第五話 ハオユー
駐車場の外からマンションを見上げ、志乃は大きく息をついた。何が起きたのだろう。『帰らないで』リーシャンの悲しそうな声が耳に残る。不思議だった。自分に向けられた好意。真っ直ぐな感情。信じられない思いだった。ほんの二か月前、志乃は要らないと言われたばかりだったから。
講義で知り合った水野直樹と付き合い始めたのは去年の夏だった。ドライブに行こうと誘われたのが最初のデートで、履修登録を詰め詰めにしている志乃に時間を合わせて、直樹は色々な所に連れて行ってくれた。少しばかり良い車に乗っているのが自慢で、カッコつけの癖に時々抜けているところに志乃は惹かれていった。
将来を夢見始めた頃、唐突に志乃は失恋した。他に好きな女性が出来たのだという。
『しーちゃんは強いから一人でも大丈夫だろう。でも彼女は違うんだ』
か弱くて、俺が守ってやらなきゃ駄目なんだ。どこかで聞いたようなセリフだった。新しい彼女、斎木めぐみは確かに儚げで可愛くて、でも決して弱くはなかった。見た目に反して狡猾で計算高く、なかなか時間の取れない志乃の隙をついて直樹に近付いたのだと、後で友達が教えてくれた。
私は強くなんかない。どうして決めつけるの? 言葉には出来なかった。ただ黙って身を引いた。怒ればよかったのだろうか。泣いて縋ればよかったのだろうか。きっと無駄だろう。どんな理由であれ、詰まるところ志乃は捨てられたのだ。
夕暮れが近付いていた。志乃は停めてあった自転車にまたがり、勢いよくペダルを漕いだ。
梅雨が明け、蝉の声がうるさい季節になった。前期試験の最終日、リュックを背負って正門を出た志乃は大きく伸びをした。出来栄えはまずまずだ。頑張ったご褒美にパフェでも食べに行こうか。そう思いながら信号待ちをしていた志乃の前に、黒光りする車が停止した。メルセデスベンツのエンブレムが付いているが、見慣れない車種だ。直樹が読んでいた雑誌に載っていた高級車に似ているなと思いながら眺めていた志乃は、運転席のドアから降り立った男性を見て身体を固くした。
「高橋志乃さん」
少年からハオユーと呼ばれていた男性が、志乃にそう声を掛けた。
「お話ししたいことがあります。乗ってください」
冗談じゃない。志乃は眉を顰めて首を振った。そっと後ずさりして踵を返そうとした時、「待ってください」と呼び止められた。
「分かりました。車を停めてきますから、あの喫茶店にいてください。すぐに行きます」
大学のすぐ隣にあるカフェを指さし、ハオユーは一方的にそう言って車に戻った。走り去る車を見送り、志乃は信号が再び赤になるまでその場に突っ立っていた。
無視して帰っても良かったのだろうが性格上そうも出来ず、志乃は学生で賑わう広いカフェの奥に座っていた。メニューを見る振りをしながら入り口を伺う。少ししてカウベルが音を立て、入り口の扉が開いた。学生たちの視線が集まる。改めて見るとハオユーは魅力的だった。端正な顔立ちにすらりとした長身。長い髪に似合う、ラフだけれど高級な服を身にまとった姿は、まさしく雑誌から抜け出たようだった。
「お待たせしました」
皆の視線は志乃に移動し、いたたまれなくなった志乃はメニューで顔を隠した。ハオユーは気にした様子もなく、ウェイトレスにアイスコーヒーを頼み、志乃に「決まりましたか?」と声を掛ける。
「アイスティ」
小さくそう言ってメニューを見続ける志乃に、何を思ったかハオユーはパフェを追加注文した。




