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マーシュの手作りスープは、女である私が恐れを抱くほどの絶品だった。いや、ドン引きである。独身男がこれだけ料理がうまくなるなんて、君はどんだけ寂しい日々を過ごしているんだ。
片や同じ独身でも、寮生活で三度の食事を食堂のおばちゃんに完全依存していた私は、まともに包丁すら握ったことがない。
あ、そうか。こんな女と好き好んで結婚したい男もいないわな。結婚できない負の理由が、また一つ明らかになってしまった。
「どう? おいしい?」
本来なら女が言うべき台詞を吐いて、マーシュはにこにこ微笑んでいる。
こうして見ていると、やや頬はこけているものの、やっぱり当時学校一モテていた彼の面影はなんとなく残っている。
というより、このぐらいの顔の方が、見ていて落ち着く。隊長は別格だから置いておくとして、ヒーリィやガーラント兄弟なんて、顔立ちが整いすぎていて凄みさえ感じさせるから、逆に怖く見えるんだよね。
私は、マーシュのシャツを借り、激痛に耐えながら何とかそれを着た。それから背中に枕を当ててもらって何とか上半身を起こし、今は彼にスープを飲ませてもらっている。所謂、『あーん』状態だ。
「うん。おいしい」
私が頷くと、彼は子どもの頃の笑顔そのままににっこりと笑った。
スープが咽喉を通って胃に流れ込むのがはっきり分かる。そして、その温かさが身体全体に染み渡っていく。温まった血が身体を巡り、その箇所から再び魔力が染み出して傷口を覆っていくような感じがした。
よしよし、順調に回復し始めてる。
一人、そんな感覚に浸りながら、餌を強請る雛鳥よろしく、私は皿のスープを全て飲み干していた。
「もっと飲む?」
「……いいの?」
「いいよ。ちょっと待ってて」
マーシュはベッドの側に置いた椅子から腰を上げると、部屋を出て行く。
彼がいなくなると、私はそっと掛け布団の上に手を置いた。
指が飛ぶかと思うほど滅多刺しにされたのに、今では傷口に新しい肉が盛り上がり、蚯蚓腫れのような線になっている。
他の傷も同様に、もう痛みもほとんどない。でも、それはあの執事に斬られた傷に鍵ってのことだ。川を流されている間に、川の中のいろんな障害物に当たってできた打ち身、それから恐らく骨折してるんじゃないかというほど痛い右足の回復は後回しにされている感が否めない。
ま、昨日の夜も碌に食べてなかったし、魔力が尽きていたんだから仕方ないよね。
けれど、これで分かったことがある。私の身体は、いくら自分の怪我が完全に治っていなくても、魔力の限界を超えて治そうとはしないということ。魔力だだ漏れではなく安全弁が働くなんて、なかなか賢いのではないだろうか。
マーシュの住まいは、下町によくあるアパートメントだ。私の記憶にある一般的な単身者向けのものを基準に考えると、二間続きの間取りで一間には台所や水周りなど、もう一間は寝室用になっていると思われる。
隣の部屋から戻ってきたマーシュは、また椅子に腰掛ける。湯気が立ち昇るスープが並々と注がれた皿を膝に置くと、彼はまた私の口元にスープを救った匙を差し出す。
「料理、うまいんだね」
スープを飲み下しつつそう言うと、マーシュは自嘲するように笑った。
「仕事だからね。自然と身についたんだ」
「えっ……? 仕事って、魔石加工場の技術者じゃなかったの?」
「とっくに辞めた。というか、辞めさせられたっていうのが近いかな。もう、五年近く前の話だよ。今はこの近くの大衆食堂で料理人をしている」
私は何も言えず、マーシュの寂しそうな笑みを見つめていた。彼がスープを掬った匙を掲げて口を開けるようにと急かすも、私の食欲は一気に失せていた。
それで、彼はこんな生活をしているんだ。彼の自信なさげな猫背気味の背も、若々しさが失われたコケた頬も、よれよれの服も、それで合点がいった。……何とも寂しい納得だったけれど。
「何で、って、聞いてもいい?」
私は、思い切って口を開いた。
「だって、マーシュって優秀だったじゃない。魔石加工場の技術者って、向き不向きがあって、それなりの才能がないとなれない職業でしょ? 採用されたら一生安泰だって話だったし」
「生まれや身分も関係ない、実力の世界だって、俺も思っていたよ。そう聞かされていたしね。でも、違った。どんな世界だって、そこにいる人間が価値観を形成するんだ。職人だって人間だからね。好きや嫌い、気が合う合わない、気に入る気にくわない、そしてそこに身分や出身地の問題が絡み合って、問題が起きる」
で、早い話が、俺は負けたんだ、とマーシュはため息を吐いて天井を仰いだ。
「職人として生きることより、自分を傷つけ貶める周囲から自分を守る方を優先したんだ。……でも、後悔はしていない。今では職場の仲間ともうまくやっているし、何より精神的に楽だから」
結果的に暮らしは厳しくなって、家庭を築くだけの余裕もなくなってしまったけれどね、と彼はまた自嘲した。
「……大変、だったのね」
「メウルも。ウィル自治区に戻ったと聞いていたんだけど、いつ王都に?」
彼の疑問も尤もだ。原則、一度ウィル自治区に戻った能力者に、二度目はない。
「……えっ、っと。一昨日」
「お、おととい?」
「うん。とある貴族の家に連れて行かれて、そこでそのお屋敷の使用人さん達にウィル自治区出身だって知られて、……というか、うっかり喋っちゃって、追い出されて、川に……ドボンと」
「……よく、事情が分からないけど」
でしょうねー。だって、随分端折っちゃったからね。
私は迷っていた。いくら幼馴染で命の恩人とはいっても、マーシュに私の特異体質のことや、特警隊にいたこと、ガーラント師団長の屋敷の人間に殺されそうになったことなんて喋っていいものだろうか。余計なことを知り過ぎて、後で彼が迷惑を被ることになりはしないか。
「じゃあ、王都に住む場所もないんだね」
「うん。だから、ごめん。動けるようになるまで、ここにいていいかな?」
「もちろん。もっとずっといてくれたっていいし」
えっ、と顔を上げると、マーシュははにかんで頬をほんの少し赤く染めていた。
……っつーか、何なんでしょうか、この展開は。
「王都で暮らすのに身元引受人がいるっていうんなら、俺がなってもいい。住む場所がないなら、ここにいればいい。な、そうしろ」
その時、私の頭の中に、十年前までずっと持ち続けていた王都の下町で慎ましく暮らす未来が華々しく蘇った。
下町の小さなアパートメント。狭くとも、温かい家の中で、厳しい家計を遣り繰りしながら家事や子育てに追われる日々。
ひょっとして、叶うかも知れない。彼が身元引受人になってくれて、私が自分の特異体質を秘密にしたまま、慎ましく静かに暮らすから、と願えば。
問題は、ガルス隊長を忘れてマーシュを好きになれるか、ということだ。けれど、人の夫となった隊長を忘れるためにも、新しい恋を始める必要があるのかも知れない。多少、無理矢理にでも。
私が小さく頷くと、マーシュは嬉しそうに微笑んで、私の頭や頬を優しく撫でた。その手がするり、と顎にかかり、引き寄せるように上を向かせられる。
……あ、これって、もしかして。
マーシュの顔が、息がかかるほど近いところにあった。
こうなる運命だったのかな、などと諦めに似た思いに囚われながら、私はそっと目を閉じた。




