8 雪よ降れ
第8話と第9話、同時更新です
少しずつ陽が長くなり、花は蕾をつけ、鳥たちが歌い出す。
春が、やってきた。
王都ロシュラーナは浮き立っていた。ついに新王が、新王家が、バルラディ家に決定したのだ。
レークの戴冠式に出席するため、貴族たちが続々とロシュラーナに集まる。
その中には、ルティーダとトルフォンの姿もあった。
ルティーダは、美しいドレスを身にまとっていた。顔に描いた紋様の染料と同じ色で、トルフォンが作らせたものだ。紋様が目立たないようにとルティーダがその色のドレスを望んだのだが、額飾りやリボンも統一され、紋様も装飾の一部のように見える。
神殿に入ると、祭壇にはロザの花が溢れるように飾られていた。また、会場を取り巻く二階の回廊、その手すりにも、ロザとロザを引き立てるジルフィアという白い花が、あちらこちらにリボンで結びつけられている。
「あんたは完璧に綺麗なんだから、堂々としてろよ、ルティーダ」
「あ、ありがとう、ございます」
少し恥ずかしく、けれど嬉しく思いつつ、ルティーダは礼装姿のトルフォンを見上げた。
「それでは、私はここで見ていますから」
彼女はレークが言った通り、神殿に入ってすぐ、祭壇から一番遠いあたりに席を指定されていた。その列に入ろうとする。
しかし、トルフォンが後をついてきた。
「トルフォン様?」
「俺もここでいい」
「でも」
「父が前の方にいるから問題ない」
(そんなわけないと思うけど……)
神殿は信者席として長椅子になっており、一人増えても座れないことはないが、周囲の人々はトルフォン・ギルマインがいることに驚いている様子だ。
(でも、私に気を使って下さって、嬉しいわ)
ルティーダはトルフォンを見上げ、微笑んだ。トルフォンもニッと笑みを返す。
そして、彼は周りをぐるりと見回した。
「警戒されてんな」
ルティーダもようやく気づいた。
この付近だけ、警備の騎士が多いのだ。
(ちゃんと紋様を描いてきてるのに。……ああ、シアーシャを糾弾してしまったから、仕返しされると思っているのかしら)
重苦しい気持ちを抱きながらも、ルティーダは視線を上げて前を向いた。
「今日、シアーシャが祭司として無事に戴冠式を終えたら、私、安心できると思うんです。幸せを祈れるようになる……心から。そのために、来たんです」
「ふん」
トルフォンは鼻を鳴らす。
「だったら俺は、無事に終わらない方がいいと思うがな」
花聖女たちの歌が、神殿に満ち、こだまする。
戴冠式が始まったのだ。
歌が終わり、静まりかえった祭壇に、聖なる衣装をまとったシアーシャが進み出る。祝詞となる歌を一人、歌いながら、杖を掲げた。
すると、祭壇の周りに飾られたロザが、淡く光を放ち始めた。えもいわれぬ高貴な香りが彼女によって引き出され、神殿を清めていく。
清められた場に、レークが登場した。礼装にマントをつけ、ゆっくりと通路を進み、祭壇で待つシアーシャの元へと向かう。
異変が起こったのは、その時だった。
レークが、立ち止まったのだ。
戸惑いの空気が流れる中、彼はゆっくりと片膝をつき、息を整えた。参列客たちがかすかにざわめく。
(あっ……!?)
ルティーダも、息を呑んだ。
婚約者だった頃、何度も見た光景だ。時折、レークは頭が強く痛むのだ。
(だから私、いつもロザから薬を作って用意していたわ。きっと今も、シアーシャが用意しているはず)
ルティーダが思った通り、レークの側近がシアーシャに近寄ると、シアーシャが小瓶を渡した。側近はそれを持ってレークに駆け寄る。
レークは小瓶の中身をサッと飲み干し、少しの間、じっとしていた。やがて一つ深呼吸し、立ち上がる。
「ずいぶん、調子が悪そうだな」
トルフォンがつぶやいた。
(確かにそうだわ。健康不安を印象づけるわけにいかないこともあって、今まで何とか隠していたのに。それもできないほど……?)
しかしレークは背筋を伸ばすと、まっすぐ歩いて祭壇前にたどり着いた。
ほっとした空気が神殿内に流れる中、シアーシャが横の台から王冠を取り上げる。
これをレークの頭に載せた時、レークは王に、そしてシアーシャは王妃になるのだ。
ところが──
次の瞬間、レークはよろめいた。
祭壇の前で倒れ込む。
「レーク様!」
思わず、といった様子で、シアーシャが声を上げる。
再びのざわめきの中、シアーシャは急いで小瓶を取り出した。側近の手を借りてレークの上半身をそっと起こすと、自らの手で薬を飲ませる。
しかし今度は、レークが立ち上がる様子はない。
シアーシャは急いで杖を掲げ、直接、祭壇の周りのロザから力を引き出し始めた。飲み薬に加えて、花の力もレークに流し込んでいるようだ。
それでもレークは立ち上がらない。
ついに、シアーシャが悲鳴のような声を上げた。
「レーク様! しっかりなさって!」
神殿内のざわめきが、一気に大きくなる。
動揺しながらも、ルティーダは隣にいるトルフォンを見上げた。
「……トルフォン様、私……」
トルフォンは、どこか呆れたふうに笑う。
「シアーシャとレークを助けたいんだろ? 言っておくが、俺としてはこのままレークが退場してくれた方がいい」
「私なら、助けられるんです。私の力なら……でも」
「そうか」
トルフォンはうなずく。
「わかった。あんたは偉大な花聖女だ。ちゃんと今もな。それを証明してこいよ」
彼女が花聖女として復活すれば、彼女を手駒として持っているトルフォンもまた、王位争いを巻き返せる可能性がある。
(だからそう言って下さってるの? いえ、そうでも、そうじゃなくても、嬉しい)
「でも……」
三年前の光景が、頭の中によみがえった。
みるみる枯れていく花、忌まわしいものを見る視線、ルティーダを否定する強い言葉、婚約者に捨てられ追放された記憶。
祭壇と、トルフォンの間で視線をさまよわせ、ルティーダは泣きそうな声を漏らす。
「普通の花聖女と違うことをしたら……私はまた蔑みの目で見られ、どこかへ追いやられてしまうかもしれません」
しかし、トルフォンは堂々と言い放った。
「そんな扱いをする奴らがいるなら、自分から捨ててやれ。他の生き方ができないわけじゃない、あんたは自由だ。そうだろう?」
(あっ……)
その時、ルティーダにはわかった。
トルフォンは、ルティーダを手駒として見てなどいない、ということが。
彼女はしっかりとうなずくと、懐から染料を落とす薬を取り出した。
「行きます」
「おう。いい目になったな」
ニヤッ、と笑ったトルフォンは、腰に佩いた剣の柄に手をかけた。
「見張りは止めてやる。……行け!」
サッ、とルティーダは神殿の中央通路に飛び出した。