34
「メウル様?」
肩を揺すられて、私はハッと目を覚ました。
部屋はすっかり薄暗くなっていて、手に持っていたはずの赤い表紙の本はいつの間にか文机の上に置かれていた。
魔導灯に明かりを点すと、ハンナは私に畳まれた上質の生地の服を差し出した。
「こちらが、ご希望でございました動きやすい服です」
「あ、ありがとう」
さすがはハンナ、仕事が速い。
「それから、庭での運動の件ですが、やはり好ましくないとクレイヴ様がおっしゃられていました」
「やっぱり」
「ですので、代わりの場所を手配してまいりました。少しここからは離れておりますが、乗馬の練習等もできますので、よろしいかと思います」
「乗馬?」
……いやいや、そんなの必要ないよ。
っていうか、嫌な予感がするんだけど。
「そこって……」
「はい。魔法騎士団本部の敷地にある、訓練場でございます」
ものすごく突っ込みを入れたい。何故、魔導科学研究所の庭で運動するのは駄目で、魔法騎士団の訓練所は大丈夫なのか、と。
最初はすごく疑問だったが、行ってみて納得した。
魔法騎士団本部の建物に隣接している訓練場はかなり広く、魔法騎士達が勇ましい号令と共に土煙を上げて訓練をしているその一角に、白い柵と植木に囲まれた小さなコースが設けられている。
そこには、華美な乗馬服に身を包んだ貴族の子女達が、ポニーや白馬に乗って優雅に乗馬を楽しんでいる姿があった。
「午前十時迄と午後三時以降なら、王族の方々はこちらを御使用になられませんので、その間でしたらご自由にお使いくださいとのことです。魔法騎士団の厩舎係りに言えば、馬も貸し出してくださるそうです」
案内してくれたハンナに説明され、遠目に優雅な乗馬の光景を眺めながら、私は小さく頷いた。
なるほど、今乗馬をしているのは、王族の方々なんだ。
「でも、私、乗馬がしたいわけじゃないんだけど」
っていうか、馬に乗ったことがない。
ハンナが用意してくれたのも、乗馬服だった。貴族の服装で、動きやすいものといえばコレくらいしかないのだろう。
「乗馬をなされないなら、一体どのような運動をなさりたいのですか?」
訝しげに、ハンナはこちらを覗き込む。
「走り込みを……」
言いかけて、ハンナの眉間に皺が寄りかけるのを見て止めた。
やっぱり、ここは王宮内だ。特警隊とは違う。王宮内で暮らしている以上、ここの常識から逸脱しない行動をとらなければならない。
「いいえ、何でもありません。乗馬をします」
馬を借りて、乗馬の練習をする振りをして、あのコースを自分の足で走ればいい。
魔法騎士の訓練場と乗馬コースとの間にある白い柵の外側には植木もあり、ちょうどいい目隠しにもなっていそうだし。
来るなら、やっぱり夕方かな、と私は計画を立てた。一通り私の研究が終わって、クレイヴが他の研究に取り掛かる頃からここに来れば、ちょうど午後三時くらいになりそうだ。
早速、その日の午後三時過ぎ、私は乗馬服にブーツといういでたちで魔法騎士団本部に向かった。
髪を一つに纏めて大きなリボンで結び、鍔の広い帽子を被る。日除け目的だが、これで顔も半分隠れる。
ガーラント師団長に遭遇する危険性もあるが、会っても会わなくても呪いの効果に変化がないというなら、気にしてもしょうがない。寧ろ、顔を突き合わせて嫌な思いをすることで、心が離れることもあるだろう、と開き直ることにした。
魔法騎士団の厩舎に声を掛けると、制服を着た初老の男が、ニコニコしながら小柄な馬を引き出して貸してくれた。
私はおっかなびっくりその馬の手綱を持ってコースへ向かう。馬は、初心者に扱われるのにも慣れているのだろう。暴れることもなく、私の誘導に従ってコースへ入ってくれた。
私はすぐに柵に手綱を結びつけると、ホッと息を吐き出した。
「さてと……」
柵と植木の間から垣間見える隣接した魔法騎士団の訓練場は、人も疎らだ。大体、ここで訓練が行われるのは午前中と、午後の早い時間帯のようだった。
私は周囲を見回しながら、コースを歩いて一周してみた。どうやら、裏手の鬱蒼と茂った小さな森に面した直線は、表の道からも訓練場からも見えにくい場所になっているようだ。
走るならここだな。
私は、借りた馬の陰に隠れるように、入念に身体の筋を伸ばした。訓練には、入念な準備運動が必要だ。でないと、すぐに故障してしまう。……あ、それも自然治癒ですぐ治ってしまうんだろうけど。
久しぶりに筋肉を伸ばすと、何ともいえない清々しさだった。思わず、後ろに反り返りながら、「あ゛ー」と声が出てしまう。
準備運動を終えると、私は駆け足を始めた。最初は、歩いているのと変わらないくらいの速度で。それでも、数日訓練を休んでいた私の筋肉は、しばらくするとだるさを覚え始める。
部屋の中でも、腹筋や腕立てをやったほうがいいかも。
そう思いながら、今度は八割ほどの力で走ってみる。その勢いで帽子が脱げそうになり、慌てて鍔を両手で押さえながらの走り込みだ。
……うっ。キツい。
直線を端から端まで走り、私は思わず膝に手をついて荒くなった息を整えた。
思った以上に、体力が落ちている。
そこで、はたと思い出した。そういえば、獅子門前広場での襲撃の後、私たち第八小隊は魔力充填係と化し、半日ほど歩き回る警邏の任からも外れ、ひたすらじっと座っての作業を行っていた。
王都に来てからの数日だけじゃない。もっと長いブランクがあったのだ。
これはマズイ。
私は、額から流れ落ちる汗を拭うと、再び元来た直線を駆け戻る。
そうやって三往復ほどしただろうか。
放って置かれて、困ったように首を下げる馬の足下に座り込んで息を整えていると、不意に声を掛けられた。
「驚いたな」
ぎょっとして顔を上げると、植木の間の僅かな隙間から、クリーム色の髪をした魔法騎士が、柵にもたれてこちらを見ていた。
「乗馬コースで、馬を走らせずに自分が走っている御方を見たのは初めてですよ」
可笑しくて仕方ないのを、必死で堪えている顔だった。
……やばい、見られた。
私は慌てて立ち上がると、馬の手綱を柵から解いた。
これが噂になってクレイヴの耳にでも入ったら、それこそどんな嫌味を言われるか。それどころか、二度と魔導科学研究所から外に出して貰えなくなるだろう。
顔を見られる前に、速やかにここを離れる。それしかない。
「ちょ、ちょっと待って」
背後から呼び止められたが、無視して厩舎へ向かおうとすると、ザザッと植木が擦れる音がした。思わず振り返ると、魔法騎士が植木の間に強引に身を割り込ませ、柵に長い足をかけて乗り越えてくるところだった。
……げっ。ちょっと、何してんのよ。
魔法騎士はそのまま、逃げようとする私の前に立ち塞がると、馬の轡を取った。
「ひょっとして、君、馬に乗れないの?」
痛いところを突かれて、私は返答に窮した。例えそうだとしても、馬の代わりに自分が走る人などいないだろうに、この男はそんなことを聞いてどうするつもりなのだろうか。
「もし仮にそうだとしたら、何だっていうんですか?」
「もしよかったら、私が教えてあげてもいい」
……冗談じゃありません。
「いえ、結構です」
私は帽子の鍔で顔を隠すように俯き加減で向き直りながら、首を横に振った。
「遠慮なんかしなくていい。馬に乗れないことが恥ずかしいのなら、黙っていてあげるから」
……黙って?
魔法騎士の言葉に、ぴくりと自分の眉が動くのが分かった。
「……じゃあ、私がここで走っていたの、黙っててくれます?」
「え? あ、ああ、勿論。ということは、私に乗馬の手解きを受けるということでいいね?」
交換条件ですか。気乗りはしないけれど、背に腹は変えられない。
乗馬の技術を身に付けても、特警隊には馬もいないし、騎馬隊を組織する予算もない。けれど、まあ、馬に乗れないよりは、乗れるようになっていた方が将来何かの役に立つかも知れない。
それに、意外と運動にもなるかもしれないし。
「……お願いします」
小さな声で答えると、魔法騎士は満面の笑みを浮かべた。笑うと、まるで子どものようになる純粋そうな青年だった。年齢は、ひょっとしたら私よりも若いかも知れない。
「私の名は、フレドリック・リーディア。魔法騎士団第二師団に所属している。君は?」
「私は……」
答えようとして、私は言葉を詰まらせた。
今、何かとんでもない情報を耳にしたような気がする……。
つーっ、と私の背を生ぬるい汗が流れ落ちていった。




