15
チュン、チュチュン。チ、チチ……。
朝の清々しい小鳥の声が、虚しく私の耳を打つ。
カーテン越しに差し込む朝の光。やや逆光ぎみに影になるガーラント師団長の表情は、こちらからはよく見えない。
っっっつーか、な、な、なんであんたがここにっ!?
いやいや、確かに、たーしーかーに、ここはあなたのお屋敷ですとも! でも、なんで私と同じベッドであなたが寝ているんですか???
し、しかも、何だか悩ましげに見えるのはどうしてですか? まだ眠いんですか? そうだ、そうに違いない。っていうか、シャツの胸元、開き過ぎですから!
思わず私は、自分の胸元を押さえた。恐る恐る視線を自分の体へと落とす。
……ちゃんと、服着てる。
ヒラヒラでやや透け感のある心もとない夜着ではあるが、私はちゃんと身に付けるものを身に付けていた。
けれど、何もされていないという保障はない。何せこっちは、どうやってベッドに入ったのかさえ覚えていないほど、ぐっすり眠ってしまっていたのだから。
火傷しそうなほど顔を熱くしながら、私は夜着の胸元をぎゅっと握り締めて俯いた。
「手出しはしていない」
吐き捨てるように呟くガーラント師団長の声が聞こえた。が、直後に吐いたため息が妙に色っぽくて悩ましげに聞こえるのは何故なんだーーーっ。
ああ、あれだ。あまりに現実離れした場所に突然連れてこられたから、私、錯乱してるんだ。そうだよ、まだ半分寝ぼけてるんだよ。それとも、このいい匂いで私の頭にもお花畑ができちゃったかなー?
ベッドが軋む音がして、ゆっくりと顔を上げると、ガーラント師団長がベッドから下りたところだった。私が落ちた方とは逆の、部屋の扉に近い側に立った彼は、サラリとした銀色の髪を片手で掻き揚げた。
「夕べのうちに話をしておこうと思ったが、貴様がすでに座ったまま寝ていたのでな」
えええ? で、ガーラント師団長は、長椅子で寝こけている女と一緒にベッドに潜り込む習性でもおありなんですかー?
「……そ、……そ、そ、それにしたって、非常識すぎやしませんか?」
一応、お互い独身の男女なんだし、部屋で二人きりになることは勿論、同じベッドで寝るなんて常識では考えられない。
それとも、アレか。これも嫌がらせの一環か。なるほど、そうか。こんな陰湿なこともするんだ、あんたは。
ところが、彼の口から出た言葉に、私は耳を疑った。
「すまなかった」
最初、私は彼が何を言ったのか分からなかった。
ガーラント師団長が踵を返して部屋を出て行き、扉が閉まるその音で、私は我に返った。
……今、何て言った?
謝られたような気がするのは、気のせいだろうか。いや、気のせいだ、気のせい。
……というか、全部夢だ。これは悪い夢だ。この間から見ている悪夢の続きなんだ。きっと、もうすぐ目が覚める。そうしたら、特警隊の寮の固いベッドの上で、起床予定時刻の何分か前なんだ。
私は床に座り込んだまま、ベッドにもたれかかった。そのまま目を閉じ、早くこの悪夢が覚めてくれるよう祈る。
そのまま、またうつらうつらしてしまったようだ。
「メウル様!?」
急に肩を揺す振られて、私はハッと目を開けた。
「大丈夫ですか? 具合でもお悪いのでございますか?」
昨夜のメイドさん達が、顔を強張らせてこちらを覗き込んでいる。
「……いえ」
「お疲れでございましたら、どうぞこのままごゆっくりお休みくださいませ」
「それとも、お湯をお使いになられますか?」
……は?
ポカンとしながら見上げると、二人の顔には、昨夜は旦那様のお相手ご苦労様でした、と明らかに書いてある。
「ご心配なく。昨晩はゆっくり眠れましたし、寝る前に体も綺麗に洗っていただいたので、お湯も必要ありません」
私はすっくと立ち上がると、にっこりと笑みを浮かべた。
そんな私の前で、顔を見合わせて意味ありげに視線を交わす二人を見ながら、私は正直戸惑っていた。
これは夢ではないとして、彼女らは一体どういう立ち位置なのだろう。
仮にも、ここは保守系貴族の親玉、ガーラント家の息子の屋敷だ。その主人が、特警隊の制服を着た何の取り柄もない女を連れ込んで、平気なのだろうか。
私よりも年上の、一人は恰幅がよく、もう一人は背は高いが痩せたメイドさん達は、気を取り直したように動きを開始した。
「では、もう起きられるということでよろしいですね?」
「お着替えのお手伝いをいたします。ドレスはこちらでご用意させていただいておりますので、もしお好みの色等ございましたら、おっしゃって下さい」
いえ、別に、と頭を横に振ると、一礼した背の高いメイドが、いつの間にか部屋に出現していた衣装掛けから、薄緑色のふんわりしたドレスを手に取った。
そこから後は、昨夜眠りに落ちるまでの続きをされているようだった。
夜着を剥ぎ取られ、洗面器に張られたぬるま湯で洗った顔に次々と何かを塗りたくられ、髪を梳かされ引っ張られ巻き上げられ、生まれて初めてコルセットで体を締め付けられた。
「もう痛みはございませんか? 締めても問題ないでしょうか?」
コルセットを着ける前、恰幅のいいメイドが私にそう聞いた。というのも、私の左腹部には、獅子門前広場で少年に刺された傷跡が、赤い蚯蚓腫れのように残っていたからだ。
「大丈夫だと思います。もう全然痛くありませんから」
もっと慎重に答えるべきだった、と後悔するのに時間はかからなかった。遠慮なく力任せにコルセットを締め上げられながら、私はこんな辛い思いと引き換えに貴族のお嬢様達は美しいドレスを着ているのだと初めて知った。
……制服が楽で良かったな。
着ていて楽だし、それなりに格好がつく。自分に似合う似合わないなんて考えなくてもいいし、流行だって関係ない。
そういえば、と見回すと、私が着て来た特警隊の制服は、どこへ持っていかれたのかどこにも見当たらなかった。
ガーラント師団長は、私が身支度を整えて朝食をとるために客間を出た時には、すでに屋敷を発っていた。執事のエヴァントによると、今日は王宮の魔法騎士団本部で朝から定例の師団長会議が行われるらしい。
それで、夕べのうちに私に話しておきたいことがあったのか。それなら、今朝部屋を出て行く前に話していけばよさそうなものを。
あの白銀の悪魔でも、寝ぼけることがあるのかも知れない。そういえば、耳を疑うような有り得ない言葉を聞いたような気もするし。
だだっ広い食堂のとてつもなく長い食卓に一人ポツンとついた私の目の前には、給仕のメイドさんたちがずらりと並ぶ。やがて、目の前に朝食とは思えない豪華で手の込んだ料理が並ぶ。
これで、制服だったらよかったのにな。
コルセットで締め付けられた私のお腹には、頭が食べたいと望む量の半分も納めきれずにいた。
朝食が終わると、再び客間に戻る。そこで私は、はたと我に返った。
なんで私、貴族のお嬢様みたいな生活満喫しちゃってるわけ?
ガーラント師団長は、私の身柄を預かると言った。それで、実際連れてこられて今に至るわけだが、ところで私は一体何をすればいいのだろう。
困ったように立ち尽くした私は、黙って控えている二人のメイドに声をかけた。
「あの、私はこれからどうすればいいのでしょうか」
「旦那様からは、このお屋敷から出なければ御自由になされて構わないと申し付かっております」
「あ、いえ、そうではなくて……」
自由って何だ。この屋敷から出るなって、結局ここで軟禁生活ってことか。
それとも、ここで貴族の生活を満喫させて、それに慣れたところで身ひとつで放り出すという落差地獄を味合わせるつもりかもしれない。
中庭を散歩されますか? それとも、図書室から本を持って参りましょうか、というメイドさん方の提案を断って、私は一人にしてもらった。
……そう言えば、ヒーリィに別れの挨拶もできなかったな。
窓辺に椅子を移動させ、空を眺めていると、ふとそう思い出した。
いつもは別々にいても夕食時になるとどこからか現れて、私が食べている前か隣の席に座る彼が、なぜか夕べは姿を現さなかった。尤も、私はガーラント師団長の言葉に動揺して、彼の姿が見えないことに気を配る余裕もなかったのだけれど。
私がいなくなっても、周りのみんなとうまくやっているだろうか。
ヒーリィは端麗な容姿のお陰で若く見えるが、私よりも幾つか年上だ。しかも、生まれ育った事情で、正確な年齢が自分でも分からないらしい。
私よりも幾つか年上の年代は、ちょうど獅子門前広場事件の前後に生まれている。だから、内戦で片親を亡くしたり、孤児として育った人達が他の世代より多い。
私がガーラント師団長のお屋敷で、こんな貴族様みたいな格好をして寛いでいるのを見たら、何て言うだろう。彼ならきっと、本気だとこっちが思い込むほど真面目に褒めてくれるだろうな。
というか、ヒーリィの方が断然、貴族様の格好がよく似合うだろう。生まれがどうであっても、やっぱり容姿がいいというのは何だかんだと言って得だ。
で、どんなに磨き上げられても、持って生まれた実力を伸ばすのは限界というものがある。
私は立ち上がると、鏡台の前に立った。覗き込むと、普段とは別人に見える私の顔が映っている。メイドさん二人がかりで日焼け跡や肌荒れを塗り重ねた化粧で隠された顔は、綺麗というよりも滑稽で直視するに耐えない。またその顔に、複雑に結われた髪型がなんとチグハグに見えることか!
はああああー……。
がっくりと肩を落とした時、ノックの音が聞こえた。
「メウル様、よろしいでしょうか」
「あ、はい」
私は慌てて窓辺の椅子に戻りながら返事をする。入ってきたのは、痩せた方のメイドだった。
「お客様がいらしておりますが、いかがいたしましょう」
「……え?」
ちょっと待って。お客様は私の方じゃないんだろうか。
どういうことだろうと首を捻る私に、メイドは慌てて補足する。
「メウル様にお会いしたいと、クレイヴ様が突然訪ねていらしたのです。旦那様の許可は取ってあるからとおっしゃられていますので、お会いになっていただけますでしょうか」
補足してくれたのはいいが、それでもよく意味が分からない。
つまり、ガーラント師団長の屋敷に私がいることを知っている奴が、師団長に許可を取って私に会いに来たということか。
でも、クレイヴという名の知り合いは私にはいない。ガーラント師団長の同僚か部下だとして、命令ならいざ知らず、わざわざ主の留守中に屋敷に逗留中の客人に会いに来るだろうか。
「あの、そのクレイヴというお方はどなたなのでしょうか。一体、私に何の御用でしょう?」
すると、私の言葉が意外だったというふうに、メイドは目を見開いた。
「ご存知ないのでございますか。クレイヴ・ガーラント様は、旦那様の二番目の兄上様にあたられる方でございます」
……はぁ、そうでございますか。そんなこと、知らないから。で、そのお兄様が一体、私に何の用だというのでしょうか。
私がそう言おうと口を開きかけた時だった。
「だから、アレックスの許可は取っていると言っているだろう」
ガーラント師団長の声によく似た、もう少し高くて抑揚のある声がメイドの後ろから聞こえたと思ったら、片方しか開いていなかった扉のもう片方が勢い良く開いた。
「やあ、始めまして。君がメウル・オーエンかい?」
ガーラント師団長の白銀の髪とはやや異なる灰色の髪を首の後ろで縛り、月夜の空のような瞳を少年のように輝かせた男性が、そう言ってにこやかに笑った。




