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その後、庭園を見回っていた衛兵に泣いているところを見つかり、内宮の侍女と勘違いされて連れていかれそうになったところを、駆けつけたクレイヴに助けられた。
「……全く、君は何を考えているんだ。……っていうか、酷い顔だな」
心配する訳でもなく、私のグチャグチャになった顔を見て爆笑する彼に、私は何だか少し救われたような気がした。ここで、何があった、どうした、と心配されたり事情を聞かれたりしたら、また涙が溢れ出して止まらなくなりそうだったから。
クレイヴが衛兵に事情を話し、私達は建物の外を通って正面玄関側に回り、魔導科学研究所に戻ってきた。
「君の研究は、明日からとする。とにかく今日はゆっくり休んでくれ」
とうとう、事情を聞かないまま、クレイヴはそう言って私を魔導生物学の研究棟にある私の部屋まで送ってくれた。
入れ替わるように、ハンナがやってくる。彼女も無言のまま、私がドレスを脱ぐのを手伝い、これから夕食を用意すると伝えてすぐに出て行った。
下着姿になった私は、ベッドの上に用意されていた夜着と替えの下着を手に取ると、浴室へと向かった。湯沸し用の魔石に魔力を注ぎこむと、ほんの僅かな時間で浴室に熱気が立ち込め始める。
湯船の湯の湯加減を確かめると、私は下着を脱いだ。髪を洗い身体を洗いながら、ふとガーラントのお屋敷で二人のメイドに体中を磨き上げられたことを思い出した。
あの二人だけじゃない、彼の使用人の誰もが、自分の主人が結婚できない原因がこんな女のせいだなんて思いもしないだろう。ある意味、エヴァントが取った行動は主に対する忠誠に適っていたのかも知れない。
泡に塗れた自分の身体を抱きしめ、私はまた嗚咽を漏らした。
もし、彼に二度と会わなければ、彼は私のことを忘れて他の女性と幸せになれるのだろうか。もしそうなら、私はもう絶対に、彼に姿を見られてはいけない。
ああ、でも、なぜそう思うと、こんなに胸が苦しくなるんだろう。これは、彼への負い目のせいなんだろうか。
浴室でまたひとしきり泣いて、ややのぼせ気味になりながら出てくると、部屋の中央に小さな丸テーブルと椅子が用意されていて、そこに布をかけられた皿が何枚かとお茶のセットが乗っていた。昨夜、鏡台に置かれている瓶に書かれていた注意書きと同じ文字で、『お好きな時に召し上がってください。食器は後で下げに参ります』と書かれていた。
布を取ると、パンが盛られた篭、数種の野菜とチーズのサラダ、柔らかい羊肉のシチュー等、豪華さはなかったが、彩りもよく充分な量の料理が並べられていた。
昨夜のユーリ殿下の忠告もあって、夜中にまた私がお腹を空かせてうろつかないよう、ハンナが気を遣ってくれたのだろう。
お茶をカップに注ぐと、私は椅子に腰掛けて食事を始めた。
昼食も、ドレスに着替えてから魔導生物学の研究室に行くまでの間にこの部屋で済ませたが、その時にはハンナが給仕をしてくれた。今は部屋に一人、やたら自分の立てる食器の音や咀嚼音が大きく聞こえる。
食べている最中も、訳もなく涙が流れ落ちてくる。何の予兆もなく、波のように苦しさが込み上げてきて、泣かずにはいられないのだ。
ごめんね。許して。許して。許して……。
涙を流しながら、唇を噛み締める。食べているものが、やたらとしょっぱく感じる。やっぱり、今、一人でよかったと思った。
胸が苦しくてとても食べ物など咽喉を通らないと思っていたけれど、どうやらそういうことはなかったようで、私は全ての料理を平らげていた。
お腹は一杯になったが、お昼前まで眠っていた私は、まだとても眠れそうになかった。それはそうだろう。外はようやく夜の帳が下りて星が瞬きだしたばかりの時刻だ。
それでも、何もやることがなかったので、私は早々にベッドに潜り込んだ。
予想以上に、泣いて体力を消耗していたらしい。私はいつの間にか眠ってしまっていて、明け方に目が覚めた時には部屋の魔導灯の明かりは消え、食器類は下げられ、丸テーブルは部屋の隅に片付けられていた。
翌日、泣き腫らした自分の顔を予想しながら鏡を覗くと、ちょっと白目が充血しているくらいで、普段と全く変わらない自分の寝起きの顔に私は思わず唸ってしまった。
自然治癒能力、恐るべし。
涙とそれを拭う摩擦によって受けた目周辺のダメージを、私の身体は寝ている間にちゃんと治してくれていたらしい。
でも、この能力のせいで、私は一人の人の運命を変えてしまったんだ、と思うとまた気分がどん底まで落ちてしまいそうだった。
いや、一人じゃないね。ごめんね、ヒーリィ。でも、あなたの場合は、結果的に堅気の世界に連れ戻すことになってよかったと思っている。できれば、私がいなくなっても特警隊で頑張っていてほしかったのだけれど。
という訳で、着替えて朝食をとった後、魔導生物学の研究室でクレイヴにウィル自治区に戻りたいという話を切り出したのだが、やっぱり呆気なく却下されてしまった。
「駄目だよ。そんな男のために君がウィル自治区に戻る必要なんてない。全くない」
取り付く島もない、というのはこのことだ。
「それより、今日の午後、また外宮に出掛けるよ。今度こそ、ちゃんと君を研究するお墨付きを陛下に頂かないとね」
どうやら、国王陛下から、昨日は約束をすっぽかしちゃってごめんね、今日の午後なら会えるけど、どう? 的なお知らせが来たらしい。……いやいや、そんな軽いもんじゃ決してないんだけど。
また、外宮に行かなくちゃいけないのか。
昨日のことを思い出して、私の気分はまたどん底まで沈んだ。
そんな私の気持ちなどお構いなく、クレイヴは十年来の目的であった念願の研究を開始した。
まずは、私に対する問診。傷が治る時にどんな感じがするのか、魔力はどの程度まで消費されるのか、複数怪我がある場合に片方が優先的に治癒されるのか、等々。
それから、指先をナイフの先で突っついて、血を採取された。
これは、能力者と能力者でない者のサンプルが膨大にあるらしく、それらと私の血についての違いを調べるらしい。どうやって調べるのかは、聞いたけれどさっぱりできなかった。
そして、その傷が治るまでの観察。
「……で、あいつと昨日、何があったんだい?」
ナイフで突っついた人差し指の傷を見えるように差し出しながら、ヒーリィのこととか、午後からまた外局にいかなければならないのか嫌だなーとか考えていると、クレイヴがニヤニヤしながら私の顔を覗き込んできた。
「べっ、……別に」
「んな訳ないだろう? あんなに号泣して、取り乱していたくせに」
「あれは、衛兵に後宮へ連れて行かれそうになって焦ったからで……」
焦って言い募りながら、言い訳は無理だ、と私は悟った。クレイヴは、絶対弟と何かあったと確信して言っている。
いや、すでにガーラント師団長から聴取済みな上で、私がどんな反応をするのか試そうと質問しているのかも知れない。
ガーラント師団長が鋭利な刃物なら、この人は棘のついた鞭みたいな人だ。どこからともなく伸びて絡みつき、しかも痛いところを突いてくる。
「……ガーラント師団長に、王都へ帰れるよう協力を求めたんです」
渋々、私は本当のことを話した。
「へえ。君も、酷いことを言うねぇ」
やっぱり、そうだったのか。この要求は、ガーラント師団長にとってそんなに痛いことだったんだろうか。
「凄い顔で拒否されましたけど」
「そりゃそうだろうね」
私は居た堪れなくなって、クレイヴを縋り付くように見つめた。
「やっぱり、マズかったんでしょうか」
「そりゃ、マズいだろ。分からない? あいつは、俺には逆らえない。それに、陛下にも存在が知れてしまった君をウィル自治区へ戻すなんてことも不可能だ。でも、君に頼まれればその望みを叶えたいという欲求に捕われる。板挟みだね。あいつにとっては拷問だ」
しかも、自分に呪いをかけた憎い女のせいで苦悩しなければならない、その辛さは半端じゃないだろう。
「……でも、いいんです。もう、二度とガーラント師団長には会いません。会わなければ、彼も他の人を好きになって……」
「それができれば簡単なんだろうけどね」
……え?
嫌な予感がして、私は眉根を寄せた。
「いや、他の人は知らないよ? 伝説の魔導師に心を奪われた全員が彼女以外の人に見向きもしなかった、という記録も残っていないし。ただ、君に会わずにいた十年間、あいつがどんな貴族のご令嬢と会っても心を動かすことがなかったのは事実だ」
……絶望的。
私は体中から血の気が引いていくのが分かった。
私が彼の命を救ってしまったことで、彼が純粋な恋も知らず、人を心から愛することもできず、独身のまま寂しい老後を迎えることになってしまうとしたら……。
かといって、私が代わりに妻になります、なんて絶対無理だ。彼は私を心底憎んでいるし、私だって一方的な呪いで彼の心どころか生活まで支配するのは嫌だし、第一上流貴族であり保守派の筆頭であるガーラント家に、例え三男の嫁とはいえ、ウィル自治区出身者が迎えられるなんてありえない。絶対にありえない。
「何か、面白いことを想像しているみたいだね」
クレイヴは含み笑いを浮かべながら、私を見下ろしている。
「べっ、別に……」
ガーラント師団長が結婚できないなら、私が代わりに……なんて浅ましいことなんて考えてません! いや、……ちょっとは考えたけど。
己の醜い考えを必死で否定する私を見下ろしながら、クレイヴは何かを企んでいる様子だった。それが何なのか、私に判るはずもない。
けれど、ガーラント家の次男は、三男同様行動が早かった。
その日の午後、再び外宮へ足を踏み入れた時、私はそれを思い知ることになるのだった。
一部、誤字を修正しました。




