二
新学期が始まり、すでに一ヶ月余りが経とうとしていた。その日は暖かく、早朝から清々しい陽気が街全体を覆っていた。ごみごみとした都会の街並みにも、家々の庭先や街路樹から青々とした若葉の匂いが微かに立ち込めていた。英雄は学生アパートの六畳の畳部屋で、小さな正方形のこたつテーブルに向かい、青ざめた表情で線形代数のレポート課題に取り組んでいた。
英雄はそれまでになく焦っていた。大学生活も七年目に入り、もう後が無いと感じていた。それにもかかわらず、レポート課題は提出期限間際にならなければ本気で取り組めなかった。英雄は前日の晩から睡魔と闘い、しきりに首をこっくり揺らしながらレポート課題にだらだらと取り組んでいた。普段、英雄は夜になかなか寝付けなかったが、試験勉強やレポート課題に夜通し取り組まなければならない状況に追い込まれている時に限って、猛烈な睡魔に襲われた。結局、英雄はレポート課題が全く捗らぬまま夜明けを迎え、気持ちにようやくエンジンがかかったのは、日が大分上ってからだった。英雄は一向に頭の中に入ってこないテキストの文章と数式を、何度も何度も目で追い、必死で問題を解いていた。
線形代数のレポート課題は、ほぼ講義毎に出された。担当の教授は、数学の世界では幾分名の知れた人物らしく、学生たちの間では鬼と評判だった。英雄はその教授の姿を思い浮かべただけで身震いがした。いかにも厳格そうな鋭い目つきをした白髪混じりの初老の男性教授で、常に薄グレーの背広を身にまとい、細い銀の丸渕眼鏡をかけていた。その教授は、毎回捻りのある問題をいくつも出題する上に、レポート課題が一度でも未提出であると、科目終了試験の受験資格を与えなかった。提出期限も厳格に守られた。試験も点数がわずかでも基準に満たなければ、容赦なくD評価を付けた。
英雄はその線形代数のレポート課題でいつも躓いており、線形代数を履修するはもう六度目だった。英雄以外にも一度の履修で単位を取得出来ない学生は少なくなかったが、英雄のように六度目という者はさすがに稀だった。
英雄は講義内容やレポート課題で解らないことについて、担当の教授に質問するなどして教えを乞うということが出来なかった。それはどの教科でも同様だった。質問などをして担当の教授からこっぴどく怒られる事態になることを極度に恐れていたからである。英雄は自分がこっぴどく怒られるものだと最初から決めてかかっていた。特に落第を繰り返すようになってからは、絶対的確信を以てそう思っており、自分がどれだけ罵倒されたり嘲りを受けたりしても仕方ないと思うと、それだけで脇汗がじっとり滲み、手足がガクガク震えてくるほどだった。
英雄には助力を乞えるような学生の仲間もいなかった。入学してから一年程は共に行動する仲間も二三あったが、結局彼らとも疎遠になった。学業を疎かにしていた引け目で、英雄の方から卑屈に遠ざけるようになっていったのだ。そんなかつての仲間たちもとっくに卒業しており、いよいよ孤立の様相を深めていた。
線形代数のレポート課題は、その日の正午までに提出しなければならならなかった。英雄は午前中に受ける予定だった講義を欠席し、レポート課題に取り組む時間に充てていた。もう昼近くになっていた。問題は全て解けていなかったが、とにかく提出だけはしておかなければと考え、英雄は外出の準備に取りかかった。洗面台で慌てて髭を剃ってから急いで着替えた。ベージュで細身のチノパンツを穿き、念入りにデオドラントスプレーを両脇に吹きつけてから、紺の長袖のポロシャツに腕を通した。ポロシャツのボタンは全てきっちり留め、チノパンツの中にポロシャツをしまい込んだ。それから、左手首にステンレスベルトの腕時計をつけて、黒いショルダーバックを中にレポート課題の解答用紙を突っ込んでから肩にかけ、焦げ茶色のナイロン製の紐靴を履きながらアパートを飛び出した。
英雄は、アパートから飛び出して十メートルほど歩くと、直角の曲がり角に差し掛かる辺りで近所の顔見知りの女性とばったり会った。彼女は英雄の住む学生アパートと道を挟んで向かいにあった小綺麗な二階建ての一軒家に住んでいた。二年前に、家族と共にその一軒家に引っ越してきていた。髪型はショートカットで、目がくりくりと大きく、身体つきは小柄でスマートだった。年齢は、英雄の見立てによれば、四十くらいだった。中学生と小学生の二人の娘がある様子だった。彼女は英雄と会った時はいつも感じ良く気さくに挨拶をしてくる人だったので、英雄は彼女に好感を持っており、淡いときめきさえも抱いていた。
英雄が彼女とばったり会った時、彼女の服装は、上は長袖の無地でグレーのカットソーで、下は淡青色のスキニージーンズというものだった。右手には白いビニールの買い物袋を引っ提げていた。彼女は英雄に気づくと、いつものように気さくに笑顔で挨拶をした。
「こんにちは」
「……あっ、どうも、こんにちは」
英雄は少しはにかんだ表情で視線を横に逸らしながら彼女にそう挨拶を返し、そのまま大学へと急いだ。
線形代数のレポート課題の解答用紙は、教務課の前の廊下に設置された専用の段ボール製の提出箱に入れることになっていた。英雄がふと腕時計に目をやったところ、わずかに正午を過ぎていたが、提出箱はまだ設置されていた。何とか間に合ったようだと英雄は胸を撫で下ろした。英雄は箱の中にレポート課題の解答用紙を投入すると、少し息を切らしながら廊下をゆっくり歩いた。
午後に受ける予定だった四限目の熱力学の講義まで二時間半ほどあった。英雄はそのまま一旦アパートに戻っても構わなかったが、大学に向かっていた途中で近所の顔見知りの女性とばったり会ったことを思い出した。学生アパートを出てきてから間もないのに、すぐに学生アパートに戻るのは少々間抜けな行動に思えた。英雄はそのような姿を彼女には決して見られたくないと思った。何しに出かけたのだろうかと怪しまれるように思えたし、そうなれば自分のだらしない生活態度を見透かされ、ひいては大学を留年していることも彼女に勘付かれてしまうように思えたからである。
英雄はアパートに戻ることは止め、大学の構内で時間を潰すことにした。まず学生食堂で昼食を取ることを考えてみたが、ちょうど昼休みに入った頃で、大混雑が予想された。特に春に新学期が始まってしばらくは、昼休みには溢れ出るほどの新入生でごった返すのが常だった。英雄は学生食堂へは向かわず、サークル棟へ向かうことにした。