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残虐な表現、流血表現がございますので、お気をつけ下さい。
勝手だとは思ったが、お風呂を使わせて貰った。せっかくお湯を用意してくれていたのに、入らないのは勿体ない。
一人で身体を洗い、髪に塗りこまれた油っぽい薬剤を落とす。昨日は全部メイドさん達がやってくれたので、石鹸一つとってみてもどれがどれだか分からない。髪を洗った石鹸と身体を洗った石鹸が違っていたように思うが、顔も含めて適当に全部同じ石鹸で洗った。
お湯から上がると、大型のタオルを身体に巻きつけ、小さめのタオルで頭を覆い、使った風呂をできるだけ綺麗に整える。
ウィル自治区出身の人間の使った風呂を掃除するなんて、彼女らには苦痛でしかないだろう。完璧に、とまではいかないが、せめて見苦しくない程度に整えておいてあげたかった。
それから夜着を着て部屋に戻った私は、思わず目を瞬かせた。
……何、これ。
部屋に、移動式ワゴンに乗った夜食が置かれている。
そう言えば、今夜は碌に食べてないんだった。
そう思い出して、私は思わずお腹を押さえた。コルセットから介抱されたお腹は、美味しそうな臭いに切なげな痛みを発している。
でも。
私はワゴンから視線を逸らせた。
ウィル自治区出身者と知って、彼女らが快くこの夜食を用意してくれたとは思えない。そう、ぶっちゃけて言えば、何が入っているのか分かったもんじゃない。
私は、本能的な欲望を断ち切るようにワゴンに背を向けた。
鏡台の上に置かれた櫛で濡れた髪を梳かし、昨日顔に塗られたのと同じだと見定めた瓶から液体を掌に取ると顔に伸ばした。
身体にも、とも思ったが、余りに厚かましいかと思ってやめた。
瓶の中身があまりに減っていたら、ウィル自治区出身者のくせにこんなに使いやがって、と腹を立てるに決まっている。彼女らが何も知らなかったとはいえ自分の意志で私にしてくれたことはともかく、私が勝手にしたことはどんなことでも癪に障るだろう。
その後、私は早々に明かりを消してベッドに潜り込んだ。
本当は、彼女達が整えたベッドで寝るのも気が進まなかった。特警隊の寮のベッドに比べれば、長椅子どころか絨毯の引かれた床でさえマシなほどの柔らかさだけれど、さすがに床で寝る訳にもいかない。別の理由で、長椅子も止めた。ここで転寝をして、結局この屋敷の主にベッドまで運ばれるというパターンが繰り返されそうで怖かったのだ。
軟らかいベッドは、寝付いてから運び込まれた過去二回と違い、寝付くまでは落ち着かない場所だった。何度も寝返りを打ち、滑らかなシーツの表面に手を這わせる。
そうそう、昼過ぎから夕方まで暴睡したのを忘れていた。それで眠れないのかも知れない。
それでも、真夜中を過ぎるころには、私はゆっくりと眠りに落ちていった。
と、扉が軋む音で、私の意識は引き戻された。
……誰。
分厚い絨毯の上を音もなくこちらに近づいてくる気配がある。
夜食の乗ったワゴンの前で、一度その気配は止まったように思えた。それから、またゆっくりとその人はこちらに向かって歩いてくる。
眠った振りをしながら気配を探っていた私は、耐えられなくなって目を開けた。
と、同時に、口を塞がれた。
「動くな。静かにしろ」
それは、この屋敷に着いた時、礼儀正しく迎えてくれた執事の声だった。
裸足に、薄手の夜着という格好のまま、私は使用人用の通路から裏口を出た。
勿論、自分の意志ではない。防御力ゼロの夜着越しに、背中に鋭い刃物の先が押し当てられている。その得物を握っているのは、この屋敷の有能な執事だ。
ベッドで口に押し当てられた布からは、何がしかの薬品臭がした。お陰で、身体がだるくて重く、頭もぼうっとしている。
完全に眠らせたりしなかったのは、私を移動させる手間を省きたかったのだろう。眠っている人間を運ぶより、自分の力で歩いてくれたほうが断然楽だ。
大きな声を出して助けを呼ぼうにも、息をするのも億劫で、出るのは風邪を引いた時のような喘鳴だけだった。
一体、どこに連れていかれるのだろう。
メイドさん達の口から、私がウィル自治区出身者だと彼に知れたことは容易に想像がついた。けれど、私はこの屋敷の主の客だ。しかも、伝説の魔導師と同じ異能を持った珍しい存在なのだ。そんな私を、彼は一体どうしようというのだろうか。
混濁しそうになる意識の中で、私はそう思いながらも、揺れる地面を踏みしめて何とか歩いていた。ぐねぐねと揺れながら近づいてくるのは、鉄格子の門だろうか。馬車が入るような大きさではないので、裏の通用門だろう。
そこに、誰かが立っている。よく見れば、背の高い方のメイドさんだった。小さな携帯魔導灯を掲げて、私達が近づくと、門をそっと開いた。
「大丈夫です」
メイドさんはそう言ったが、それは私に対してではなかった。
「ご苦労。君はもう戻れ。後は私が」
そう背後で声がすると同時に、背中にチクリと痛みが走った。切っ先が、夜着を通して肌を突いたのだ。
「歩け」
その時、私は朦朧とする意識の中で、殺されるのだ、とはっきり悟った。
裏通りには明かりはほとんどなく、どこからか大量の水が流れる音が響いてくる。
そう言えば、貴族街の側をカーヴェリ川が流れていた。これはその音だろうか。
エヴァントに脅されつつ歩いていく毎に、その音は大きくなっていった。
刺されても多分、死ぬことはないだろう。だから、適当なところで抗って逃げればいいんだ。
けれど、嗅がされた薬品のせいで、いつどこでどうやって逃げればいいのか、考えがまとまらない。
そうこうしているうちに、いつの間にか私達は小さな橋の上に立っていた。
そこで、最初の一振りが来た。
右肩から背中にかけて焼けるような痛みが走り、私は前のめりに倒れこんで橋の欄干に縋り付いた。
「汚らわしい……!」
エヴァントの吐き捨てるような声が、何故か泣き声のようにも聞こえた。
「いつの間にかどこからか入り込んでくる、貴様ら蝿のような奴らに、我らの大切な御方を汚されてたまるか……!」
二振り目は、欄干に縋り付いている右腕を抉った。血が、バタバタッと音を立てて橋の上に染みを作る。
「……めて……」
いくら怪我をした側から回復するとはいえ、痛いものは痛いし、怖いものは怖い。痛みで悶えながら、私はエヴァントを見上げながら命乞いをする。
けれど、彼の目は、これまで見たこともないほどの憎しみで、罪悪感や同情に訴える余地は全くない
冷え冷えとした光を放っていた。
「他の誰が許しても、私は許さん。貴様らの卑怯な攻撃で、私の大事な娘は……」
攻撃を止めてほしくて、抗うように伸ばした両手は、容赦なく何度も何度も切りつけられた。
痛みと、自分の身体がズタズタに切り裂かれているという現実に気が遠くなり、気が付くと私は橋の上に頬を着けた状態で倒れていた。
……あ、攻撃が止んだ?
身体を襲う新たな衝撃は止んでいた。けれど、すでに負った傷が脈打つように痛んでいる。上半身を中心に、あらゆる場所が焼け付くような痛みを発していた。
でも、ここでこうやっていれば、ちょっとずつ傷が治っていく。そうすれば……。
私は、空気が漏れるように魔力が消耗されていくのを感じながら目を閉じた。
ところが、私は次の瞬間、自分の考えが甘かったことを悟った。
脇を抱えられ、身体が持ち上げられて、欄干に持たせかけられる。
そこから更に欄干に押し付けられるように持ち上げられ、縁に身体が乗ったと思った瞬間、私は宙に放り出されていた。
ザブン、と音と共に衝撃が私の身体を襲い、同時に私は流れの中に飲み込まれていった。
ちょ、ちょっと待って。どんなに傷を負っても自然治癒してしまう特異体質って言っても、溺れたら死んじゃうよ???
私は大怪我を負っていることも忘れて必死で水を掻いたが、無駄だった。第一、魔導学校でも特警隊でも、水練なんて一度もやったことがない。つまり、私は泳げないのだ。
口から大量の水が流れ込み、息が詰まる。耳の奥がキュンと痛くなって、頭が締め付けられるような痛みを発する。
ああ、死ぬんだ。
ここ最近、そう思うようなことばかり経験してきたが、きっと今度こそ、それは現実になってしまうのだろう。
……隊長。すみません。待っていてくれって言ったのに、もう二度とあなたの元へ戻れそうもありません。
私は最後にガルス隊長の顔を思い浮かべようとしたが、真っ黒になった意識の中に、彼の姿はとうとう現れず仕舞いだった。




