一番後ろの指定席
高校を卒業し、社会人になった春。
私は毎朝、決まった時間のバスに乗って通勤していた。
仕事にも少しずつ慣れ、緊張がほぐれ始めた頃、同じバスに乗るひとりの女性の存在に気づいた。
彼女はいつも、私と同じ一番後ろの席を選んだ。
名前も知らない。話したこともない。
それでも毎日顔を合わせているうちに、自然と目が合うようになった。
言葉を交わさなくても、互いの存在は知っている。
そんな不思議な距離感だった。
たまに彼女がいない日があると、気になった。
次の日に会えても、「昨日どうしたんですか?」なんて聞けるはずもない。
ある日、いつもの席に先客がいて、私は初めて彼女の隣に座った。
その日に限ってバスは満員で、肩が触れ合うほど窮屈だった。
交差点を左折した瞬間、バスが大きく揺れ、肩と肩が強く触れた。
「すみませんっ」
思わず謝ると、彼女は何も言わず、小さく会釈した。
ただそれだけのことなのに、
彼女の温もりが肩に残って、その日は駅の階段を上る足取りが妙に軽かった。
やがて、彼女が上りホームの同じ車両に乗ることもわかった。
土曜出勤の日、
今日はきっと会えないだろうと思っていたのに、バス停に彼女はいた。
私が軽く会釈すると、彼女も小さく頭を下げてくれた。
人の少ない土曜のホームでは、いつもより彼女が近く見えた。
電車が来てしまえば、この時間は終わる。
だから私は、発車ベルが鳴らないでほしいと願っていた。
そんな日々が続き、
友人や会社の同僚に彼女の話をすると、「告白しろよ」と背中を押された。
ある日の帰り道。
私はついに、彼女に声をかけた。
「あの、すみません」
彼女が振り返る。
「はい?」
「いま、お時間ありますか?」
すると彼女は、少し驚いた顔で言った。
「ありません!」
そのまま、走り去ってしまった。
私はその場に立ち尽くした。
翌日。
彼女がいつも座っていた一番後ろの席には、知らない誰かが座っていた。
そこは、いつしか私の中で彼女の指定席になっていた。
私が、あの一言でそれを変えてしまったのかもしれない。
それから彼女を、一度も見ていない。
私も転職し、バイク通勤になり、もうあのバスには乗らなくなった。
今頃、彼女が何をしているのか。
そんなことも考えなくなるほど、昔の話だ。
けれど今でも、ときどき思う。
あの日、
もし違う言葉を選んでいたら――
あの一番後ろの席には、どんな未来が座っていたのだろう。
もう予約を取れない指定席の話でした。
お読みいただきありがとうございました。




