3 優しくも物憂き
玄関ホールを奥に突っ切って、反対側の外廊下に出る。
庭は、特に手入れされていない。というか、木々には囲まれているものの、花壇は空っぽだった。
(すいぶん殺風景……)
視線に気づいたのか、トルフォンが言う。
「ほとんど使わない屋敷なのに、あれこれ植えても仕方ないからな」
「あの……それで、ここに私を?」
「ん? ああ、そうだな。枯れるとか枯れないとか気にしなくていいだろ」
たどりついた客室は二間続きで、落ち着いた赤を基調にした暖かみのある部屋だった。トルフォンの従者が、荷物を運び込んでくれる。
「必要なものがあれば、何でも揃えるから言ってくれ」
「そこまでしていただくわけには」
「客人に不自由させる方が、ギルマイン家の恥だ。じゃ、ゆっくりしてくれ、疲れただろう。夕食は一緒に食おう」
トルフォンはそれだけ言って、従者とともにさっさと立ち去った。
扉が閉まる。
はぁ、とため息をついたルティーダに、ソフィが微笑みかけた。
「お疲れ様でございました」
「ソフィもよ、疲れたでしょう?」
「年も年ですからねえ。でも、素敵なお部屋でよかったですわ。トルフォン様、春まではいろ、とおっしゃってましたよ」
「春っ?」
招かれて食事をしたとして、せいぜい一晩の滞在のつもりだったルティーダである。
しかし、
「昨年の冬は厳しかったですし、助かりますねえ」
と高齢のソフィに言われると、うなずかざるを得ない。
そして、長く滞在するのであれば、ただの客人ではないことになる。
ミロシュ王国の貴族は、何らかの技能のある者を屋敷に住まわせるのが珍しくない。要するに、有望な者の生活を保障して才能を伸ばし、自分の役に立たせるわけだ。
(花聖女の知識を期待されているのかしら。……あ。まさか)
『あんたはレークの元婚約者で、シアーシャの姉、なんだよな』
そう聞かれたのを思い出す。
(今、最も勢力が強くて支持を集めている貴族が、バルラディ家とギルマイン家。レーク様を除いたら、ギルマイン家のトルフォン様が一番、王座に近いのね)
王家が交代し、国の新たな基礎をじっくり築こうという時に、新王が老齢ですぐに引退では体制が安定しない。新王家の初代の王は若く有望な者とし、家の者が全力で支えるべき、と貴族たちの意見は一致している。
そういった事情で、若いレークとトルフォンが最も新王に相応しく、二人の出身家が争っているわけだ。
(トルフォン様、ライバルのレーク様について、私から色々聞き出して弱みを握ろうとしてるとか? 困る……)
けれど、実際に何か話せることがあるかというと、思い浮かばない。
(私……レーク様のこと、何も知らなかったのね……)
メイドらしき女性が、茶道具を持ってやってきた。しかしやはり、ルティーダを見るなり怯えた表情になる。
震える手で茶を入れようとするのへ、ソフィが「私がやりますよ」と声をかけた。
彼女はほっとしたようにうなずき、急ぎ足で立ち去っていった。
ソフィはニコニコと茶を淹れ、カップに注ぐ。
「さ、どうぞ。ねえルティーダ様、ここなら花を枯らす心配もないですし、お化粧、落としてしまいましょうか。お召し替えもいたしましょ」
「……そうね」
ルティーダがためらいつつも微笑むと、ソフィは腕まくりをした。
「腕が鳴りますわ!」
(……?)
夕食の時間になり、食堂に現れたルティーダを見て、
「おっ……」
とトルフォンは声を上げた。
挨拶する彼女の顔には紋様がなく、ソフィの手で自然な化粧が施されている。装いは、空色の地が白いレースに透けた、上品なドレス。淡い金の髪は綺麗に編み込んであった。
花聖女は貴族ではないが、幼い頃から神殿で暮らし、教育から礼儀作法まで叩き込まれる。私服も、聖なる彼女らに相応しいものを誂えてあった。
黙っているトルフォンに、ルティーダは少し心配になった。
「あの……滅多にこういう格好はしないので、ドレスはこれしか持っていなくて」
何しろ、追放された身である。
トルフォンは「ああ、いや」と瞬きをし、ニッと笑った。
「よく似合ってる」
「あ、ありがとうございます」
当のトルフォンも、山を駆ける時とは異なる、若い貴族男性らしい格好だ。黒地に金糸の入った派手な上着も、彫りの深い顔立ちにがっしりした体躯の彼にはぴったりなのだった。
トルフォンが急に客を連れてきたため、豪華な食事はお出しできない、と管理人夫妻が言っていたらしい。が、運ばれてきた料理はルティーダには十分すぎるものだ。
(もし、すごいご馳走だったら、食べつけていないからきっとお腹が大変なことになっていたわ。美味しかったし量もちょうどよかったって、後で伝えよう)
ルティーダはそんなことを思いながら、ありがたく料理を楽しむ。
トルフォンも旺盛な食欲で料理を口に運び、その合間に尋ねてきた。
「顔の紋様、消せるんだな」
「はい。染料に合わせて、この染料を落とす専用の薬も作ってあるので」
「それも自分で作ったのか」
トルフォンは感心している。
「神殿から山の中に追放された、ときたら正直こう、諦めきったひどい暮らしをしてるもんだと思ってた。だが、あんたは新しいものまで生み出してる。さすがは高位の花聖女だな。いや、あんただからか?」
(……この方……)
視線を上げて、ルティーダは彼を見つめた。
(レーク様と王位を争っている方だけど、レーク様とは全然違うことをおっしゃるのね)
すると、まるで彼女の考えを読んだように、トルフォンは「レークは」と口を開いた。
「あいつ、あんたを守らなかったんだな。婚約してたのに、ひどいもんだ」
「それは……」
『神に誓う前でよかったよ』
淡々と言われた言葉は、心に刺さったままだ。
「……花聖女としてのお役目を果たせない私を、妻にするわけにはいきません。仕方のないことです」
「結婚式で花が枯れたんだから、『神が「レークは王に相応しくない」とおっしゃっている!』ってことにすりゃよかったじゃないか」
トルフォンはとんでもないことを言い出す。
「こういうのは言ったもん勝ちだ。あんたを捨てたレークはざまぁみろだし、あんたも花聖女の地位を守れたかもしれないぞ」
「な、何てことを。花聖女は、神を利用するようなことはしません!」
「ついでに花聖女に返り咲いて、俺と結婚して王妃の座を射止めてみないか?」
「話、聞いてます!?」
言い合いのようになってしまったことに気づき、ルティーダは我に返った。
(そうだった。トルフォン様はもしかしたら、私を利用するために連れてきたのかもしれないんだから、気をつけなくちゃ)
軽く咳払いをして、居住まいを正す。
「レーク様の妻になったのは、私の妹です。シアーシャが不幸になるようなことを、私がするはずないでしょう? ……妹はどうしているか、ご存じないですか?」
「ご立派に妻をやってるだろ」
ケッ、とトルフォンは不機嫌そうに肩を揺らした。
「今はバルラディ家が、新王家に選ばれそうな流れに傾いてる。もしそうなりゃ、春には戴冠式だ。シアーシャが祭司として、レークの頭に王冠を載せるんだろうよ」
王家に入った花聖女は、その力で王族を守るのと同時に、王族に関する全ての儀式を司るのが通例なのだ。
「シアーシャが王妃になるんですね……! あの子も十分、強い力を持った子です。立派にやっているならよかった」
ほっ、とルティーダは胸をなで下ろす。
責任感の強いルティーダは、自分が役目を果たせなかったこと、その重責を突如としてシアーシャが背負わなくてはならなくなったことを、申し訳なく思っていたのだ。
「何をほっとしてんだ。本当ならあんたが王妃になってた可能性だってあるんだぞ。少しは怒れよ、ったく」
トルフォンは呆れた様子で、肉を一切れ、口に放り込んだ。
「言っておくが、今のミロシュ王国に必要な君主は、レークみたいな浅はかな奴じゃない。俺だからな!」