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第六話 カウベル

「先日は大変失礼しました」

 そう言ってハオユーは頭を下げた。テーブルに置かれた名刺は、横文字で書かれた職業の下に「リン 浩宇ハオユー」という名前があった。どうすれば良いのか分からなくて、志乃は名刺を見詰めたまま黙っていた。

「今日はお願いがあって」

 注文した品が運ばれてきて、浩宇はそこで言葉を切った。どうぞと言うように手でパフェを勧める。間が持たなくて、志乃はストローを手に取った。

「実はリーシャン……弟が、今日十七歳の誕生日で」

 弟? 兄弟なんだ。でもずいぶん歳が離れているように見える。

「十一歳下の弟です。訳あって、あそこに一人で住んでいます」

 そう言って浩宇はアイスコーヒーを掻きまわした。涼し気な氷の音がしてクリームが混ざっていく。

「私が君を追い返してしまってから、二か月経っても機嫌が直らなくて困っています。誕生日に何が欲しいか聞いたらユキノに会いたいと言って。無理だと言ったら拗ねて寝室に閉じこもってしまった。こんな風に駄々をこねる事など、今まで一度もなかったのに」

 溜息交じりに浩宇は言った。次の言葉を探しているのか、また暫くストローを弄ぶ。

「こんな事を頼める義理では無いのですが」

 氷の音が鳴った。

「会いに来てやって貰えないでしょうか」

 驚いて顔を上げた志乃の目の前に真剣な顔があった。「お願いします」と頭を下げる。状況に付いていけない志乃は、とりあえずパフェにスプーンを刺した。

 冷たいパフェが頭を冷やしていく。浩宇は志乃の名前を知っていた。通っている大学も、おそらくは履修のカリキュラムも。身元を調べたのだろう。不思議と腹は立たなかった。「琳タワー」の最上階に住む琳兄弟。あのビルのオーナーもしくは、その家族に違いない。中国の富裕層が、どこの馬の骨とも分からない者を近づける訳がない。しかし、志乃の何が気に入られたというのだろう。リーシャン。鈴のような名前の少年。料理を届けた時に顔を合わせただけなのに、また会いたいと思ってくれた。ブローチを返しに行ったときに向けられた無垢な眼差しは、自分には過ぎたものに感じた。信じていいのだろうか。誰かに必要とされるということは、とても誇らしいことだ。けれど。

 暫くの沈黙の後、志乃は空のグラスにスプーンを入れた。カランと小さな音がする。目の前には、途方に暮れた様子でアイスコーヒーを掻きまわす姿があった。

 ふと、弟に拗ねられて困り果てている浩宇を想像して可笑しくなった。

「分かりました。伺います」

 あの眼差しを疑ってはいけないような気がした。そして志乃は、彼が住むあの世界に堪らなく興味をひかれた。

「本当ですか。ありがとう」

 ほっとしたようにそう言って、浩宇はすっかり氷が溶けたアイスコーヒーに手を付けることなくレシートを手に取った。

 車をまわしてきますと言って浩宇が席を立った後、志乃は残ったアイスティーを飲み干し、水のグラスも空にした。喉が渇いて仕方がなかった。

 のろのろと立ち上がり店を出ようとした時、ちょうど入って来たカップルとぶつかりそうになった。

「しーちゃん」

 驚いたように声を上げたのは、水野直樹だった。そして隣には斎木めぐみがいた。

 こんなところで会いたくなかった。一瞬の表情から読み取れたのは、申し訳なさという名の憐れみと自信。それが志乃をより傷つけた。直樹の腕に華奢な腕を絡め、めぐみが小さく会釈した。何か言いかけた直樹を促して席に着く。志乃を横目で見て勝ち誇ったような笑みを浮かべたかと思うと、そのまま無視するように顔を背け直樹に笑いかける。悔しさに唇を噛んだ時、再びカウベルが鳴った。振り向いためぐみが目を見張る。視線が浩宇の顔と、右手に下げたキーの間を行き来した。見られることに慣れているのだろうか、浩宇は先程と同じく気にする様子もなく志乃に近付いた。

 ふと直樹たちに目をやった浩宇は、何を思ったか志乃の背中に手をまわした。エスコートするように肩を抱いてドアに向かう。めぐみの表情が優越感から嫉妬と羨望に変わるのを見て、志乃は何故かむなしさを感じた。


「何のつもりですか?」

 ベンツの助手席に座り、志乃は尋ねた。元彼の事も当然調べたのだろう。しかし何故あんなことを。自分が男として優位であることを見せつけるような態度だった。

「気に障ったのなら謝ります。あの手の女性は嫌いなもので」

 少し感情の入った言葉に、志乃は微笑んだ。

「いいえ」

 怒りもなければ爽快感も無い。もう直樹に未練はなかった。あの不可思議な青い世界を垣間見、今からそこへ向かおうとしている志乃にとって、色褪せた現実は既に何の意味も持たなかった。

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