第五十八話 悪夢の始まり~Nightmares Nest There~
実は健康志向なので細かな運動を欠かさない、というスレイヤーはそこそこ多い。
掛居東誠しかり鷹城佐重樹しかり……。 それはビルを階段で移動する今林真理亜もそうなのだ。
スレイヤーの一員である今林真理亜の行動範囲は意外と広い。
何しろ《悪魔喰らい》である彼女の様な存在にとって、それまでのちょっとした運動など運動とは呼べないものに成り下がっているのだ。 体力も持久力も只の人であった頃とは比べものにならない。
ましてや彼女の様に、狂気も精神的負荷も全く気にせず悪魔を喰っているのであれば、その総合的な効果は通常より一線を画したものになるのは当然と言えよう。
昔は一時間も歩けばへとへとだった。
今は一時間を平気で走る事も出来る。
勿論、ハイヒールを履いてそんな事はしないが、そうする事も可能だろう。 今の身体なら靴擦れも起こさない。 擦れても皮膚が破れないし、多少傷ついたところで直ぐに治る。
兎も角そこで心配になるのがカロリーの消費量である。 他者から見れば「そこじゃないだろ!?」とのツッコミが入りそうな些事であるが、彼女の強迫観念染みた美貌への執着はそもそもの彼女の行動原理なのだ。
美しくなる為に整形をし、動く為ではなく魅せる為に肉体改造を行い、恨み辛みではなくその美貌を得る為に多くの女魔の血を浴び、飲んできた、エリザベート=バートリーさながらの「吸血鬼」。
だからこそ気にするのは、疲れない、汗をかかない運動でカロリーは消費されるか否か。
一応、スレイヤーの研究員達によれば、非デモノイーターと同様以上の消費量であるとの事だが、それを信じ切れない彼女の運動量は増加の一途を辿ったのだ。
そのせいで彼女の「散歩」は今では二区を跨がるほど長距離となっている。 それは時間も相応に彼女から奪うが、そもそも「会社」が彼女に求めているのは事務能力ではなく戦闘力であり、その特異な能力である。
多少全体の勤務時間が減ったところで一定の成果を出しているなら文句をつけられる謂われはなかった。
もっとも、今は師 ――乃高忠範の依頼によりその成果自体も減ってはいるのだが。
この散歩はその気分転換でもあるのだ。
殺さない、という前提の改造はそれなりに気を遣う。 意外と疲れてしまったその精神を癒す為に、そんな気分転換が必要なのだ。
ある程度の自由裁量権があるとは言え、使える道具にしなければ意味がない。 全く好き勝手に出来ないのならば、それは自由であるとは言えないのだ。
そんな制限の中でどれ程勝手に出来るか、という考え方もそれはそれで乙なものだが。
何にせよ、疲弊したのは事実。
隠れ里の中に隠蔽されている実験室を抜け出し、娑婆の空気を満喫する。 隠れ里に置いてきた実験体は放置である。
閉じ込めてはいるものの食料くらいはあるし、万が一『変動』もしくは『変遷』と呼ばれる隠れ里内の地殻変動が起こって、それで死亡または行方が知れなくなっても、別に手駒が減るだけに過ぎない。
体勢に影響は少ないのだ。
師の依頼とて所詮、催し物の一幕。 多少の気は遣うが、それは彩りに拘るだけの「お遊び」に過ぎないのである。
とは言っても、彼女の監視体制は今でも継続されている。
変動が起こってしまえば流石に対応出来ないが、少なくとも逃走されないだけの状態は確保されているのだ。
もしアクマなどに隠蔽が破られたら、犠牲になった実験体には花でも贈ってあげよう。
カサブランカやダリア、ガーベラなどがいいだろう。 新たな旅立ちの、乾杯の音頭を取るに相応しい。
そんな事を考えながら今林真理亜は散歩を続ける。
楽しそうに。
嬉しそうに。
その想いの根底にあるのは、淀みに澱んだ悪意。
混沌の如く、形のないヘドロの様な澱みの集合体。
だが、外に見せるのは微笑み。
誰にも注意を払わせない笑顔の仮面。
そこに、以前の様な滲み出る『何か』は感じられない。
以前より堅固になった仮面は、彼女の悪意も澱みも隠蔽する。 そんな隠れた悪意が周囲を翻弄するのだ。
だからこそ、彼女はスレイヤー内で様々な二つ名を付けられた。
何もしていない様に見えて、小さく働きかけ人を操る事から『扇動者』、『黒幕』と。
自室で何をしているか知る者からは『吸血鬼』、『拷問鬼』と。
ただ近寄ると感じた怖気から『悪意』と。
もっとも、今の彼女はそれを周囲へ感じさせない為、別の二つ名も出来そうな具合ではあるが。
自身の二つ名に一喜一憂する年齢でもないはずだが、それでも気に掛かるのは周囲の評価、認識が知れるからだろう。
ちなみに今現在その候補に入っているのが『澱の女王』。
澱とは一見澄んで見える液体の底に溜まる沈殿物。 普通はワインなどの液体内にある成分が結晶化したものの事だが、心の澱などと表現される場合、不満などが解消されずに残り続けるネガティブな感情、心の中の蟠りの事を表わす様になる。
つまり同僚達は「一見」澄んで見える「外見」、覗き込まないと見えない「澱」を「見えなくなった悪意」になぞらえているのだ。
恐らくだがワインの澱が苦みや渋味を持ち舌触りも悪い事から、嫌がられているのも命名要因のひとつだろう。
面白い縦令をするものである。
そんな事を思い出し、笑みを浮かべながら今林真理亜は散歩と言う名の遠距離移動を続ける。
時節柄、歩く人間の少ない街中を、ひとりの少女が歩いているのが見えた。
小学生か、それとも中学生くらいか、羨ましい若さを持った小娘。
笑顔のまま、何処かで見たような気のするその顔を喚起する。
少女の顔は極自然な笑み。
自身の見たモノとは表情が違う気がする。
近づく距離。
顔が、表情が見える。 見えやすくなる。
見た事がある、はずの顔。 見た事がないような気のする表情。
時折後ろを振り返るのは連れ合いがいるからか。 だがその相手は視界に入らない。
近い距離。
もうすれ違う距離。
思い出せない。
気のせいかと結論づけようとした時、天啓のように閃いたのは神の采配か悪魔の気まぐれか。
「お嬢ちゃん」
なるほど、簡単に気づけるはずもない。
何せ彼女が見たのはモンタージュにも等しい似顔絵染みたそれ。 数少ない生き残りの目撃証言から出来た無表情な少女像。
すれ違い間際に呼び掛ける。 振り返る少女へ「仮面を外した」視線を向けた。
それで反応しかけるのは流石は『黄泉御前』であろう。
だが、それは致命的に遅い。
「お休みなさい」
「――かおりっ!?」
『黄泉御前』が意識を失うのと殆ど同時に、より小さな少女と高校生くらいの少年が姿を見せる。
少年はすぐには動けていないが、少女は既にこちらへ駆けだしている。
(……勿体ないけど、仕方がない、か)
素体として極上品であろう『黄泉御前』は惜しいが、偶々見つけただけのそれに固執する意味はない。 倒れ込んだ肢体を駆ける少女へ放り投げる。
慌ててそれを受け止め、戸惑う少女を尻目に、身を退きながら周囲に無数の幻を重ねていく。
「えっ? えっ?」
偶々見つけて、それを戦力外に出来たのなら万々歳。 『黄泉御前』を操れたならあの程度の実験体を使う意味は無いに等しい。 そう言い切れるほどの格差はあるが、それとて結果はそう変わるものではない。
――もう悪夢の種は仕込まれたのだから。
だからわたくしは逃げるだけ。
幻の中、彼女たちに背を向け歩き出す。 どうせ彼等にわたくしは見えていない。
◇ ◇ ◇
香はそれから昏々と眠り続けている。
時折うなされているのが判るが、起きない。 起こす事が出来ない。
揺すっても、叩いても、瞼を引っ張っても起きてくれない。
そうなると原因は魔法的魔術的なものだと推測出来たが、ロジーナからのアプローチは悉く効果を為さなかった。
マヤや千夜も協力したが、状態の解除どころか原因の究明も出来ずにいる。
香が眠り続けて三日目。
その原因を見破ったのは母の愛、ではなく本社から戻ってきていた徳倉鏡子であった。
「夢魔?」
「ええ、所謂リリムやエンプーサ等ではなく、もっともっと古い原初の夢魔ナイトメア……、に近いモノかしら?」
彼女にしては珍しく、何処か悩むような仕種で言った。
「ナイトメアって、馬みたいなヤツですか?」
ゲームに出てくる「ナイトメア」は黒い馬の姿をしたモノが多い。 理由は知らずとも知識としてそう言う実態を知っていた連理が問い掛ける。
それを聞いた鏡子は困ったような表情を浮かべた。
「それ、誤訳なんですのよ? ナイトメアというひとつの固有名詞を夜と牝馬に分けてしまった事で創られた別の魔物ですわ。
本来は決まった形を持たない不定形の魔物ですわね」
ちなみに「黒い馬」Verのナイトメアも、グレムリンやモスマン等より余程古いが1800年代後半に新生していたりする。 新しめの魔物なのだ。
「それで、近いモノというのは何でしょう? そのものではないと言う事でしょうか?」
問い掛けるのはロジーナ。
呪術医といっても夢へのアプローチは多くない。
夢の世界への干渉は夢の世界の住人が行うものなのだ。 だからこそ夢魔に囚われた人間の多くは解放されずに破滅へ至る。
眠ったまま永遠へ誘われるのだ。
だからこそ彼女は冷静に冷淡に事実を確認しようとしている。
一筋の光明を、何とか見つけ出そうと。
「夢魔である事に違いは無いのですけど、どうも彼等らしくくない、と申しましょうか。 ただ連理さんと栞さんの見たという相手、恐らくスレイヤーですわ」
「――また、あの殺戮者どもが……!」
それを聞いた香の父・隆盛が怒りの滲む声を出した。
スレイヤーに彼等家族三人は惨殺され、唯一の生き残りたる香が改めてここで被害に遭っているのだ。
彷徨う屍体である彼のこめかみに青筋が浮いて見えるのは気のせいではない。
「ですから恐らくは夢魔単体の仕業ではなく、《悪魔喰らい》の様なちからで混ざり合った、混沌とした能力なんだと思いますわ」
「……混沌としてるから原初の、ですか?」
「そもそも悪夢を見せるのは古いタイプの夢魔ですわ。 キリスト教の興隆以来彼等の見せる夢は淫夢に変化していきましたもの」
この宗教が趨勢を握った中世の頃では、性、特に女性は悪とまでは言われなくとも、良くないものと見られた。
そのせいか禁欲主義や避妊の禁止、同性愛の禁止、性快楽の否定などが取り沙汰され様々な混乱を招いたともされる。
そんな教会上層部が他宗教の神話を改変し生み出したのがインキュバス、サキュバスに代表される「夢魔」達である。
奇しくもキリスト教も最盛期、ヨーロッパ中に広まったその「認識」は世に広まった夢魔像を大きく書き換え、結果としてナイトメアの半数以上がインキュバスやサキュバスに変化したとされる。
さらにその後は夜の牝馬へ変化した者もいる為、原初の夢魔はその数を著しく減らしてしまったのだ。
「と言っても、そんな永く生きたナイトメアを直接喰らう事が出来たとは思えませんから、恐らく数多くの夢魔を喰らった事で、偶々その様な能力を得たのでしょうね」
「どうやればかおちゃんを起こせる――んですか?」
そう言うのは栞。
目の前で妹に危害を加えられた姉。 その表情は怒りとやる気に満ちている。
「本来彼等を追い出すには『神の名において』命ずるものですが、現状それは通じません。 彼女の内に巣くっているのは夢魔ではなく人間だからですわ」
鏡子はそう言うと、香にそっと手を伸ばした。
「ですから、直接追い出してしまって下さいな」
大妖怪はそう言って、何故か連理に微笑みかけた。
今回使った真理亜の能力はとある事情により、一度に相手取れるのはひとりだけです。 正確には、ふたり以上を相手に使うと本人もヤバくなる能力なので。
その代わり、相手の抵抗を抜けたら一度で無力化出来ます。
ちなみに以前書いたジョブスでは???になっていた能力なので、見直しても判りません。 まあ、ジョブスの時点よりパワーアップしてるんですけど。
ナイトメア云々は記憶だよりで書いてます。
昔読んだはずなのに、全然由来が見つからない!
本来の由来と違っていましたら、ああこの世界はそうなんだな、と思っていてください。




