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 当時、合田英雄は二十五歳だった。英雄は大学生で、通っていた大学の裏門近くにあった木造の古びた学生アパートで独り暮らしをしていた。

 英雄は見るからに弱々しい儚げな青年だった。身長は割に高い方ではあったが、手足が棒のようにひょろ長く、その佇まいはいかにも頼りない印象だった。髪は長かった。後ろ髪は肩まで達し、耳は髪で完全に隠れ、両目も前髪にもっさり覆われていた。髪はおしゃれで伸ばしていたわけではなかった。散髪に行くことが億劫でそれを先延ばしにしているうちに伸びたまでである。肌の色は青白かった。頬は痩せこけ、髭剃り跡で常に顎から頬辺りまで薄ら青黒く染まっていた。お壷口で唇が薄かった。鼻筋はなかなか通っていた。目もぱっちりと大きく、その瞳の奥では時折夢見がちな少年らしい澄んだ憂いが仄めくこともあった。しかし、大抵誰が見ても、英雄の顔の印象はかなり地味でくすんでいた。

 英雄が通っていた大学を受験した頃は、受験競争が最も苛烈な時代だった。おそらく、英雄のそれまでの人生の中で絶頂の時期は、その大学に合格したことを知った頃だったのかもしれない。しかし、その後の英雄は一気に無気力と怠惰に落ち込んでいった。

 英雄は一九七五年の生まれである。英雄が育ち盛りだった頃は、昭和の終わりから平成の始め頃にかけての時代である。生い立ちは至って平凡だった。少なくとも表面的にはこれといった特徴もなければ問題も見受けられなかった。英雄が生まれ育った家庭は、当時の典型的な日本の核家族だった。家族構成は、英雄の他に、大手企業に勤めるサラリーマンの父親、専業主婦の母親、年子の姉一人だった。

 英雄の実家はある地方都市の少し外れにあり、英雄の通っていた大学からは百数キロ離れた隣の県にあった。英雄はそこで生まれ育ったわけではない。英雄の父親は転勤が多く、英雄も中学を出るまで転校を三度経験した。父親がマイホームを建て、一家がその地に落ち着いたのは、英雄が大学に入学して間もなくの頃だった。

 英雄は幼少の頃より素直で従順な息子であり生徒だった。特に目立った反抗期も無く、学校の成績もそれなりに良好だった。所謂良い子だった。ところが、大学生となってからは、何かがふっつり切れてしまったように学業には身が入らなくなったのである。それでも、大学生活の最初の一年程は講義にはほとんど休まずに出席していたのだが、二年目になると次第に講義もさぼるようになっていった。それからというもの、英雄の成績評価にはDの文字ばかり目立つようになった。大学生活が七年目を迎える頃になっても、未だ卒業の目処がつかず、習得出来ている単位数も卒業に必要な数の半分にも満たないという有様だった。

 英雄は工学部の機械工学科に籍を置いていたが、専門科目の講義内容はほとんど理解していなかった。理解しようという情熱も無く、講義中も上の空だった。機械工学には全く関心が無かった。英雄が理工系の学部を進路に選んだのは、幼少の頃より文系より理系タイプだと父親に言われていたからである。英雄はその言葉に特別疑いを持つこともなく、そういうものなのだと自分でもぼんやり考えていた。機械工学を専攻したのは、「機械」という言葉の印象から、理工系の中では最も代表的でポピュラーな分野であると、何となくイメージしていたからである。専攻は何でもよかったのだ。大学に入れさえすれば、後はどうにでもなると高を括っていた。大学では具体的に何を学ぶのかとか、大学卒業後はどのような職業に就くかなど、将来についての現実的な目標は持っていなかった。

 ただ、英雄は高校時代から文学や哲学に関心を持つようになり、大学では文学を学びたいと考えていたこともあった。だが、英雄はそういうことをただ考えるだけだった。大学入学後も、同じ大学の人文学部に転部することを考えたことはあったものの、実行してみようとは思いもよらなかった。英雄にとってそういう考えはほとんど夢物語にさえ感じられた。

 英雄はすっかり怠惰な学生になっていた。本業の勉強はそっちのけで、文学書や哲学書ばかり読み耽っていた。英雄は近代ヨーロッパの文学や哲学を好み、特にニーチェがお気に入りだった。時折、ニーチェを真似て箴言めいた文章の断片をこっそり大学ノートに認めてみたりすることもあった。いずれは文学の世界で歴史的偉業を成したいものだと、空想に胸を高鳴らすこともあった。

 しかし、英雄は常に焦燥感と後ろめたさに苛まれていた。英雄は生来生真面目な性格で、大学に入るまでは真面目にやってきたという自負もあった。学業を疎かにして落第を繰り返すという状態にあることは、大いに心苦しかったし、屈辱的でもあった。大学中退ともなれば、それは全うしなければならない人生の義務を途中で放棄することにも思えたし、人生の中で決定的ともなる敗北的脱落をも意味していた。留年が決まっても、両親からは変わらず学費や生活費の支給も受けていたが、そのことに対しての心咎めも大いに抱いていた。そのため、英雄は懸命に気持ちを奮い立たせてみるのだが、その気持ちはどうしても長続きしなかった。特に新学期が始まる頃になると、このままではいけないとばかりに奮起するのだが、一か月が過ぎる頃にはすっかり気持ちが萎えていた。

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