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……こいつには、人の寝室に忍び込んで寝顔を見るという、変態な癖があるのだろうか。
生まれて初めて白銀の悪魔と食卓を共にしながら、私は時々ちらちらと奴の顔を盗み見た。
あちらはまるでこっちの存在など最初からいないかのように目もくれず、エヴァントが差し出す書類を手にあれこれと指示を出しながら食事をしている。
そのエヴァントが、複雑な表情を浮かべながら時々こっちを見る。
どうやら、私付きのメイドさんのどちらかに、私が泣いていたと聞いたらしい。そのメイドさん方も、悲しい夢を見て泣いていた、という私の言葉を信じなかったようだ。
どうせ、痴話喧嘩をしたとでも思い込んでいるんだろうな。
ガーラント師団長と痴話喧嘩、と自分でした想像に、私は思わずむせ返ってしまった。
「大丈夫でございますか?」
心配そうに声をかけてくるエヴァントに、平気、と視線を送ろうと目をやると、ガーラント師団長の視線とぶつかった。
「……すみま、……せん。お行儀……悪くって」
膝にかけたナプキンを口元に当て、私は食卓から顔を背けた。
いい加減、貴族家には相応しくない私の行儀作法で苛立っているだろうに、これ以上無駄に奴を怒らせたくない。
「あの。……もう、結構です。……失礼しますね」
私は慌てて席を立つと、エヴァントが止めるのも聞かずに食堂を出て客間に戻った。
ああああっーー。美味しそうなご馳走が一杯だったのにぃぃぃぃ!
閉めた扉にもたれながら、私はがっくりとうな垂れた。
明日から、どんな生活が待っているのか想像もできないが、少なくともこんなご馳走にありつけるとは思えない。だからこそ、ガーラント師団長とコルセットという二重苦を乗り越えてでも、今夜は腹一杯食べるぞ、と密かに気合を入れていたというのに。
長椅子に腰を下ろしてため息を吐いていると、メイドさん達が入ってくる。
「メウル様。御加減がよろしくないのでしょうか?」
「……いえ。……あ、あの、大したことじゃないですから、気にしないでください」
具合が悪くない、と言えば、夕食を途中退席した理由がない。かと言って、具合が悪いと言って医者でも呼ばれたら仮病だとバレてしまう。
曖昧な返答で誤魔化そうとする私をそれ以上追求することもなく、メイドさん達はお風呂の準備を始める。そこは入るかどうか確認しないのか、と思っていると、
「お風呂の準備が出来ました。お入りになられますね?」
と、背の高いメイドはほぼ命令口調だ。
「あの、一つ、はっきりしておきたいんですが」
私は恐る恐る口を開いた。
「何でございましょうか」
「皆さんは、私のことをどう思っているんですか?」
「どう、と言われましても……」
二人は顔を見合わせて、何か言いたげな表情をしているが、それ以上答えようとはしない。
「その、こちらのお屋敷のご主人様と、どういった関係であると……」
聞きかけて、言った本人が恥ずかしくなってきた。そうだよ。こんな回りくどい言い方なんかしなくていいじゃないか! ほらほら、メイドさん達も二人とも顔を赤くして困ったように目を伏せちゃったし!
「だから、私はそんなんじゃないんです!」
「……は?」
「でっ、ですから、お二人やエヴァントさんが思われているような、そのっ、恋人だとか、男女の中とかそういうのでは一切ないんですっ!」
私が叫ぶように言うと、呆気に取られたような顔になった二人が、突然ガバッと私の膝に縋ってきた。
「そんなの、困ります!」
「は?」
今度は、私が呆気に取られてしまった。
そんな私にはお構いなく、二人は口々に思いの丈を私にぶつけ始めた。
「旦那様は二十歳の時にこのお屋敷を亡くなられた先代の伯爵様よりお譲りになられました。以来、七年間、私どもは旦那様がご結婚され、奥様がこのお屋敷に来られる日をずっとお待ちしていたのでございます」
「……は? はあ……」
「ところが、一向にその気配もなく、旦那様は数ある縁談をことごとくお断りになられて。これは、きっと他に思いを寄せるご婦人がいらっしゃるに違いない。身分違いでいらっしゃるのか、まさかすでに他の御方のものになられている方ではないだろうか、とわたくしどもは気を揉んでいたのでございます。そこに……」
なんだか、アルヴァと同じ臭いがしてきたぞ。
「昨日、旦那様が女性をお屋敷にお連れになるというお話が、突然ございました。それを聞いた時のわたくしどもの喜びと言ったら! さすがに、男性のような格好をされ、お化粧などもほとんどなされていないメウル様を見た時には、正直驚きました。けれど、だからだったのだと納得もいたしました。きっと、旦那様は身分の差を乗り越えて、あなた様とご一緒になる覚悟をお決めになったのだと喜んでおりましたのに」
随分ご勝手な想像をつらつらと語ってくれたものだ。
こういう誤解を招くから、非常識だと言ったんだ。何なんだ、あいつの妙な癖は。それに、ちゃんと自分の使用人には、客の正体が誰か教えておけよ。この人たち、私が主の恋人かなんかと誤解して、余計な労力使っちゃったじゃないか。
私は大きく息を吐き出すと、潤んだ目でこっちを見てくる二人のメイドさん達に、首を横に振った。そんなに縋られても困るから。だって、本当にそんな関係じゃないんだもん。こっちの努力でどうこうなる問題じゃない。
「そんなこと言われたって。それに、私は明日から、魔導科学研究所に移ることになってますので」
すると、ピキーンと痩せた方のメイドの顔に緊張感が走った。
「……ま、まさか、メウル様。クレイヴ様と……?」
「は……?」
「クレイヴ様は、旦那様からメウル様を奪いに来られたのですね!?」
なっ、……何でそうなるかな。
「あの御方も、引く手数多でありながら縁談をことごとく蹴られ続けられているとお聞きしております。そうでございましたか。それであなた様はお二人の間に挟まれて……ですが、ああ見えて旦那様はお優しいのでございますよ。逆に恐ろしいのはクレイヴ様の方です。あのようにニコニコ笑っておいでですが、生き物を解体して喜んでおられる御方なのですから」
ああ、もう。いい加減、彼女達の妄想に付き合っているのが嫌になってきた。あまりに生活が豊かだと、こういう妄想ばかりして暮らしているんだな、とついつい刺々しい見方をしてしまう。
「いい加減にしてください。第一、保守系貴族の筆頭ガーラント家のご子息が、特警隊の制服を着た女を連れてきたっていうのに、恋人だなんて勘違いする人がどこにいますか!」
「……特警隊?」
メイドさん方は、二人揃って息を飲んだ。まさに、一瞬にして夢から覚めたという様子だ。
「特警隊って、あの……?」
潮が引くように表情を凍らせる二人を見て、私はその時初めて分かった。
ウィル自治区に足を踏み入れたことのない彼女らは、私が着ていたものが特警隊の制服だと知らなかったのだ。
彼女らは突然、無言で立ち上がった。そのままベッドを整え、夜着をベッドの上に置き、それから思い出したようにクローゼットから畳まれた特警隊の制服を取り出すと、やや乱暴に長椅子の端に放った。
「……嘘でしょ」
「嫌だわ……」
そんな囁き交わす声が、私の耳にも届く。
ああ、やっぱりそういうことだったんだ、と私は妙に納得した。
彼女達は、何も知らされていなかった。身分は低いにしても、私は王都の人間だと思われていたのだ。だから、余計に私と自分達を重ね、身分違いの恋愛を妄想して勝手に盛り上がっていただけなのだ。
けれど、王都の人間にとってウィル自治区の人間がどういうふうに映っているか、かつて王都で暮らしていた私はよく知っていた。だから、彼女らの私に対する態度はいくら主の客人に対するものだとしても丁重過ぎると思っていた。
ああ、でもやっぱり、傷付くなぁ……。
六歳で王都の魔導学校に入学してから、十五歳で卒業するまで味わってきた寂しさと悔しさが蘇ってくる。
けれど、あの時には、同じ身の上の子達が身の回りにたくさんいた。魔導学校がある下町には、自然とウィル自治区出身の能力者が卒業後も近所に住み着き、私達在学生を温かく見守ってくれていた。
これが、現実――。
客間に一人残された私はゆっくり立ち上がると、鏡の前に立った。丁寧に結い上げられていた髪を解き、滲んできた涙をそっと拭う。
私が十年間、失ったと思っていた世界は、私を温かく迎えてくれる世界ではなかった。私はずっと、幻想を追いかけていたのだ。
ならば、どうする?
そう、私を必要としてくれる場所で、最善を尽くすしかない。そう、魔導科学研究所で。
これでよかったのだ、と私は思うことにした。今後、この屋敷でのお嬢様生活に戻りたいだなんて、甘い幻想を抱かずに済んだのだから。




