第七話 ペントハウス
驚いたことに駐車場の奥にもう一つ、最上階直通のエレベーターがあった。スムーズに四十五階に到着してエレベーターを降りると、磨き上げられた廊下が広がっており、少し進むと非常階段の入口があった。ここを右に折れると、先日志乃が乗ったエレベーターがある筈だ。非常階段を通って屋上に出る。強い風が吹いた。
「ペントハウスは後から建てたから、どうしてもこの行き方になってしまって」
言葉が風に消される。玄関にカードキーを翳して、浩宇はドアを開けた。玄関を抜けて部屋に入ると、ひんやりした空気が身体を包んだ。青い光が降り注ぐ、音のない世界。立ち止まってしまった志乃を置いて、浩宇は奥のドアをノックした。
「入らないで」
中から声がした。鍵は掛かっていないらしく、浩宇がドアを開け中に入る。短い音で構成された言葉が飛び交うのがドア越しに聞こえた。ユキノという単語が混じった気がして奥の部屋に近付いた時、いきなり扉が開いた。
「弾かないからね。浩宇の意地悪!」
飛び出してきたリーシャンが志乃の前で立ちすくんだ。
「ユキノ?」
大きく目を見開いて暫く固まった後、恥ずかし気に目を伏せる。
「連れて来てやったぞ。満足か?」
後から出てきた浩宇が優しい声で言った。
「謝謝」
リーシャンは上目遣いに浩宇を見て、小さな声でそう言った。恐る恐るといった様子で志乃の顔を伺い、口角を上げる。浩宇がリーシャンの髪を掻きまわし、志乃に感謝の笑顔を向けた。
Happy Birthdayと書かれた小さな丸いケーキ。薫り高い紅茶の横には、先日食べ損ねたクリームパピロが添えてあった。
「やっと笑顔が戻ったな。この二か月は気になって仕事が手に付かなかった」
浩宇がソファに身体を投げ出し、天井を仰いだ。らしくない様子に志乃は笑ってしまう。
「ドゥイブチー」
リーシャンが小さく言った。
「謝らなくていい。誕生日おめでとう」
ドゥイブチーはごめんなさいの意味だと浩宇が通訳してくれた。
「リーシャンは日本で生まれたから日本語の方が得意なんだが、私と話すときは中国語が混じるんだ」
優し気な眼差しで歳の離れた弟を見る。最初の印象から随分変わってしまった。
「浩宇は音楽の仕事をしてるんだよ。趣味で株の取り引きもしてる」
リーシャンが言う。
「逆だ。トレーディングの方が本業だ」
言いながら紅茶にミルクを入れる。浩宇がさっきのカフェで、同じようにミルクを入れたコーヒーをかき混ぜるだけかき混ぜて結局飲まなかったのを思い出しながら、志乃も紅茶に口をつけた。気温の低いこの部屋では、熱い紅茶が美味しかった。
仕事があるから後で、と言って浩宇が部屋を出て行ってしまうと、青い部屋にはリーシャンと志乃の二人だけが残った。
「あのカメラで見えてるんだよ」
リーシャンが天井の隅を指さす。小型の監視カメラがこちらを向いていた。レンズに向かって笑いかけ、リーシャンは志乃に向き直った。
改めてお互いに、簡単な自己紹介をした。リーシャンと浩宇の両親は仕事で世界中を飛び回っているらしく、兄弟二人だけがこのマンションに住んでいるのだという。浩宇の上にもう一人兄がいて、父親の仕事を手伝っているそうだ。
「楽器を弾くの?」
グランドピアノも凄いが、ハープがあるのは珍しい。志乃が聞かせて欲しいと言うと、リーシャンは、はにかみながら頷いた。
「ハープは浩宇が弾くんだけど」
そう言いながら弦を弾く。リーシャンの細い指が紡ぎ出す音は繊細で、和音が驚くほど美しく響いた。知っている曲が不思議なニュアンスを持って奏でられ、青い空間に色を添えていく。ハープを弾くリーシャンの横顔は美しく、より儚げに見えた。
浩宇が戻って来て初めて、ずいぶん時間が経っていたのに気が付いた。夕飯を一緒にと言われたが、さすがにそれは断り、志乃は部屋を後にした。
「ありがとうございました」
エレベーターに向かう廊下で、浩宇は言った。
「また来てやって貰えますか?」
志乃が言葉を返す前に急いで言葉を継ぐ。
「あの子は少し変わっていますが、優しい、いい子なんです。もしご迷惑でなければ」
そう言って浩宇は言葉を切る。少しだけ沈黙があった。
「はい。喜んで」
志乃の返事を聞いて、浩宇はほっとしたように笑った。
連絡先を交換し、来週また来る約束をして、志乃はひとり直通エレベーターに乗った。




