魔法国家騒動記51
あれは、いつのことだっただろうか。
彼と自然に話ができるようになっていた頃だから、多分私が十五歳になったばかりの頃だ。
相変わらず、アレックス・ガーラントは十日に一度ほどのペースで、私の授業が終わる頃会いに来た。目立たないようにか、平民の平服のような格好で。それでも、整い過ぎるほど整った顔立ちと洗練された立ち振る舞いから、只者ではないことは周囲にバレバレだったんだけど。
いつものように、人の目の少ない河原の片隅で話をするために移動していた時だった。石に躓いて転んだ私は、割れたガラスの破片で結構思い切り掌を切ってしまった。
「大丈夫か? すぐに治癒してやる」
何故か怪我をした私よりも動揺しながら、彼はポケットから魔石の手袋を取り出した。
「あ、平気です。自分でできますから」
彼より早く自分の手袋を嵌めた私は、怪我をしたのとは逆の手を傷口に翳した。すぐに血は止まり、赤く染まった掌から傷口がみるみるうちに消えていく。
「私、治癒は結構得意なんですよ。特に、自分の傷だったらあっという間に治せるんです」
ところが、得意気に言う私を無視して、彼は傷の治った私の手を掴むと、じっと傷口の跡を凝視していた。
「どうしたんですか?」
「いや、何でもない」
ほんの少しだけ、彼の声は掠れていた。
その後、いつものように他愛のない話をし、夕日が周囲を茜色に染める頃、いつものように別れた。
別れ際、彼は真剣な目で私を見つめて言ったのだった。
「……あまり怪我をしないように気をつけろよ。それと、治癒が得意だなんてことは言わないほうがいい」
「え? なぜですか?」
「……利用される可能性があるからだ。とにかく、黙っていたほうがいい」
彼がなぜそんなことを言ったのか、ハッキリ言って意味が分からなかった。けれど、分からないなりにも、私は彼の言う通りにしようと思った。
今なら分かる。彼はあの時、私の傷が普通の治癒能力だけではなく、自然治癒によって塞がったことに気付いたのだ。
その後、きっと彼は、次兄でありすでに研究者となっていたクレイヴに報告したのだろう。だから、クレイヴも私の異能のことを知っていて、研究の実験体として私を手に入れようと画策していたらしい。
そう言えば、あの怪我の後、彼は、魔導科学研究所から分不相応の誘いが来たら、人体実験にされる可能性があるから断るように、なんて意味不明な忠告をしたりしていたな。
その後、間もなく就職活動が始まり、何故か私は採用試験に落ち続けた。それとほぼ同時に、彼は私に会いに来なくなり、偶然街を警邏中の彼と会っても無視された。
私の特異能力に気付いた彼が、私の身元まで調べ、ウィル自治区出身者だと知ったのはその時だったんだろう。
彼の妨害がなければ、ひょっとしたら私はクレイヴの策略で魔導生物研究室に引き抜かれ、訳も分からないままに人体実験の実験体にされていた可能性が高い。
ひょっとして、それを防ぐために、私をウィル自治区に追い返した……?
私も王都には戻れなくなってしまったけれど、クレイヴもウィル自治区にまで手出しすることはできないのだから。
なのに、何も知らない私は、彼に罵詈雑言を浴びせ、彼からもらったネックレスを引きちぎって投げつけた。
けれど、彼はそれを拾って修理し、ずっと持っていてくれたんだ。
例え、彼の分かりにくいその優しさが、異能によってもたらされた呪いのせいであったにしても、感謝すべきことだった。
だから、彼の命を救おうとして死ぬことに後悔なんてない。
でも、できることなら、もう少し彼の傍にいたかった。
暗い闇の底に沈みながらそんな儚い願いを抱いていた私を、不意に温かい光が包み込んだ。
……戻ってこい。
囁くようなその声は、しっかりと私の耳に届いた。
目を開けると、見慣れた特警隊の宿舎の天井が目に入った。
「……あ、れ?」
何かとても長い夢を見ていたような気がする。寝過ぎたのか、頭が重くて体がだるい。
夢だった……?
どこからどこまでが?
視線を横にずらすと、窓から差し込む朝日に煌めく白銀の輝きが目に入った。
げっ……?
思わず悲鳴を飲み込んで、ゆっくりと体をずらす。
私が眠っていたベッドの傍らに膝を付き、枕元に突っ伏す格好で、泣く子も黙るガーラント師団長が眠っていた。
彼が寝ている私を見ていることは何回かあったけれど、この人の寝顔を見るのは初めてじゃないだろうか。
切れ長で鋭い目、というイメージが強かったが、こうやって閉じていると意外と睫毛が長いのが分かる。
彫刻のように整った寝顔なのに、そこから普通の人と変わらない寝息が聞こえてくるそのギャップが可笑しくて、私はにやけながらその顔をじっと見つめていた。
と、突然、コンコン、とドアを叩く音がした。
私は咄嗟に目を瞑り、寝ているふりをした。目を覚ましたガーラント師団長に、寝顔を見てにやけていたと知られたくなかったからだ。
大きく息を吸い込む音が聞こえ、ベッドがキシッと音をたてた。目を瞑っているから分からないけれど、きっと彼が目を覚まして起き上ったのだろう。
「師団長、フレドリック・リーディアです」
ドアの向こうから声がする。
「……入れ」
「失礼します」
ドアが開く音がして、フレドリックが部屋に入ってきたようだった。
「どうですか? メウルの様子は」
「まだ眠っている」
いいえ、狸寝入りですよ~、と、ガーラント師団長に聞かれたら本気で殺されかねない台詞を心の中で歌う。表情を動かさないようにするだけで、とんでもない努力が必要だった。
「師団長もお疲れでしょう。あの人数とお一人でやり合って、その後もずっと彼女に治癒を施しておられたのですから。私が代わりますから、少しお休みになってください」
何と、ガーラント師団長は私の怪我をずっと治癒してくれていたのか。
彼としては伝説の魔術師と同じ能力を持つ貴重な人間を死なせる訳にはいかなかったのだろうと思いつつ、胸の奥の辺りから熱いものがじんわりと込み上げてきた。
「いや、大丈夫だ」
「しかし……」
「それより、アルヴァはどうだ。何か吐いたか?」
「具体的なことは何も。ただ、メウルを撃った後、彼女が自然治癒能力を発動しなかったことがよほどショックだったようですね。私にも何度も、本当に彼女は特異能力を持っているのか、と聞いてきましたから。仲間からの情報の信憑性を疑っている様子でした」
フッとガーラント師団長が笑う。
「いっそ、ガセだったと思い込ませるほうがいい。偽の情報を掴まされ、いいように利用されていただけだ、と。裏切られたと思ったら、口を割るのも早い」
「では、そのように。ところで、彼女の傷が自然治癒しなかった原因ですが、どうやらあの直前に治癒能力で魔力を使い果たしていたようです」
「何?」
「元特警隊隊長のオーランド・ガルスが、彼女に面会を求めています。治癒能力で命を救って貰った、その礼を述べたいと」
ガルス隊長が……!
息を飲んだ瞬間、ガタン、と何かがぶつかるような音がした。
「師団長?」
「何でもない。こいつの意識が戻ったら会わせると伝えろ」
「分かりました」
その後、事務的なやりとりがあって、ドアが開閉する音が聞こえた。フレドリックが部屋を出て行ったのだろう。
……うーん、いつまで寝てるふりをすればいいのやら。
このまま、ガーラント師団長に付き添いをさせておく訳にもいかない。自然に、今目が覚めましたよ、というふうに目を開けるしかないか。
「う……、ん」
ややわざとらしかったかも知れないけれど、私は小さく呻いてゆっくりと目を開けた。
「目が覚めたか」
ガーラント師団長の声は、これまで聞いたことのないほど穏やかだった。
いや、違う。疲れて掠れているんだ。
私なら、死にかけている人を治癒するのに魔力が空っぽになってしまうのに、彼は加えて五人の魔法騎士を相手に戦っているのだから。
それに、きっとあの騒ぎの事後処理の指揮もとっていたのだろう。さすがの白銀の悪魔も疲れは隠せず、ただでさえ色白の彼の顔が、やや青ざめて見える。
「大丈夫ですか?」
やや虚を突かれたように、ガーラント師団長は目を瞬かせた。
「それは、こちらが言う台詞だろうが」
「顔色が悪いですよ」
「そっちこそだ」
「ちょっと休んだほうがいいです」
「おまえこそ、もう少し眠ったほうがいい」
私もそんなに酷い顔色をしているのかな。もう十分寝たから大丈夫なのに。
「……お腹空きませんか?」
「そうだな」
魔力の欠乏には、寝る、食べるが一番だ。
「じゃ、何か貰ってきま……」
起き上りかけたものの、突然伸びてきた長い腕に両肩を抱かれるように押しとどめられてしまった。
「いいから、動くな」
「え、でも……」
まさか、ここに駐留している魔法騎士のトップに、食事の世話までしてもらうわけにはいかないじゃないか。
そんな私の遠慮などお構いなしに、ガーラント師団長はサッと立ち上がると、ドアを開けて外に向かって何か一言二言話をしている。どうやら、ドアの前には見張りの魔法騎士が立っているようだ。
そりゃそうだよね。なにせ、師団長の命が狙われたんだもの。しかも、同じ師団に所属する部下達に。警戒するのは当然だ。
ガーラント師団長が生きているということは、襲ってきた魔法騎士達を全員倒したということだ。アルヴァは生きて捕えられているようだけれど、あの後二人は戦ったのだろうか。さっきのフレドリックとの会話から察するに、アルヴァが何の目的で誰のためにあんなことをしようとしていたのか、二人にはすでに分かっているようだった。
白銀の髪が流れている広い背中をじっと見つめながらそんなことを考えていると、話が終わったのかドアを閉めて振り向いたガーラント師団長は、ほんの少し口元に笑みを湛えたように見えた。
「そんなに必死に私を見つめたところで、食事はすぐには用意できんぞ」
「なっ、……違います!」
そんなに私は飢えているように見えるのだろうか。確かに、禁断症状が出かねないくらい、お腹は空いているけれど。
「仕方がない。自然治癒の異能が止まるほど、魔力を使い果たしているんだからな」
ベッドの傍にある椅子に再び腰を下ろすと、ガーラント師団長は不意に表情を消して、金色の瞳でひたと私を見つめた。
「正直、お前が撃たれた時、すぐに自然治癒が始まると思っていた。アルヴァもそれを見越して、動かないお前を連れ去ろうとしていた」
「……そうなんですか」
「しかし、何かがおかしいと思ったのだろうな。ヤツは動揺して動きを止め、お前を残して逃げた。すぐに、駆け付けたフレドリックに取り押さえられたがな」
なぜ、その前にガーラント師団長を再び撃とうとせずに逃げたのだろう、と私は疑問に思った。
あ、でもさっき、フレドリックが言っていた。私が異能を表さなかったことで、きっと彼は仲間に対して疑問を持ち、動揺してそれどころではなかったんだ。
「で、なぜお前の異能が発動しなかったのか、という話だが」
「……えっ」
「オーランド・ガルスの命を救ったのか」
痛いほどに、金色の眼光と冷たい声が突き刺さる。
けれど、否定しようにも、さっきガーラント師団長はフレドリックから報告を受けている。今更、知らぬ存ぜぬは通用しない。
「……はい」
俯きながら小さく答えると、ややあって小さな溜息が落ちてきた。
「それが、どんな影響を生むかも分かっていてやったんだな」
「躊躇いがなかった訳ではありません。でも、目の前で失われようとする命を救う力があるのに、見捨てるなんてできませんでした」
「動機はそれだけか?」
そう問われて、ドキッとした。
「何が言いたいんですか」
「お前は、……あの男に特別な感情を持っているんじゃないのか」
地を這うようなガーラント師団長の声に、私はしばし呆然自失となった。
「私が、隊長の心を手に入れたいから、命を救ったと言いたいんですか?」
私は、怒りで声が震えそうになるのを必死で堪えながら、強い光を湛えてこちらを見つめる彼の目を睨み返した。
私は、ガルス隊長を治癒するのを躊躇ったのに。命を救った後、あんなに苦しかったのに。なのに、この人は、私に下心があったと思っているんだ。
他の誰か、例えば隊長や隊長の若奥様からそう疑われて責められても仕方がないと思っていた。でも、この人にだけは、そうではないと信じて欲しかったのに。
「そうじゃないのか」
そんな私の気持ちなんてお構いなしに、畳み掛けるように疑うガーラント師団長に、私は感情を抑えることができなかった。
「もういいっ! 勝手にそう思っていればいいじゃないですか!」
ハッ、とガーラント師団長が息を飲んだが、私は勢いよく寝返りを打って彼に背を向けた。撃たれた箇所と思われる左肩の辺りがズン、と痛んだけれど、息を止めて声を上げまいと我慢する。
悔しかった。私の気持ちを全然理解してくれていない彼に対して。そして、彼にそんなふうにしか思われていない自分に対して。
込み上げてきた涙が流れてシーツを濡らした時、ガーラント師団長の小さな溜息が聞こえた。
「以前も、お前にそんなことを言われたことがあったな」
けれど、漏れそうになる嗚咽を必死に堪えている私には、返事はできなかった。
「あの時は、私が間違っていた。お前は私の屋敷から逃げたのではなく、エヴァントに連れ出されて殺されかけていた」
ああ、そうだった。助けられたマーシュのアパートから連れ戻される時、馬車の中で私は同じようなことを彼に言った。
あの時は、この人は私のことなんか信じてくれない、と端から諦めていたから、別にどうでもいいやと思っていた。
でも、今は違う。彼の中で私がそういうレベルの女だと思われていることがとても辛い。実際、全然彼に相応しいレベルじゃない自分が情けなくて仕方ない。
「メウル、こっちを向け」
向かない。向ける訳がない。込み上げてくる感情でぐちゃぐちゃになって、空腹と魔力欠乏で訳が分からなくなっているのに。
「こっちを向け……、向いてくれないか、……頼む」
……今、幻聴を聞いたような気がする。
頼むとか言った? 今、向いてくれないか、とお願いされた……?
驚きのあまり涙が止まり、息を吐いた私の口から堪えていた嗚咽が漏れた。
「泣くな。……いや、泣かないでくれ。お前の動機を疑っているんじゃない。これは、私の感情の問題だ」
どういう意味だろう。というか、一体どうしちゃったんだろう。
ゆっくりと振り向くと、細くて長い指で流れた涙の跡を拭われた。
……はいぃ?
さっきまでとは全く違う意味で頭が混乱し、顔が真っ赤になっていくのが分かる。
「お前は以前から、あの男に惹かれていたのだろう? だから、……その、何と言えばいいのか、私は……」
ガーラント師団長は、私の涙を拭ったのと逆の手で自分の胸の辺りを掴むように押える。苦しげな表情は、見ているこちらが悶絶しそうなほどの色気を発し、私は思わず鼻を押さえた。
ああっ、申し訳ない。本当に申し訳ない。私がかけた呪いのせいで、あなたは私のような女にこんなに苦しい恋心を抱いて、こんなに悶え苦しんでいる。
なのに、こんな普段からは考えられない彼の一面を垣間見て、申し訳なく思う一方、内心嬉しくて仕方のない私は、本当に救いようのない愚か者だと思う。
それにしても、いつにも増して彼は呪いに抗えなくなっているように見える。これまでは、衝動的な行動はあっても、こんなに言葉や表情まで支配されることはなかったのに。




