第十九話 サプライズ
志乃は大学を卒業し、社会福祉士と精神保健福祉士のダブルライセンスを取得した。けれどソーシャルワーカーの仕事には就かず、小さなメーカーに就職した。
探してはいけないのだ。忘れなければいけないのだ。そう自分に言い聞かせて、志乃はリーシャンを胸の奥に仕舞い込んだ。傷つけないように、大切に。幾重にも、柔らかな記憶のベールに包んで。
幼稚園で一緒だった豊川彰人と再会し、平凡で穏やかな恋愛を経て、今日、二人で婚姻届けを出した。夫になる人、豊川彰人。妻になる人、高橋志乃。志乃は彰人の妻になった。記憶は造られ、書き換えられるものだ。深い眠りから覚めた時のように、大切な想い出もまた、いつかは消えてしまうのだろうか。
船の中のような店内に青い光が満ちる。乾杯の音頭と共に、志乃たちは皆の祝福の声を浴びた。
「サプライズがあるんですよ」
幹事の岸本太郎が赤い顔で言う。音楽の演奏があるらしい。
「デビューしたての新人なんですけど人気急上昇中で、ちょっとやそっとじゃ呼べないんですよ」
コネを使いまくってやっと来てもらいました。そう言う岸本を隣の席の同僚が小突いた。
「説明しすぎるなよ。サプライズの意味がなくなるだろ」
へへ、と笑って頭を掻く岸本が、皆の笑いを誘う。岸本は立ち上がり、店内に設えられた小さなステージの前で、わざとらしい咳ばらいをした。
「じゃあ、ここからは内緒で。準備が出来たようなので登場してもらいましょう」
お願いします。という岸本の声を合図に舞台のカーテンが開いていく。舞台左側にハープがあるのが見えた。カーテンの端が通り過ぎ、そこに現れたものを見て、志乃は目を見張った。舞台の中央に据えられていたもの、それは、テルミンだった。
拍手の中、車椅子に乗った男性が舞台に現れた。身体が震え、息が苦しくなる。髪を短くし、タキシードを身に着けてはいても、その儚げな横顔を志乃が見間違えるはずはなかった。
車椅子を押す浩宇が、志乃に目礼する。けれどリーシャンは無表情で、その目はうつろにすら見えた。浩宇に手伝ってもらいながら高い椅子に座り直したリーシャンにスポットライトが当たる。表情を動かすことすら出来ずに、志乃は黙ってその姿を見詰めていた。
ハープが静かに和音を奏でる。美しく響く音の中、リーシャンが顔を上げた。正面にいる志乃を見て、ふと不思議そうな表情を浮かべる。怯えたように志乃を見詰める様子は、ペントハウスで初めて会った時に似ていた。
リーシャンは志乃を忘れてしまったのだろうか。すべてを忘れてしまうことで、あの牢獄から出られたのだろうか。