四
英雄は気を取り直して学生食堂に向かうことにし、一度深呼吸をしてから歩き始めた。まだ学生食堂は混んでいると思い、辿り着くまでに少しでも時間を潰したかったので、なるべくゆっくり歩こうと心掛けたが、自然と足が早くなった。英雄は少し顔をうつむかせ、誰とも目が合わないように視点をやや下げて、いかにも落ち着きのないせわしない早歩きでキャンパスのメイン通りを進んでいった。英雄が人混みを歩くとき、大抵はそんな歩き方になった。
英雄が向かった学生食堂の入っている建物は、キャンパスの南側にある正門の傍にあり、サークル棟からは最も離れた場所に位置し、距離にして三百メートルほどあった。キャンパスのメイン通りは、昼休みということで、学生達が行き交う姿で華やいでおり、とりわけ女子学生たちの闊歩する姿は英雄の目を大いに眩ませた。
英雄が百メートル程歩いたところで、数十メートル先に、ひと際背が高い一人の女子学生の姿があることに英雄の目が止まった。英雄の胸は否応なしに高鳴った。英雄はその彼女のことを二年前から時々見かけるようになり、それまでも数度すれ違うことがあった。髪は黒のセミロングで、色白で目鼻立ちも癖がなく端正に整っており、英雄はその容姿にほんのり胸を焦がしていた。名前も学年も所属学部も知らなかったが、彼女が人文学部棟に入って行くところを英雄は一度見たことがあった。英雄が彼女を見かける時、彼女は大抵独りで歩いていたが、親しい友達がいなかった英雄はそのことに幾らかの親近感も覚えていた。
その日の彼女の服装は、上は白い長袖のカジュアルシャツで、下は丈がひざ上くらいまでの水色のタイトスカートというものだった。グレージュのフラットシューズを穿いており、左肩には白いトートバッグが掛かっているのも見えた。彼女は少しうつむき加減でずんずんと英雄の方に向かって歩いて来ており、遠目からも滑らかで優美な身体の輪郭がはっきり見て取れた。
彼女との距離が縮まるにつれ、英雄の一挙手一投足はぎこちなくなっていった。英雄の視線は、彼女の微風にさらさらとなびく髪、豊かそうな胸の膨らみ、スカートの下から長く真っ直ぐに伸びた脚線美へと繰り返し舐めるように移動したが、十数メートルまで近づくと、英雄は顔を少し横に向け努めて視線を逸らした。彼女に警戒されたくないと思ったのだ。しかし、英雄は彼女の姿を見たいという欲望にどうしても勝てなかった。数メートルの距離まで近づくと、英雄は彼女の開いた襟元にちらりと目をやった。それから彼女の顔に視線を上げ、そこで彼女と目が合ったため、英雄は視線を慌てて左横に逸らしたが、彼女は英雄の視線を遮るように胸元を右手で少し覆うような素振りをし、少し顔をうつむかせ、澄ました表情で英雄の左横を通り過ぎていった。英雄は肩を落とすようにため息をついた。
『ああ、また負けだ。完全なる敗北だ。あの美を前にしてはまるで無力だ。僕はこうしていつもあの艶々とした素肌に顔を埋めることばかり考えてしまうのだ。……まったくこの性欲ってやつはなんて厄介な代物なのだろう。この理不尽で不名誉な欲望を満たすためには、恥も外聞もかなぐり捨ててケダモノのように蛮行に手を染めなければならないのだろうか? 例え相手からどんなに汚らわしい存在と蔑まれ、忌み嫌われるとしても、物乞いをするように哀願しなければならないのだろうか? 相手に気に入られるためにどんな努力も惜しんではならず、どんな屈辱にも奴隷のように甘んじなければならないのだろうか? それが自然の摂理とやらで、オスに生まれた者の定めなのだろうか? ああ、それは僕の誇りを容赦なく打ち砕く。僕はこのような残酷で理不尽な摂理など到底賛美する気にはなれない。僕はただ憎い。性欲が、本能が、自然の摂理が……』
英雄はそう嘆きながら唇を噛みしめ、仰々しく悲壮感たっぷりに眉をひそめた。そのままさらに歩みを速めて、英雄は学生食堂の入っている建物の傍までたどり着いた。
その建物は、少し平たいコンクリートの二階建てで、全体にクリーム色の塗装が施されており、一階は学生食堂と売店。二階には書店とカフェが入っていた。その建物の向かい側には幅数メートル程のアスファルトの通路を挟んで芝生の広場があり、さらにその奥には、教務課のある濃い灰色をした五階建ての本部棟がそびえていた。芝生の広場の中央には白い大理石の円形の噴水が設置され、周囲には木目調の模様をした長細いベンチも数か所設けられ、多くの学生たちがその広場や学生食堂の入った建物の出入口付近を行き交っていた。
英雄は学生食堂の出入口の近くまで行くと、食堂の中を覗いた。中にはまだたくさんの学生の姿が見られたため、英雄はすぐに引き返した。
英雄はあと十分も経てば学生食堂は大分空いてくるだろうと見積もった。しかし、英雄はこの十分を大いに持て余すのである。英雄はまず書店で本の立ち読みをして時間を潰そうと思って建物の二階へ上がったが、同じサークルに参加している後輩の男子学生が雑誌を立ち読みしている姿を確認するや否や、ほとんど反射的に引き返した。彼に気づかれ、挨拶を交わし合ったりする事態になることを避けたかったのだ。英雄は特に親しいわけではないが顔見知りであるという中途半端に関係のある相手と遭遇することが苦手だった。無視するわけにもいかないが、どのように対応すると適切なのかも見当がつかず、そのような状況に戸惑うことが恐ろしく難儀に思えたのである。
英雄は次に図書館で時間を潰そうかと考えた。しかし、留年三年目という事実がその実行を阻むのである。落第ばかり繰り返している自分が図書館などへ行くことは、ろくに勉強をしていないくせに、勉強している体裁だけ取り繕うことのように思えたのだ。
英雄は途方に暮れていた。今しがた出てきたサークル室に戻るのはいかにも間抜けに思えたし、サークル室から出た直後、自分に向けられたと思われる後輩たちの「嘲笑」のことも思い出した。そんないたたまれない場所に進んで再び赴く気にはなれなかった。学生アパートの自分の部屋に戻ることも考えたが、まだ少し早すぎる気がした。学外の飲食店で昼食を済ませることも少し考えてみたが、英雄は学生食堂以外で外食はしないので、大学の周辺にある飲食店をよく知らないし、馴染みの無い店に独りで入って行く度胸も持ち合わせていなかった。ここで、売店でパンでも買って食べようとも考えるのだが、食べるための適当な場所が無いように思えてそれもすぐに却下。結局、学生食堂が空いてくるまでただ待つ以外ないように思われるのだが、英雄にはその十分程の待ち時間が恐ろしく長いものに感じられるのである。
『もうどこにも僕の居場所が無い……』
英雄はそう嘆きながら学生食堂のある建物の付近を行ったり来たりしながら、いかにも決まり悪そうにうろうろ徘徊していた。こういうとき、英雄は自分という存在が全世界からが爪はじきにされているような気がした。目の前を行き交う学生たちが皆哀れみと嘲笑の目で自分のことを見ているようにも思え、身体が紙切れほどの薄さに押しつぶされるようないたたまれなさを感じた。しかし、よくよく彼らを見てみると、誰も自分のことなど見てないことにも気づき、今度は自分という存在が、まるでそこに実在していない幻であるかのような錯覚にも陥るのだ。英雄の視界には、広場の噴水前の芝生で寝転んだりしながら楽しげに会話する学生男女数名のグループも入っていたが、そのような光景は永久に自分の手には届きそうにない青春の夢にも思えた。
すでに英雄の喉の奥ではヒックヒックと微かな嗚咽が起き始め、瞳も涙で少し潤みだしていた。英雄は今にもその場にしゃがみ込んで号泣してしまいそうな心持ちだった。英雄はキャンパスを独りで歩いている際、そうした心理状態に陥ることが多々あった。英雄は口をへの字に引き締めながら歯を食いしばって堪えたが、その日はいつにも増してなかなか感情の高まりに収まりがつかないように思われた。結局、しゃがみこんで号泣するという事態を免れるために、英雄は十分が経たぬうちに学生食堂に入ることを決断せざるを得なかった。
英雄はそっと深呼吸し、努めて傲然と眉をしかめ、学生食堂の出入口へと向かった。学生食堂の出入口の前まで辿り着き、中を伺ったところ、徘徊している間に大分学生の数が減っていたようだった。これならなんとか中で食事が出来そうだと英雄はひとまず安堵した。