめたさを覚えざるを得ず、正当化をしなければならなかった。

『……これからチキンカツ定食を食べるのは、決して己の意地汚い欲望を満たす為ではない。厨房のおばさん達に面倒をかけないためにも、僕は今ここでチキンカツ定食を食べる以外はないのだ。……もしかしたら、これは僕がいつも我慢していることに対しての何かの御褒美なのかもしれない。いや、これはあるいは天命なのかもしれない。僕はボタンを押し間違えるように導かれたのだ。……そうだ! 僕は今ここでチキンカツ定食を食べなければならないという天命を賜ったのだ! それを拒否するわけにはいかない……』

 英雄がそのように言い訳を頭の中で巡らせている間に、チキンカツ定食の用意が整った。

「はい、どうぞ」

「あっ、どうも」

 英雄は、スタッフの女性から差し出されたチキンカツ定食の乗ったトレーを、はにかみながら受け取った。それから、そのトレーを手にゆっくりと百八十度身体の向きを変えて、食べる場所を探すべくきょろきょろ学生食堂を見渡した。向かって一番奥の左端に、誰も座っていない大きな長テーブルが一脚あった。食べる場所はその長テーブルと決まった。英雄は懸命に笑みを押し殺し、努めて不機嫌そうに顔をしかめ、決して転ばないように用心深くゆっくりとその長テーブルへと歩いて行った。

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