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第八話 マトリョミン

 志乃はペントハウスに通うようになった。バイトの時間が減るのを気にしてか、浩宇は豪華な昼食を用意してくれた。初めは辞退したが、一緒に食べてくれた方がリーシャンの食が進むからと言われると断り切れず、ご相伴にあずかることになった。と言ってもリーシャンはいつも、志乃の半分ほどしか食べないのだが。

 リーシャンは志乃のことを知りたがり、大学での授業の話を目を輝かせて聞いた。時折り質問を挟むので理解しているのが分かる。しかし聡明なのかと思いきや、驚くほど世間知らずで子供っぽい。不思議ちゃんだ。そしてハープやピアノを奏でるリーシャンは、とても素敵だった。

 彼はいつから此処にいるのだろう。そして、この部屋を出たことがあるのだろうか。いつでも電源ランプが点いている天井の隅の監視カメラは、防犯の為というよりは見守りに近い。どんな事情があるのだろう。訊いてはいけないような気がした。秘密を暴こうとすれば何かが壊れてしまいそうな気がして、志乃は問いかけたい言葉をそっと胸に仕舞い込んだ。


「リーシャン、これは何?」

 志乃の問いにリーシャンが振り向く。部屋の中央にあるカバーを掛けられた何か。志乃は初めてここに来た時から気になっていた。

「これも楽器?」

 この部屋にはテレビもパソコンも携帯もない。だから単純に楽器だと思ってしまったのだが、オーディオ機器かもしれない。

「これは……」

 リーシャンは少し躊躇した後で、そっとカバーを外した。四角い箱の片方にアンテナが立っており、反対側には水平方向に長い持ち手のようなものが付いている。何だろう。

「これは、テルミン」

 リーシャンが言った。テルミン、聞いたことがある。空中で手を動かすだけで音楽を奏でることが出来る機械だ。SFに出てくるような電子音が鳴っているのをテレビで見たことがある。

「壊れてるの?」

 この部屋に来るようになってから一か月になるが、見たのは初めてだ。ずっとカバーを掛けられたまま此処にある。

「ううん、そうじゃないけど」

 リーシャンは言葉を濁し、またテルミンにカバーを掛けた。

「弾かないの?」

 聴いてみたかった。リーシャンが奏でる、宇宙の音。

「うん。また今度ね」

 ポツリとそう言って、リーシャンは志乃の顔を見た。どこか視線が定まらない、不思議な眼差し。

「聴きたい?」

 そう言って、少々困ったように首を傾げる。志乃が頷くと、リーシャンは暫く考えた後、奥にあるクローゼットを開けた。

「これでもいいかな?」

 手に持っていたのはマトリョーシカ。大きさの違う人形が入れ子になったロシアの民芸品だ。リーシャンは志乃の側に戻って来ると、人形をひっくり返し、底にあるスイッチを入れた。

 テーブルに置いて手を翳すと、奇妙な音が鳴った。テレビで見たテルミンの音に似た、不思議な電子音。

「マトリョミンだよ」

 リーシャンが両手を人形の側に(かざ)し緩やかに動かすと、驚くほど澄んだ音が響いた。弦楽器の音に似ているけれど少し違う。何というのか、もっと自然の音に近い。風の音? 鳥の(さえず)り? 違う、これは人の歌声だ。人魚の声、ローレライの歌声だ。

 リーシャンは志乃が知っている曲を弾いてくれたが、それは全く異なる(おもむき)を持っていた。優しくて悲しくて、胸が震えるような。

「ユキノも弾いてみて」

 手を取ってマトリョミンに翳す。けれど、どれだけ頑張ってみても鋸が反るような音しか作り出すことができなかった。リーシャンはそれが珍しかったのかとても面白がり、暫く二人して奇妙な音を立てて楽しんだ。

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