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その日。
十三歳だった私は、魔導学校の先生から、あることを頼まれた。
その先生はその日、魔導学校の寮の宿直当番で家に戻ることが出来ず、翌日の授業に必要な本や書類を代わりに家族から預かってきてほしいという頼み事だった。
当時、成績は中の上程度だったが、何せ真面目だった私は、先生から頼み事をされて断ることなど考えられなかった。
その先生の家は、王都の中心部に近いところにあった。下町にあり、ウィル自治区出身の能力者も受け入れる魔導学校の先生をしているのは勿体ない、と言われるほど、先生は良家の出身だった。
こんな頼み事をされた時くらいしか、王都の中心部に足を踏み入れることはできないもの。
当時の私は、若干、いやかなり、浮かれていた。
先生が書いてくれた地図を頼りに、私は生まれて初めて、一人で王都の中心部へとやってきた。
魔導学校の制服を着ている私は、華やかな街の中で完全に浮いていた。魔導学校にはウィル自治区出身者だけではなく、下町の子ども達も通っているので、それだけで爪弾きされることはなかった。
けれど、明らかに自分が暮らしている世界とは次元の違う世界に、私は暫し放心したように立っていた。
地図を頼りに歩き回っていた私は、小さな路地の手前でふと誰かの声を聞いた。
子どもが泣いているのかな。
親に叱られた子どもが、裏道でこっそり泣いている場面を思い浮かべながら、私はその路地に足を踏み入れた。
……あれ、誰もいない?
キョロキョロしながら十歩ほど進んだだろうか。建物と建物の、人がようやく通れるかというほど狭い幅のスペースに、頭をこちら側に向けてうつ伏せに倒れている人を見つけた。
錆の匂いに似た生臭い血の匂いが、辺りに充満している。
うわあああっ、死んでる……。
私は飛び退り、けれど目を逸らすことはできなかった。
どうしよう。魔法騎士団に届け出なきゃ……。
王都の治安維持は、軍事から警察業務まで全て魔法騎士団が担っている。この王都中心部の担当魔法騎士団の詰め所がどこにあるかは分からないけれど、そんなもの大通りで誰かに聞けばいい話だ。
と、私は、倒れている人物の顔の辺りにある左手の指が、ピクリと動いたのを見てしまった。
……生きてる!
そこで、私の頭の中を巡ったのは、つい先日から授業に登場し始めた『治癒と救命の心得』だった。
魔力を持つ者は、魔石の力を介して治癒を行うことができる。それは、能力者として誇るべき最も偉大な力の一つであり、命の危険に瀕している者に対してその力を施すことを躊躇ってはならない。
いかにも教科書、といった理想論だ。相手が敵だったらどうするつもりだ。
といったスレた考えなど、当時十三歳だった無垢な私が持っているはずもない。
「だっ、大丈夫ですかっ? 目を開けて下さいっ。聞こえますかっ?」
私はおっかなびっくり、赤い服を着ているその人の肩を揺すった。
「……っ。……だ、……れ?」
掠れた声が返ってきて、私は安堵すると共に、腹の奥から闘志が湧いてくるのを感じた。
私が、この人を助けなきゃ!
「どこを怪我してるんですか? 教えてください」
幸いにも、制服のポケットには、今日の授業で使った魔石付の手袋が入ったままになっていた。それを右手に嵌めると、私はそっとその人の側に膝を着いた。
「あの、もしもし?」
身体を揺するも、もう答えは返ってこない。やはり重症のようだ。誰かを呼びに行くような時間はない。
覚悟を決めると、私は思い切ってその人の右肩から下に手を差し入れ、力任せにひっくり返した。
……うっわ。……きっつぅ。
覚悟を決めたことを後悔するような惨状が、私の目に飛び込んできた。
赤い上着の到るところが裂け、より濃い赤色に染まってぐっしょりと重く濡れていた。特に、左胸の少し上辺りの裂け目からの出血はまだ続いていて、染みがジワジワと面積を拡大していく。
まず、出血を止めなきゃ。
私はゴクリと唾を飲み込むと、手袋についた魔石をその傷口に押し当てて、魔力を注いだ。
狭すぎる路地の中で、怪我人の頭を膝に乗せ、肩を抱えながら傷口を治癒していく。
最も深手の左胸の上の傷を治癒し終わり、次に傷が深そうな右脇腹を治癒していると、急に頭がクラッとなった。
……えっ、何?
何が自分の身に起きているのか分からなかった。
そう、私は魔力を急激に使い過ぎ、限界に達していたのだ。けれど、授業で魔力を使い過ぎると危険だということは習ってはいても、まさかこの程度で自分が限界を迎えるとも思っていないし、その眩暈が限界の症状だとも思いも寄らない。
何だ、コレ。気持ち悪い。吐きそう……。
そう思いながらも、治癒を続けていると。
「……おい、お前」
誰かにそう声をかけられ、右手を掴まれた時には、私はぐるぐる回る世界の中で朦朧としていた。
「もう止めろ」
止めるだって? 目の前で死に掛けている人がいるっていうのに?
「……駄目よ。……この人を、助けなきゃ」
そう答えてよく見ると、私に膝枕された人物が目を開いてこちらを見つめていた。
あ、綺麗な金色の瞳。
熱っぽく潤んだ目が、困惑したように私を見ている。乾いた血がこびり付いたその人の手が、魔石の手袋を嵌めた私の右手首を掴んでいた。
ああ、よかった。意識が戻ったんだ……。
そう安堵すると、私は路地に座り込んだ姿勢のまま、その場ですうっと眠りに落ちていた。
目を覚ました時、私は魔導学校の医務室に運び込まれていた。
私に頼み事をした先生が、ベッドで寝ている私に付き添ってくれていた。
優しい先生は、私が方向音痴かつ興味本位で王都中心部をうろついていたせいなのに、慣れない私にあんなことを頼んだ自分が悪いと謝ってくれた。そんな必要などないのに。
「でも、先生。私、人を助けたのよ。あの人、ちゃんと回復したかしら」
訊ねると、先生はにっこりと笑って頷いてくれた。
「ああ。きっと、メウルにとって人生で一番誇れる出来事になったと思うよ。何て言ったって、人一人の命を救ったんだからね」
先生の言葉を聞いて、私は自分をとても誇らしく思った。
魔導学校に入学して八年。成績は飛びぬけて良くも悪くもなく、自分という存在はいてもいなくても誰にも何の影響も及ぼさない、とてもちっぽけでつまらないものだと悩んでいた時期でもあった。
ああ、私はこのために生きてきたんだな。
そう思うと、私は照れくさいような喜びに満たされていた。
それが一転、最悪な事をやらかしたのだと気付くのは、それからすぐのことだった。




