最終話 莉静
不安げな視線は、志乃を捉えたまま動かなくなった。ぼんやりと焦点が定まらない眼差しは、志乃を通して、もっと遠くを見ているようにも思えた。伴奏のハープの音だけが流れるなか、沈黙の時間は過ぎていく。そして、微かなざわめきが起き始めた時。
風が吹いた。
テルミンが奏でる強い風の音が、空気を動かしたように感じた。吹きぬける風の音に、風見鶏が音を立てるキイキイという微かな軋みが混じる。そのハーモニーは物悲しくて不穏で、どこか懐かしい。
遠くに波の音を聞いた。凪いだ海にさざ波を立て、風は吹き渡っていく。
密かな泣き声のように、小さく悲しい音色が響いた。愛情に飢えた幼い子供がすすり泣く。僕を見て。誰か、僕を愛して。弱々しく訴える声は無視され、悲しみは内へと抑え込まれる。
突然差した光、しかし伸ばした手は突き放され、さらなる絶望へと落とされる。ごめんなさい。ごめんなさい。いくら繰り返しても、消えることのない罪。深い海の底で、彼は動きを止める。
心の奥底へと記憶の糸を辿るように、テルミンは歌う。
目の前に小さな光の粒が落ち、彼は目を覚ました。両手で包むように捕まえた、その光は優しくて暖かくて、凍り付いた心から小さな雫が落ちた。どこへも行かないで。ここで一緒に暮らそう。けれど光の粒は波にさらわれ、彼の手から滑り出た。
上へ上へと光の粒は彼を誘う。駄目だよ。僕はここから出られない。罪を犯したから。待って。行かないで。
荒れ狂う波が彼を海の底へと引き戻す。消えないで、愛しい光。どうか戻って来て。
時の止まった海の底で、彼は待ち続ける。
ある日、海は荒れた。穏やかなはずの海底にまで波は押し寄せ、彼は波に攫われた。濃紺が黒く濁り、やがて視界が真っ暗になる。何も見えない。何も触れない。すべての望みが絶たれた。悲しみに胸が張り裂け、彼は闇に溶けようとしていた。
そのとき目の前に、再び光の粒が現れた。光の粒は大きくなり、彼を包み込む。
優しさと慈しみに溢れた暖かな光。互いの命が溶けあうような感覚。魂が幸せを感じた。
心は満たされた。もう何もいらない。あるのは、ただ感謝の想いだけ。
ありがとう、僕の大切な人。そして、さようなら。
優しい記憶だけを胸に残して。すべては想い出の中に。
演奏は終わった。誰一人口をきく者はいなかった。
あちこちで啜り泣きが聞こえ、暫くして大きな拍手が沸き起こった。
「こんなのCDには無かった。完全オリジナルだ。すげえ」
べそをかくような声で、岸本が言った。
リーシャンは車いすに戻り、舞台袖のスロープを降りて客席へやって来た。
「新進気鋭のテルミン奏者、琳 莉静さんの演奏でした」
岸本の声はまだ震えている。車椅子は主賓席の前へ進み、リーシャンは彰人と志乃に丁寧に頭を下げた。
「おめでとうございます」
彰人に向かってそう言う。
「ありがとう」
リーシャンの手を握って、彰人が涙声で答える。小さく頷いて、リーシャンは志乃に向き直った。うつろに見えていた眼には、今、優しい光が差しているように思えた。迷いから解き放たれ、心が澄み切ったように。
儚げな佇まいはそのままで。けれど、守ってあげないといけないリーシャンは、そこにはいなかった。包み込むような優しい眼差しは、志乃の胸の奥に残っていた小さな氷の欠片を溶かし、暖かな一滴に変えた。
「リーシャン」
まともに声が出なかった。消えそうに掠れた自分の声は、ちゃんと彼の耳に届いただろうか。
「莉静、ですよ」
そう言った後、彼は微笑んだ。花のつぼみが開くようにふんわりと優しく、とても穏やかに。
「おめでとう、ユキノ」
完