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【アップ】2025年3月30日主日公同礼拝/讃美歌とMy noteもあります

初めまして、天川裕司です。

ここではシリーズでやってます『夢時代』と『思記』の原稿を投稿して居ります。

また、YouTubeドラマ用に仕上げたシナリオ等も別枠で投稿して行きます。

どうぞよろしくお願い致します。

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


【アメーバブログ】

https://blog.ameba.jp/ucs/top.do


【男山教会ホームページ】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【YouTube】(不思議のパルプンテ)

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos


【ノート】

https://note.com/unique_panda3782


【カクヨム】

https://kakuyomu.jp/my/works


【YouTubeドラマにつきまして】

無課金でやっておりますので、これで精一杯…と言うところもあり、

お見苦しい点はすみません。 なので音声も無しです(BGMのみ)。

基本的に【ライトノベル感覚のイメージストーリー】です。

創造力・空想力・独創力を思いっきり働かせて見て頂けると嬉しいです(^^♪

出来れば心の声で聴いて頂けると幸いです♬

でもこの条件から出来るだけ面白く工夫してみようと思ってますので、

どうぞよろしくお願いします(^^♪



【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/live/Mlh0Z-SMboY


【ブログ】

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12892845323.html

ブログを見て下さると、聖書や讃美歌の歌詞などもご覧になれます。



讃美歌~♬


讃美歌336番

https://www.youtube.com/watch?v=jr0YyB5eGuQ


讃美歌515番

https://www.youtube.com/watch?v=O8PnFZFueOg

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2025年3月30日 礼拝説教 聖書箇所 


ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトとは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」

ヨハネによる福音書18章38節


主よ、あなたの御名のために 罪深いわたしをお赦しください。主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう。

詩編25編11,12節


はじめに

教会学校教師任命式で誓約を更新した。主の契約信仰において日々学びを新たに。

「そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、『おあなたがユダヤ人の王なのか』と言った。」ローマの総督ピラトは、当時、十字架刑(磔刑たっけい)にする権限のないユダヤ人たちの訴えが正当か、不当か、の判断を迫られた。一方、イエス御自身は、御父の掟を実行される。それは、自ら、その命を捨てるために、非難されるべき者として自らを差し出すこと。それは、不当な裁判を忍ぶことにおいて具現された。「ユダヤ人の王」と、ローマに対する国家反逆罪の汚名を着せられた。イエスは「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか」と答えた。イエスの問いかけは、ピラトの問いの根拠を探るもの。宗教的指導者たちの正当な根拠のない告発に影響されないようにするように戒めた。ピラトは答えた。「わたしはユダヤ人なのか。おあなたの同胞や祭司長たちが、おあなたをわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」ピラトは、処刑する権限も、無罪にする権限も、持っていました。ピラトは、自分の考えではなく、ユダヤ(人)に属する者たちの訴えであることを認めます。

「イエスは答えた。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下(わたしに仕える者たち)が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。』」キリストの国の本質は、世のものではない、霊的なものであるということ。なぜ、その国は、世と分離しているように見えるのか。それは、全人類の堕落のゆえ。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタイ6章33節)と、主イエスは命じられた。実に、第一の祈りは、目に見えるすべての世界(衣食住、命と生涯、日々の労苦)を正しく管理することに通じる。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人のものである」(同5章3節)とは、実に、主イエスの栄光を、誉れとする生き方。霊の満たしは、ただ、「義に飢え渇く人々」に与えられる。それは、持続的で継続的な生き方であり、真の祈りある生活そのもの。「わたしのためにののしられ、迫害され」(同5章11節)る道は、世において、自分の十字架を負う道において避けることができない。逆に(信仰的な欺瞞で)自分の義を立てるとき、生活における真実の祈りと従順を軽んじる霊的危険を身に招く。

「それゆえに、ピラトは言った。『それでは、あなたは王ではないのですか』」と言うと、イエスは答えた。「わたしが王だとあなたは言われました。わたしはこのために生まれ、このために世に来ました。すなわち、真理について証しをするためです。誰でも、真理に属する者たちは、わたしの声に聞きます。」ピラトは言った。「真理だと(!?)」そして、また言ってから、ユダヤ人たちの所へ出かけていき、彼らに言った。「わたしは、彼の内に何の理由も認めない。」明らかに、ピラトの裁判の結果は無罪であった。しかしながら、イエスは、この後、不当な訴えの中で、恐れを生じたピラトの責任放棄により、十字架刑に至る。その道は、冤罪でありながら、神の裁きとしての死を、呪いの刑で負うという御心を成し遂げる道。

おわりに

主の言葉(義)に従うことのできない自らの罪と弱さを覚えて祈るとき、わたしたちの祈りは、主を畏れ、罪の赦しを乞い求める。主の道は、自らの判断を正当化せず、主の備えられた道を選ぶことを祈り求めること。そこにある道は、誠実と従順、迫害における喜び。



(My note)


二〇二五年三月三〇日(日曜日)、今日も兄弟姉妹共に礼拝を守れる事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『スコットランド教会新カテキズム』

「イエス・キリストはどの様にしてこの世に来られましたか。」

「聖霊によって、胎に宿る事によってです。」

イエス様がどの様に生まれたか、その時のエピソードを引用。先に御使がマリアとヨセフの元を訪れ、イエス様が生まれる事を知らせた。乙女マリアより産まれるイエス様の事、所謂るクリスマスの本来の出来事そのままである。この事を通してイエス様は神様に依り、聖霊に依り、この人の世に生誕された。罪の無いイエス様だけがこのエピソードを通して産まれる事が出来た。全ての人は、この事を信じるか否かである。

(公同礼拝)

『ヨハネによる福音書』(第一八章三三〜三八節)

『詩篇』(第二五篇一〜一四節)

『ヨハネによる福音書』のこの箇所では、イエス様が総督ピラトの元に連れ出され、十字架に至る最後の裁きを受ける場面にある。しかしイエス様は裁かれる事をして居らず、この裁判は初めから最後まで、ユダヤ人による怒りと感情により支配されて居た。だからピラトは、

「私はユダヤ人なのか?」

とイエス様に聞き返す言葉を語り、自分とユダヤ人とは違う意志を示した。そしてピラトは一応の尋問をイエス様にした後、ユダヤ人の前に出て行き、

「私には、この人(イエス様)に何の罪も見出せない。過越の時には、私があなた方の為に、一人の人を許してやるのが、あなた方のしきたりになって居る。ついては、あなた方は、このユダヤ人の王を許して貰いたいのか」

とユダヤ人達に訊いた。するとユダヤ人達は又叫んで、

「その人ではなく、バラバを」

と言った。このバラバは盗賊であった。このエピソードがある。

ピラトは上記の通り(歴史に見る通り)総督であり、罪人とされたその人を裁く権威を授かって居た。そのピラトが「この人(イエス様)に何の罪も見出せない」と言ってもユダヤ人達は聞く耳持たず、怒りに叫んで、何がどうでも自分達の思惑・願いを貫き通す為に叫び、イエス様を十字架に付けて殺害し、盗賊だったバラバを釈放して欲しいと、唯一の救い主であるイエス様の方を葬る姿勢を崩さなかった。これは文字通り、当時、信仰に厚いとされて居た多くの人間が、誠の救い主を殺す場面に他ならない。そして正義を見誤り、罪人で盗賊のバラバの方を釈放しろと、初めから罪人の味方に堅く立ったのである。

この場面を始め、聖書に在る事は全て、信じるか否かに尽きる。イエス様が誠の救い主であると書かれてあれば、その事を信じるだけである。他は無い。その上で人々は救い主の方を葬り、初めから罪人の側に立ち、その過ちに気付かなかった。即ち人間は、この様な生き物と言う事である。

しかし又このこれ等の事は全て、神様がイエス様を通して全ての人に与えた御計画の内の事に在り、イエス様はこの人の世で十字架に付けられ、死にて葬られ、陰府よみに降り、三日目に死人の内より甦り、天に上り、全能の父なる神の右に座し給えりとされたその事の成就の為、こう成らねばならなかったのである(とクリスチャンは信じる)。しかし当時はこの新約聖書がまだ無く、旧約聖書の内容しか知らない。だからイエス様が神様の一人子、唯一の誠の救い主である事を知らない。その上でこれ等のエピソードが為された。逆に言えばこのタイミングだからこそ、これ等のエピソード(イエス様が罪人に裁かれ十字架に付けられる迄の一連の流れ)が達成されたとも見て取れる。全ては、神様の御計画の内での事。

この裁判は初めから異常だった。公平は一つも無い。ただこの裁判に関わった多くのユダヤ人達・特に権力を持つユダヤ人達は、初めからイエス様を殺す心算つもりで関わって居た。だから正義が無くて良い訳で、自分達の目的(イエス様を殺す事)さえ達成されれば、あとはどうでも良かったのである。

ピラトは又この裁判が宗教問題にあったので、関わりたくない姿勢もあったとされる。一九章でもピラトは「あなた方が、この人(イエス様)を引き取って十字架に付けるが良い。私は、彼には何の罪も見出せない」とユダヤ人達に言って聞かせて居り、自分はイエス様を極刑に処する事に関わりたくない意志を示して居た。けれど当時のユダヤ人達にはしきたりで、

「私達には律法があります。その律法によれば、彼は自分を神の子としたのだから、死罪に当たる者です」

と応え、

「私達には、カイザル以外に王はありません」

とまで言い、ピラトの立場と権威を利用し、自分達が出来ない極刑に処する事を法律によって決めさせた(『マタイによる福音書』第二七章、『マルコによる福音書』第一五章、『ルカによる福音書』第二三章を夫々参照の事)。

イエス様は、

「私の国はこの世のものではない。もし私の国がこの世のものであれば、私に従って居る者達は、私をユダヤ人に渡さない様に戦ったであろう。しかし事実、私の国はこの世のものではない」

と応え、これはイエス様自身の弁明であるとして良い。

何故この人の世と、イエス様が言った「私の国」は分離されるのか?この裁判は宗教が絡んで居り、人の思惑・感情・常識・合理が支配するものにある為、初めから信仰に於いて唯一誠の神様、そしてその一人子であるイエス様を、信じるか否かに初めに躓き、信じない儘に裁判を進め、飽くまで人間の裁判で終わって居る事に起因する。ここに、信仰に依ってしか知る事の無い、キリストの真実・神様がイエス様を通して人に教え続ける真理を、見極められるか否かの分岐がある。人の世は宗教を含め、非道く堕落して居た事が分かるのである。信仰の真実を忘れ、唯一誠の救い主すら見分ける事の出来ない、堕落した実態が浮き彫りになった時…その瞬間がここにも見えるのである。

『詩篇』では、この新約聖書に記されるエピソードをまるでイエス様の側から見、そのイエス様(救い主)に縋り続け、救いを求め続ける正しい罪人の祈りに見える。この『詩篇』の内容は、ここで見る『ヨハネによる福音書』のエピソードにより成就され、全ての罪人がイエス様を通して救われる事の成就に窺える。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


榎本保郎牧師 ミニ説教19 「イエス・キリストを身近に」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=MCyjy8BuIIw


「SEIZE THE DAY / 今を生きる」

https://www.youtube.com/watch?v=A7Aobi9nmWM


イエス・キリストの生涯をたどる旅 II (1)

https://www.youtube.com/watch?v=vPB9SBXalPA


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@不思議のパルプンテ/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)

少しでも楽しんで頂き、読んだ方の心の糧になれば幸いです。

サクッと読める幻想小説です(^^♪

お暇な時にでもぜひどうぞ♬


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